生きる意味が見つからない

座間市の猟奇殺人事件で犠牲になられた方々に、謹んでご冥福を祈りたい。なんと、女子高校生が3人もいたという。これからの人生なのに、若くて無念の死を遂げてしまったとは慙愧の念に堪えない。彼女たちに自殺念慮があったとはいえ、本気でこの世を儚んでいたとは思えない。自分の生きる意味が見つからないと悩んではいたであろうが、何とか見つけたいと悩み続けていたのではないだろうか。生きる意味とはなんであろうか。生きる意味を見つけるにはどうしたらよいのか、悩み苦しんでいる若者は少なくない。

生きる意味を見つけて、意気揚々と溌溂とした人生を送っている若者はどのくらい居るのであろうか。若者だけじゃない、中年者、老年者も、生きる意味を完全に見つけて生き生きとした人生を送っているのは稀ではないかと思えて仕方ない。どうして、人々は生きる意味を見つけられないのかというと、それは生きるうえでの確かな価値観を持っていないからである。価値観とは、哲学と言い換えてもよい。人間が何のために生きるのかという目的を持つには、確かな価値観を持つというのが必須なのである。

あなたは生きていく上で、どんな価値観を大事にしていますか?と聞かれて、私の価値観はこうですときっぱりと言える人は、どのくらいいるであろうか。おそらく、日本人の中で、私の価値観はこうですと即座に言えるのは、ほんの一握りの人でしかないであろう。何故なら、日本の学校教育でも家庭教育においても、価値観を教えることはしてこなかったのである。明治維新以降の近代教育制度のもとでは、価値観教育なんて不要だと敢えて避けてきたのである。さらに、戦後には思想・哲学教育は危険だとして、学校教育から一切排除してきた歴史があるのだ。

日本人とは、なんと不幸な人間だときっぱり言い切ったのは、日本を訪れたマザーテレサである。経済的にも豊かで、何もかも満たされているのに、心はいつも満たされていないし他人への思いやりも持てないでいる日本人があまりにも不幸だと感じたらしい。いつも自分だけの物質的な豊かさと幸福だけを追求して、まったく満足できていない日本人は、哀れだと思えたのかもしれない。これもやはり、日本人が正しい価値観を持てないが故の悲しさでもある。価値観を持てない日本人は、生きる意味も持てないし、正しく生きることが叶わない。こんなにも不幸なことはない。

日本のマザーテレサと呼ばれた、森のイスキアの佐藤初女さんは、人間が元気で生きるには誰かの為に役に立っているという実感が必要だと説いていらした。佐藤初女さんほど、人々の幸福に貢献した方は他にいないであろう。多くの人々の命を救い、元気にしてくれた。彼女は、確かな価値観を持っていらしたのは当然だし、人間の生きる意味をご存知だったからこそ、あんなにも多くの方々を幸せにしてこれたのに違いない。自分では何も語ることはなかったものの、その後ろ姿が雄弁に語っていた。

生きるうえでの大切な価値観、そしてその価値観に基づいた人生の意味と目的、それを学校でも家庭でも教えてくれない。だからこそ、マザーテレサや佐藤初女さんは、多くのことを敢えて語らず、自分らの行動で多くの人々に知らしめていたのに相違ない。今は、マザーテレサも佐藤初女さんもこの世には存在しない。しかし、今でも彼女たちの生き様は多くの人々に愛と勇気を与え続けてくれている。そんな生き方を自分もしたいと思っている。生きる意味が見つけられないという不幸な若者を、これ以上増やさないために。

 

※イスキアの郷しらかわでは、生きるうえで大切で正しい価値観を気付き学ぶ支援をしています。また、その価値観に基づく生きる意味や目的を設定するための研修を実施しています。解りやすい言葉で、しかも理解しやすいように物語としてご説明しています。是非、研修を受けてみてください。問い合わせフォームから申し込みください。

自殺をする前にしてほしいこと

神奈川県座間市で起きた、自殺志望者をターゲットにした連続殺人事件は、実に卑劣な行為である。被害者の殆どが若い女性であり、自分よりもか弱い立場の人間を薬やアルコールでさらに反抗できない状況にしての凶行は鬼畜以下の所業である。いくら自殺願望があったとしても、こんなバカな若者に信用させられて、不用意に彼の自宅に招き入れられてしまうというのは、よほど辛かったのであろう。この犯人が巧妙にSNSを利用しながら、言葉巧みに騙していたという報道がされている。人の弱みに付け込むという卑劣な行為は、けっして許されるものではない。

