常識ほど宛にならないものはない

誰でも常識を基にして物事を判断する。常識から逸脱することを誰しも嫌う。常識的な行動を誰でもしがちであり、常識に従っていれば世間に波風を立てることはないと安心している。しかし、そんな常識ほど実は宛にならないものはないのも事実である。何故ならば、常識とは時の権力者や権威者、もしくは経済的に恵まれた者が自分たちの権利や権力を守るために作り上げたものを、常識として定着させてきた歴史があるからだ。常識に縛られて生きるのは、人間の本来の生き方と乖離しているケースが少なくないのである。

時の権力者や為政者というものは、自分の政治体制や経済体制を継続させたいと思うものである。だから、政治的や経済的な安定を求めたがる。故に人々の争いや波乱を禁じる為に、社会に常識として定着させたのであろう。平穏な社会を作ることが、自分たちの地位や権威を失墜させないことに通じることを知っていたからこそ、常識に人々を縛り付けたのである。さらに、日本は男性社会であるが故に、権力があり経済力のある男性にとって都合のよいものを常識にしてきた歴史があるのだ。ある特定の人々が意図を持って作り上げた常識を、愚かにもありがたく信奉しているのは実に滑稽でもある。

勿論、中には正しい常識もない訳ではない。しかし、よくよく常識を洞察してみると、いかに男性にとって都合の良い常識が多いことに気付くであろう。しかも、男性や家長にとって女性を家庭に縛り付け、男性が支配し制御しやすいようにするような常識を押し付けてきたのである。良妻賢母という言葉なんかは、その最たるものである。女性は家庭に居て、家族を守るものという常識もそうである。貞女は二夫にまみえずというのも、今は死語化しているが、甚だおかしな常識である。不倫だって、ついこの前までは男性はいいが女性はけしからんという常識がまかり通っていたのである。

『常識とは、18歳までにあなたの精神の底に沈殿した偏見の堆積にすぎない』と言ったのは、かのアルバート・アイシンシュタインである。彼が世界的な大発明の相対性理論を確立できたのは、偏見に捉われなかったからでもある。つまり、アインシュタインが常識に縛られていたとしたら、社会に対して多大な貢献をすることはなかったに違いない。日本における常識は、真理とはかけ離れたものが少なくない。常識という偏見に縛られず、もっと柔軟な思考をしたいものである。そうすれば、もっと自由で斬新な発想が出来るし、多くの市民が平等で公平な生き方が可能になるに違いない。

我々国民が、常識によって生き方を縛られるのを避けるとすれば、何に基づいて生きるべきなのであろうか。真理に基づかないものでも常識というが、真理に基づいた思考・信念を『理念』という。つまり、宇宙の真理や科学的な真理に適っている思考・信念である『理念』こそが、我々に間違った生き方をさせない価値観でもある。この違いを我々は、しっかりと認識すべきであろう。権力者は自分取って都合のよい常識を、メディアを利用して大衆に浸透させる手段を取りやすい。太平洋戦争時、軍部により思想教育をさせられた歴史がある。あたかも正しい常識だと思い込ませられたのである。

日本国憲法では、基本的人権を何よりも尊重しているし、その基本的人権の中で一番優先して守るべきものとして『表現の自由』がある。日本人の殆どは、表現の自由が保証されていると思っていることであろう。ところが、先進国の中で一番表現の自由が制限されているのが日本であることを知らない人が多い。放送法という法律がある。自分たちの政権を批判するような放送を垂れ流すような番組に対して圧力をかけたり、キャスターを交換することを強要したりしているのである。さらには、それに従わないと放送法に基づいて電波の割り当てをしないという恫喝を、TV局に対して平然と行っているのだ。

常識という概念の中で、時の権力者が意図して作り上げられたものは、信用すべきでない。または、男性が女性を自分の所有物や支配物にするために作られた常識に、縛られてはならない。それが、さも正しい真理に基づいたものだと思わせるために、表現の自由を侵害させられたメディアを使って喧伝していることを認識すべきだ。我々国民は、時の権力者にこびへつらい追従するようなメディアを信用してならない。また、古い権力志向の男性が牛耳っているようなマスメディアの論調には、絶対に耳を貸さないことだ。古い常識に縛られることなく、正しい理念に基づいた生き方をしたいものである。

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