人生の岐路に立った時

人生の岐路に立たされた時、人はどのような判断基準で進む道を選ぶのであろうか?先日、ある老婦人の人生相談を受けて、どういう生き方をすればよいのか、ある選択肢を示してあげたのだが、果たしてそれで良かったのだろうかと、今でも考えている。それは、彼女にとって一番辛い生き方であり、困難な道である。敢えて、その道を選ぶことを進めた。それは、彼女と回りの人々にとって、一番幸せを実感することになるだろうと、確信したからである。でも、その過酷さを思った時に、あまりにも気の毒に思えて仕方ない。けれど、あれで良かったのだと思うことにしている。

人は、重大な人生の岐路に立たされた時に、いろんな進むべき道があったとしたら、一番安全な道を歩みたがるものである。けっして、困難で過酷で危険な道は選ばないものである。そして、自分がクリアーしやすい道を選んでしまうことだろう。ところが、こういう安易な道を選ぶと、不思議なもので最悪な結果になりやすいものである。特に、複雑な人間関係を克服しなくちゃならないというような道を選ばずに避けてしまうと、益々人間関係がこじれてしまうものである。つまり、嫌な縁を避けるような道を選ぶと、上手く行かないことが多いのだ。そして、不思議なことに、さらに嫌な縁とつながってしまうのである。

実はそんな経験を自分も、恥ずかしながらも沢山積んできたのである。仕事においても家庭においても、そして地域活動の場合も、同じような失敗を沢山積み重ねてきたのだ。面倒くさい方法や自分にとって辛くて大変なプロセスを嫌がり、安易な方法を選択した時ほど、大変な失敗をしてしまったのだ。または、自分の評価や大きな利益を優先して、進む道を選択した時ほど、大きな失敗をして、深く後悔している。さらには、縁というものをないがしろにして、関係性を無視したような選択をした時も、結果として不幸な目に遭ってきたのだ。

不思議なことに、登山をしている時も同じような失敗をしているのである。登山道を歩いていると、標識がない分岐点にぶつかることがある。そして、もしかすると近道じゃないかと思えるような分岐点に出ることがあるのだ。そんな時に、楽をしようとして道を選ぶと、結果として迷うことが多いのである。または、結果として遠回りをさせられたり、戻ることを余儀なくさせられたりするのである。さらには、近道をした為に、かなり危険な登山道を歩くはめになることがあるのだ。時には、危険な道を選んで転倒して怪我をすることもある。山という自然が、いろんな貴重な体験を通して学ばせてくれているような気がする。『人間楽をしちゃならんぞ!』って。

このように、登山道の分岐も人生の重大な岐路も、安易な道を選んではならないような気がする。すべては、自分にとって苦労を伴う大変な道を選んだほうが、結果として正しいのではないだろうか。昔から言うではないか、急がば回れと。つまり、人生とは重荷を背負って長い登り坂を歩くようなものだと誰かが言っていたが、何も背負わずに下り坂をばかり選んでいたのでは、人間として成長しないのかもしれない。だから、逃げてばかりいると辛い目に遭わされて、益々不幸になるのかもしれない。自分自身が、そういう過酷な運命を選んで、自らの成長を願っているのかもしれない。だとすれば、過酷な卒業試験を選んだほうがいいに決まっている。そうすれば、必ず幸福に思えるような結果がやってくるに違いない。

 

人生の過程において、過酷で困難な岐路を選ぶことは、勇気のいることである。困難な道のほうが、やがては成功するだろうとおぼろげに解っていても、やはり安易で楽な道をついつい選んでしまうのが常であろう。登山をする時に、ロープウェイやリフトを使う簡易な登山道と、自分の足だけで大変な労苦と時間を要する登山道のどちらかを選ぶ際、たいていはロープウェイが使える登山道を選ぶであろう。あえて、私は自分の足だけで登る登山道を選ぶ。また、鎖場や岩場が続く登山道を好んで選択するのである。何故かというと、結果として山頂に立った時の充実感が違うからである。汗をかきかき苦労して登り切った時の達成感は、安易な道の数倍も感じられるからだ。人生においても、苦労して達成した結果は、自分に大きな喜びを与えてくれるだろうし、多大な自己成長も実現させてくれるに違いない。アドバイスに従い過酷な道を選んだ彼女も、結果として大きな幸福感を味わうだろうと確信している。彼女のおおいなる自己成長を、心から願わずにはいられない。

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