それにしても、自殺志望者でなければ、こんなにも簡単に信用することはなかったであろう。自分と同じ自殺願望者だと、犯人を信じ込んでしまったのだと思われる。このような自殺志望者は、他にも数十万人いると言われている。自殺願望者のSNSサイトでは多くの人々が交流しているらしい。自殺予備軍とも言われる人々がこれだけいるのに、救えないで手をこまねいているのは実に情けない。これらの自殺願望者の中で、本当に自殺しようと決断して、その時を待っている人というのはそんなに多くないと言われている。

しかし、自殺を最終決断していなくても、こんな世の中に未練がなくて、死んだ方がましだと思っている人がいるというのは事実である。社会に絶望し、夢も希望も見いだせず、生きる意味なんてないと思っているに違いない。それだけ、この世は生きづらいと思っている若者たちが多いのであろう。自殺願望者の方たちを救うために、電話での対応やネット上での支援サイトが開設されている。しかし、匿名での応対であり、効果は限定的にならざるをえない。やはり、実際に対面しながらお互いに胸襟を開いての対話による支援でしか、自殺願望者を救えないのではないだろうか。

自殺を願望する人たちを何とか救いたいと、『イスキアの郷しらかわ』は日々活動している。自殺を志望する人たちに叱咤激励は効果がないと言われている。自殺をしてはいけない訳を、正論を掲げてくどくどと説明しても聞く耳を持つ訳がない。社会に対して絶望していているのだから、社会的な貢献意識を目覚めさせようとしても、無駄であろう。ましてや、社会や家族との絆やつながりを大切に考えて、自分を必要としている人がいるんだという説得にも耳を貸さないであろう。本当に思い詰めてしまった方々には、何を言っても聞いてもらえないかもしれないのである。

ただひとつだけ自殺願望者を救えるとすれば、何も言わずにただ寄り添うことだけかもしれない。それも一切否定するような感情を持たず、その人のあるがままを認め受け容れ、暖かく迎え入れる態度が最適であろう。そして、心の籠った温かい食事を提供することである。冷え込んで固まってしまった心を、溶きほぐすのは優しい料理しかない。『イスキアの郷しらかわ』は、まさしくそんな食事を提供している。身体に優しく愛が溢れる食事は、冷え込んでしまった心を温めてくれるに違いない。

もうこの世には未練も、そして夢も希望もなく、生きる意味なんてないと思っている方たちがこのブログを読んでくれたなら、最期の最期にイスキアに一晩だけでも訪れて泊まってから決断してほしい。自殺するのは、それからでも遅くはない筈だ。何を言わなくてもいいし、何をしなくても良い。ただ、泊まって最期の食事をしてほしい。住所と氏名だって明かさなくてもよい。何も聞かないし、問いただすこともしない。もし、何かしら言いたくなったとしたら、ただ黙って聞くことはしよう。だから、自殺をする前に、一度だけイスキアの郷しらかわを訪ねてほしい。

 

※申し込みは、問い合わせフォームからしてください。通信欄に「そっとしてほしい」と記入してもらえば、何も聞きませんし、こちらから何もアクションをしません。食事だけを提供いたします。聞いてもらいたいことがあるなら、何も言わずに黙って伺います。

体内細菌と共生する

一般的に腸内フローラと呼ばれる腸内細菌叢(そう)の重要さが認識されている。腸内細菌が人々の健康な生活に欠かせないものだということが判明してきたのである。それは、身体的な健康ばかりでなく、精神面での良い影響もあることが分かってきている。脳内ホルモンの分泌など、脳の正常な働きにもおおいに関係していることが分かり、その重要性が認識されている。腸内環境が悪化すると、大腸の疾病だけでなく、人間の全身症状が悪化することが知られている。現代人に多い、過敏性大腸などの難病も腸内細菌が影響していると言われている。身体全体の免疫にも関係しているので、腸内環境が悪化すると、いろんな感染性疾患も発症しやすくなる。

さて、腸内細菌を代表とする体内に存在する細菌であるが、実に様々なものがあると言われている。ついこの前までは、これらの細菌やウィルスの重要性は認識されていなかったし、百害はあっても一利もないと思われていた。したがって、体内の菌やウィルスは駆除しても何の影響はないと思われていたのである。実際に、医療機関において投薬や注射によって抗生物質や抗菌剤が投与され、体内の菌は駆除され続けてきたのである。近年、胃潰瘍の原因はヘリコバクター・ピロリ菌だとされて、その除菌療法が保険適用の効果もあり、多くの人々は勧められるままに除菌療法を受けてしまった。抗生物質の乱用によって、体内細菌は除去されてしまう状況になっている。

ところが、ヘリコバクター・ピロリ菌を駆除したら、重篤な逆流性食道炎で苦しむ人が増えた。さらに、除菌療法によって有用な体内細菌も一緒に駆除されてしまい、他の疾病が発症するリスクも増えているらしい。どうやら腸内細菌も含めて、体内細菌が存在するそもそもの理由があると判明してきたという。人間というのは、長年に渡り環境に適応するように進化してきた。体内細菌もまた、その進化に合わせて環境に順応してきたらしい。それが、近年の急激な医学の進歩や科学技術の進歩により、有用な体内細菌までも駆除しつつある。抗生物質や殺菌剤の乱用により、逆に疾病に罹患する人を増やしているとしたら、実に皮肉なものである。

様々な新薬の開発に凌ぎを削っている薬品会社の苦労が想像できる。新薬の開発に遅れを取れば、会社そのものの存続が危うくなる。当然、かなり副作用の強い危険な薬品だって、手掛けるしかなくなる。厚労省の認可を得るために何度も治験を繰り返し、副作用のデータを収集して完全に安全なものとして世に出す。しかし、過去にもあった例であるが、副作用や危険性を意図的に隠して世に出してしまった新薬もない訳ではない。いずれにしても、抗菌剤や殺菌剤、または抗生物質を安易に使用しないように注意したいものである。

腸内細菌などの体内細菌を減少させたり壊滅させたりするのは、薬品だけではない。毎日飲んでいる水道だって危ない。ご存知のように水道には、次亜塩素酸ナトリウムという消毒剤が含まれている。水道法によって、1リットルの水に0.1㎎以上の塩素剤が含まれていなければ飲料水とは認めないとなっている。しかし、怖いのは実際にその基準の数倍以上の塩素剤が含まれていて、しかもその塩素剤と汚染物質が結びついて、有害な消毒副生産物が産生しているのである。塩素剤も含めてこの消毒副生産物は、ガンの発生原因にもなっているのである。食べ物にだって、消毒剤としての塩素剤は含まれているし、多種に渡る殺菌剤・除菌剤が添加物として入っている。これらが有用な体内細菌をも死滅させていることは、容易に想像できる。

薬品だけでなく食料品にも有用な体内細菌を駆除してしまう成分が含まれている。スーパーで売っているカット野菜は次亜塩素酸ソーダで殺菌されている。レストランのサラダバーの野菜も同じだ。スーパーやコンビニで売っている野菜サラダなんて、殺菌剤にまみれている。実は食べ物だけではない。ヘアーシャンプーやボディシャンプーなどにも抗菌剤殺菌剤が添加物として入っている。最近は、抗菌効果のあるおもちゃや日用雑貨品が増えてきたが、これらも皮膚表面に存在する有用な細菌を殺してしまう可能性がある。このように有用な体内細菌や皮膚細菌までも駆除してしまうので、十分に留意し食べるものや日用品は安全なものを選びたいものである。

自殺願望の人を救えるか

自殺願望者を自殺サイトで巧妙に誘って、金を奪い乱暴までして9人の命を奪うという凶悪事件が起きた。自殺を志望しているとは言っても、人の命を奪うという卑劣な行為は絶対に許せない行為である。自殺サイトというのは、インターネット上のSNSを利用したものであり、登録してお互いに対話をしている人はかなり多いという。どうせ自殺しようとしているのだから、それを助けて上げただけだという認識を彼が持っているとしたら、それはおおいなる勘違いである。

自殺願望者の方たちがSNSで発信しているツィートを見ると、既に自殺する気持ちを確定している人は極めて少ないことが伺える。まだまだ迷いがあって、心の奥底では誰かに救ってほしいという気持ちがどこかにあって、そんな気持ちが見え隠れしているのである。だから、中には自殺を手伝うという人がいたとしても、または自殺を早くしろと促すようなツィートをしても、反発する自殺願望者が多いように見受けられる。自殺願望者たちは、自殺をする前に自分の心の悲しさ苦しさ辛さを解って、共感してほしいと思っているのである。

自殺を救うNPOやそのサイトを見ていると、自殺そのものを否定するのでなくて、自殺願望者の気持ちに寄り添うことがまずは必要だとしている。自殺願望者のサイトを見ていると、自分の気持ちに寄り添って共感してくれる人がいないという嘆きが漏れ聞こえる。厚労省の自殺を救うサイトも開設されていて、まずは相談を受けて共感することに重きを置いている。しかし残念なことに、いろんな支援施設に実際に駆け込んで、救いを求める自殺願望者はけっして多くないのである。自殺を思い止まらせることが難しい所以である。

自殺願望の人を救う、現代の駆け込み寺的な宿泊施設がある。『森のイスキア』という施設である。青森県の弘前市、岩木山の麓にあるこの施設は、佐藤初女さんという女性が運営していた。佐藤初女さんは、日本のマザーテレサとも呼ばれていた人で、彼女の握ったおむすびを食べただけで自殺を思い止まったという有名なエピソードがある。心が疲れ切って完全に心が折れてしまい、生きる気力を失ってしまった人がこの森のイスキアを訪れて、また生きようと思い直す施設である。残念ながら、昨年の2月に佐藤初女さんが94歳の生涯を閉じられて、森のイスキアは現在活動を休止している。

佐藤初女さんは、特別な心理療法や助言をする訳ではなかった。心の籠った料理を食べさせて、ただ寄り添い共感するだけで、利用者自ら話し出すのをじっと待っていたという。利用者は佐藤初女さんの料理で癒されて、彼女の優しさと包容力を実感し、自分の苦しさ悲しみを訥々と話し出す。一切否定されることなく傾聴と共感をしてもらうことで、本人は安心する。そして、自分自身の力で解決策を見出すという。こうして、多くの心を痛めた方々が救われてきたのである。このような癒しと救いの施設がなくなってしまったのは、こういう悲惨な事件が起きるとつくづく残念なことである。

自殺願望者をSNSなどの自殺サイトや相談支援のサイトで救えるかと言うと、成果は限定的であろう。やはり、人の心を癒すには傾聴と共感だけでは難しいというのは、専門家の共通認識であろう。バーチャルの世界や電話応対でヒーリングを受けたとしても、絶対的なお互いの信頼関係を築くのは難しいからである。実際に出会って、相手の表情やそぶりを見ないと親近感は湧かない。ましてや、人生に絶望した人を救うのは、特別な食事などの提供も必要であるし、農業体験や自然体験などの仕組みなども求められる。マインドフルネスの時間も共有しなければならない。

ところで、座間市で起きた残虐事件の犯人は、父親に対してこんなことを言っていたという。「人生を生きる意味が見つからない。死んだほうがましだ」と。彼にも自殺願望が実際にあり、だから自殺サイトにアクセスしたのかもしれない。自殺願望の方々はおしなべて、自分の生きる意味を見つけられず苦しんでいるように思える。生きる意味とは生きる目的と言い換えていいかもしれない。正しい生きる目的を見つけるには、崇高で真理に基づいた価値観を持つ必要がある。間違っている低劣で劣悪な価値観では、正しい生きる目的は設定できない。自殺願望者の方々に、正しい価値観(哲学)を気付いてもらう支援施設が必要ではあるまいか。

※『イスキアの郷しらかわ』では、心の籠った自然食の料理、農業体験&自然体験、そしてマインドフルネスの実践を提供しています。さらには、正しい人生の目的を見つけるための価値観学習をしています。

医療は総合・統合の時代へ

診断及び治療における医療技術の進歩は著しいものがある。それは、近代医療がもたらしたものと言って差し支えないであろう。最先端の診断用機器の開発や診断技術の進化は、驚くほどの正確さで確定診断が出来るようになった。医療技術の進歩は目を見張るものがある。それはある意味では、専門性が増したことによる恩恵であろう。内科系・外科系というようなあいまいな診療科目ではなく、こと細かく細分化されて、臓器や組織、疾病ごとの専門医が養成されてきた。つまりスペシャリストが生まれ、診断や治療の成果をあげてきたのである。

それぞれ医療界のスペシャリストとして、優秀な頭脳と技能、そして経験を身に付けたドクターは、どんな患者さんの診断・治療も可能になったかというと、実はそうではないことを医療界は認識することになったのである。専門医がそれぞれの分野において診断できない場合は、違う分野の医療スペシャリストと連携して確定診断を行うことになる。しかし残念なことに、専門医どうしの連携だけでは、確定診断が難しい症例が極端に増加してしまったらしいのである。それぞれの専門医が診断しても、なんの疾病なのか、そしてその原因が一向に解らないという症例が激増しているというのである。

その為に最近の医療界では、総合診療科が出来たり統合医療という分野が発生したりして、診断と治療を行うようになったのである。言わば医療のゼネラリストである。優秀な専門医がどうしても解明できなかった疾病名や原因が、総合診療科の医師たちが明らかに出来たのである。または、専門医とは別に統合医と呼ばれるドクターが、診断と治療に多大な成果を上げているのである。勿論、専門医たちも治療においては大きな成果を上げているのは間違いない。しかし、確定診断と疾病原因が解明出来なければ、治療計画も組めないし、再発の恐怖から逃れられない。

どうして医療界において、スペシャリストだけでなくゼネラリストが必要になったかというと、それは人間の身体、つまり人体が『システム』だと気付いてきたからである。人間そのものは、システムである。60兆個もある細胞がそれぞれ自己組織性を持っていることが判明した。つまり、細胞ひとつひとつがあたかも意思を持っているかのように、人間全体の最適化を目指して活動しているのである。そして、細胞たちはネットワークを組んでいて、それぞれが協力しあいながら、しかも自己犠牲を顧みず全体(人体)に貢献しているのである。

これは、細胞だけでなく人体の各臓器や各組織が同じようにネットワーク(関係性)を持っていて、全体最適の為に協力し合っていることが、最先端の医学で判明したのである。つまり、人体は脳が各臓器や各細胞に指令を送っているのではなく、それぞれが主体性と自発性を持って活動していることが解明されたのである。完全なシステムである人体が、どこかの各細胞や各臓器が誤作動を起こせば、それが人間全体に及び疾病が起きるということである。ということは、人間そのものの生き方が全体最適と関係性を忘れたものになると、細胞や各臓器などが誤作動を起こしやすくなるという意味でもある。

医療が専門性を発揮し、疾病だけを診て人間全体を観ていないというのは、まさに樹を見て森を見ずというようなことと同じであろう。人体そのものだけでなく、その人間の置かれた環境や育ち、特に家族との関係性などを詳しく知らないと、疾病の原因が解明できないと思われる。人間全体を観ないとそのエラーと原因を特定できないということなのである。特に大切なのは、その人間の生き方の根底となる価値観が低劣で劣悪化すると、人間という『システム』に反する言動をしてしまうという点である。人体システムの在り方と生き方そのものが矛盾を起こすと、人体の誤作動が起きると言えないだろうか。

メンタルの障害における原因究明は、非常に難しい。だからこそ、他の身体的疾病と比較して完治や寛解が著しく少ないという結果にも表れているのであろう。脳科学的や神経学的に、神経伝達物質の誤作動や極端な分泌異常がメンタル障害を誘発することは解っていても、その誤作動が起きる真の原因は残念ながら掴めていないのである。人間は『システム』だということを認識することで、原因が解明できるのではないだろうか。全体最適、つまり社会全体に貢献するという目的をしっかり持つための価値観を持てないと、人間の精神は誤作動を起こすのである。しかも、関係性を大切にしなければならないという生き方を実践しないと精神は破綻を起こすのである。幾何学的に精神疾患が増加しているのは、システム思考の哲学である、全体最適と関係性の哲学が希薄化し低劣化したせいだと言える。精神科医のゼネラリストであれば、そのことに気付いてもらえるのに、実に残念なことである。

ネット上で賞賛を求める人

SNSとブログを観察していると、実に面白いことに気付く。いつも批判的な記事や日記を書く傾向がある人と、主に共感と感謝を綴っている人がいる。特定の個人を批判していることで、人気を博しているブログを見つけることがある。特定の人にしか見せないようにしていても、誰かが拡散するかもしれないというリスクを持っている。インターネットの世界いうのは、実に怖い処だ。誰かを批判して書いているつもりではなくても、自分が否定されていると誤解されることもある。自分だけが見る日記とは根本的に違うのである。

一方では、周りの人々のほんわかとした日常を綴りながら、それらの言動を温かく見守りながら共感し、感謝する言葉でしめくくる記事がある。心がほんわかとしてくる。または、いろんな公益活動をしている人の応援する記事を書いて、サポートしてくれるブロガーも存在する。他人の言動に対して共感的、肯定的な態度を取る人は、間違いなく自分に対する肯定感を持っている人であろう。一方、いつも他人を批判的、否定的に観ている人というのは、心の奥底では自己否定観が渦巻いているに違いない。実に可哀想な人である。

否定的、批判的なブログだと言っても、個人批判ではなくてあくまでも公的なものに対する批判であるなら、まだ許せるように思う。現在の様々な社会問題を深く洞察して、政治や行政、または経済の在り方に対して批判し、あるべき本来の姿勢を提起するという内容ならば、問題ないように感じる。あくまでも、人々の幸福実現、または心の豊かさに貢献するような内容ならば、公的批判もありうることだろう。特定の人、つまり自分の家族や会社・組織・団体などの特定できる人物を槍玉にするようなやり方には違和感を持つ。

人を批判したり否定したりする記事は、万人受けする。当然、読者も多い。よく見かけるのだが、自分の読者が何万人もいるのだと自慢たらたらと述べるブロガーがいる。批判的な記事に人気が出ると分かり、益々拍車がかかる。全国で何位だということを確認して一喜一憂している姿を想像するに、実に情けないという思いで満たされる。そんなゴシップ記事のようなものを観て喜んでいる読者も低レベルである。実に情けないし、どちらも可哀想でもある。

とは言いながら、こんな批判的否定的な記事や日記を書いてしまう背景を考えると、こういう人々に対して同情してしまう自分がいる。物事や特定の人に対して批判的否定的に観てしまう人というのは、現在の社会に対して生きづらさを抱えている人であろう。家族に心から敬愛されているとは言えず、会社・組織から信頼や尊敬を受けているようには思えないからである。だからこそ、世の中の多くの人々から評価と尊敬を集めたいのである。リアルの世界で評価されないから、ネットの世界でその反発心から必要以上に頑張ってしまうのであろう。強烈な自己否定観を持つが故の行動であるに違いない。

残念ながら、ネット上でいくら人気が出て多くの賞賛を得ても、真の自己肯定感は得られない。何故なら、自分自身の真の自己成長や自己実現は得られないからである。人間性や精神性における完全な自己変革がなければ、周りの人々からの尊敬を得られることはない。必要以上に地位や名誉、または評価に拘る人もいる。または、必要以外の資格や免許を取得しようと努力している人もいる。これも、自己否定観や自己愛の歪みを根底にしての行動であろう。自己愛のパーソナリティ障害の人は、こういう行動をとりやすい傾向にある。こういう人は、自分の心の闇に気付いていない。

特定の個人や家族を批判したり笑いものにしたりする記事や日記を書いている人、あまりにも読者数や人気を気にしている人は、自分の心の奥底の闇と対話してほしい。自分は、本当はそんなことを望んでいないことを知ることが出来るであろう。そして、真に望んでいるのは、現実の世界で自分の家族や周りの人々に心から愛されることである。いくらネットの世界で賞賛を得られたとしても、本当の愛は叶えられないし、益々真実の愛から遠ざかるであろう。自分の自己成長や自己実現をして、自己変革を遂げることでしか真の信頼や尊敬は得らない。現実の世界で、苦難困難から逃げずに乗り越えることでしか、絶対的自己肯定感は確立できないのである。

森のイスキアと佐藤初女さん

森のイスキアの佐藤初女さんが2016年の2月に永眠された。日本のマザーテレサとも呼ばれる伝説的な福祉活動をされて、多くの人々から慕われ続けた94歳の生涯を閉じられた。彼女の握った奇跡のおむすびは、死を覚悟した人の心を動かし、自殺を思い止まらせた。心を痛め折れてしまった人々を、佐藤初女さんは温かい心と食事で救い続けてきた。森のイスキアという施設は、傷ついた心と疲れ切った身体を抱えた人々を優しく迎え入れて、自らの元気さを取り戻すことを可能にして、再び社会に送り出してきたのである。

その森のイスキアは、佐藤初女さんが天国に召されてから、活動を休止している。既に1年半が過ぎたというのに、残念ながら彼女の活動を引き継ぐ方がいらっしゃらないようである。森のイスキアは多くの方が寄付をなさって建てられた、善意の施設である。彼女の遺志を継いで行く人がいないというのは非常に残念なことである。イスキアという名前を引き継いで、各種の活動をされていらっしゃる方は存在する。助産所をしたりカウンセリングやヒーリングをしたりしている方もおられる。相談業務をして人々を救う活動をしている施設もあるらしい。しかし、森のイスキアのような癒しの宿泊施設として運営している処はないみたいだ。

佐藤初女さんと同じような活動をするのは、非常に難しいと思う。佐藤初女さんと同じ空間にいるだけで、彼女に話を聞いてもらえるだけで、心を込めて作ったおむすびや食事を食べただけで、心を癒すことが出来た。佐藤初女さんのような方は二度と出てこないに違いない。彼女の存在は、それだけ大きかった。だとしても、第二、第三の佐藤初女さんが現れて来なければ、彼女は浮かばれないように思うのである。彼女の遺志を継いで、同じような癒しの宿泊施設が全国の各地に開設してほしいと願うのは、私だけではあるまい。

今から20年くらい前に佐藤初女さんを初めて知った。彼女を紹介していた地球交響曲第2番を鑑賞して、大きな衝撃を受けた。その時に、自分もいつかこのような施設を作りたいと強く思った。そして、12年くらい前に弘前にある森のイスキアを訪ねた。佐藤初女さんとお会いして、その滲み出ている優しさと凛とした強さを感じた。彼女の存在そのものが偉大であり、大きく包み込むような愛そのものだった。その時に、訪問者が記すノートが置いてあり、『イスキアと同じような施設を白河に必ず作ります』と記してきた。自分のライフワークとして取り組む宣言でもあったように思う。

あれから、10数年が経過した。森のイスキアと同じような施設を福島県の白河地方に作りたい思い、準備を重ねてきた。森のイスキアの佐藤初女さんのような食事を作りたいと思い、毎日せっせと料理をしては多くの方々に食べて頂き、率直な感想を伺った。心理学、精神医学、カウンセリング、ヒーリング等の学習を進めた。また、哲学、思想、仏教哲学、神学、キリスト教などの価値観を学んだ。さらには、医学、分子生物学、分子細胞学、量子力学、宇宙物理学、脳神経科学、大脳生理学なども詳しく勉強した。空き農家も物色して、農家民宿への改築する準備をしてきた。

しかし、残念ながら開設資金の問題がなかなかクリアーできずにいたのだ。開設してから運営が順調に行くまでのランニングコストを負担する目途も立たなかった。改築資金が約500万円、そして当座の運営資金が約500万円、合わせて1,000万円の準備は難しかった。寄付を募ったりするという方法もあったが、なるべく寄付には頼らないというのが自分のポリシーである。さらに、国や県の委託事業(助成金)として運営する方法も考えて企画書を作成して、各行政機関に提案したものの、実績もない事業計画を認められるのは困難だった。

ある日、吉田さん夫妻が経営している農家民宿「四季彩菜工房」とタイアップするのはどうか?とアドバイスしてくれる友人がいた。早速訪問して、森のイスキアへの思いを伝えてみた。幸運にも『イスキアの郷しらかわ』への全面的協力を約束してくれたのである。四季彩菜工房は、7年前までは毎年400人から500人ほどの利用者があった。マクロビや自然食愛好者から絶大な支持を受けて、食事も美味しいとリピーター訪問者が多かったのである。その後の震災による風評被害で、利用者はゼロになってしまったのである。物事が順調に進んでいくには、『間』が必要不可欠である。絶妙のタイミングであり出会いであった。吉田さんの協力がなければ、このイスキアの郷しらかわの開設は出来なかった。こうして、平成29年9月1日にイスキアの郷しらかわは産声を上げることが出来たのである。森のイスキア佐藤初女さんのご遺志を継いでいけるよう、精進したいと誓っている。

化学肥料の危険性

化学肥料と農薬は、近代農業に多大な貢献をした。収量の増大と農業労働の省力化をもたらして、農業生産のコストダウンによる収益率の向上を実現させてくれた。その一方では、大きな健康被害をもたらしてしまったという点を忘れてはならない。つまり、農薬の過剰使用による残留農薬の健康被害と、化学肥料の行き過ぎた使用によって、本来持っている野菜のミネラルなどの栄養素を異常なほど低下させてしまった点である。特に、人間の健康にとって不可欠な栄養素である、微量な元素を野菜から奪ってしまったせいで、健康被害を助長してしまったのである。

 

化学肥料の長期に渡る大量使用は、土壌本来のエネルギーを奪い、土を痩せさせてしまう。そうすると、人間にとって必要なビタミンC・A、鉄分、カルシウム、亜鉛、マンガン等の栄養素が不足した野菜しか生産できなくなってしまう。田んぼの稲も同じことになる。亜硝酸態窒素の危険性も提起されている。化学肥料だけの問題ではない。品種改良による影響もある。消費者の嗜好や見た目を求める傾向に迎合した品種改良が、栄養素不足の農産物生産を招いている。化学肥料を大量に使用すると、従来品種の野菜が枯れてしまう。化学肥料を大量使用しても枯れない野菜の品種改良が行われている。化学肥料が大量に売れるようにと品種改良をしているのだ。遺伝子操作による危険性も指摘されている。消費者の利益を無視している暴挙である。

 

ビタミンCや鉄分の不足した野菜の市場流通によって、貧血の人は増大している。カルシウムの不足した農産物の影響もあり、キレる若者が増えているし、骨粗しょう症が増加している。亜鉛不足は深刻である。亜鉛不足により味覚異常をきたして、濃い味の食事を摂取するようになり、高血圧や糖尿病の患者を増大させている。辛い食事を取り続けると、自律神経のバランスを崩して免疫異常を引き起こす。亜鉛不足は性ホルモンの不足を招いて、男性は男性ホルモンが減少して女性化し、逆に女性は女性ホルモンが不足して男性化が進行する。性ホルモン不足は、婚姻率を低下させると共に不妊率が向上してしまう。つまり、少子化という深刻な事態を引き起こす要因にもなるのだ。

 

マンガン不足も深刻である。マンガンは『愛情の塩』と呼ばれていて、人間の心の健康にとって大切なミネラル分である。マンガンは愛情を生み出す魔法の調味料と言われている。つまり、マンガンの不足が愛情不足を招いてしまうのである。マンガン不足は夫婦関係や親子関係の亀裂を生み出すから大変である。受胎率の低下をもたらすし、性不感症を起こしてしまう。さらには子どもに愛情が注げなくて、母性愛が低下してしまい、しまいには虐待まで起こしかねないのだ。ビタミンや鉄分の不足も深刻だが、これらの亜鉛とマンガン不足も人間の身体健康だけでなく精神的な健康被害をもたらすということを認識すべきであろう。離婚が増えている要因のひとつかもしれない。

 

化学肥料をまったく使用していない山菜は、ビタミン類、鉄分、カルシウム、亜鉛、マンガンを豊富に含んでいる。春になると山菜を大量に採取してきて、多くの親戚と知人におすそ分けしている。群馬県に住んでいる義姉には、コゴミ、ウド、シドキなどを段ボールに梱包して送付している。長い期間に渡り義姉はアレルギー症状で苦しんでいる。ところが、送った山菜を食べるようになってからは、アレルギー症状がすごく軽減していると喜んでいる。微量元素のミネラル分が、毒素をデトックスしてくれているし、腸内環境を改善してくれているに違いない。

 

化学肥料を使用せずに、堆肥、落葉土、自然由来の鶏糞や魚粉などを使う有機栽培であればいいのかというと、そうとも言い切れない。動物の糞を利用した堆肥などは、ビタミン類やミネラル分が不足する可能性があるという。逆に亜硝酸態窒素が問題を起こすケースもあるらしい。やはり、動物の糞を利用しない有機堆肥が良いみたいである。EM菌が良いというので使用している農家がある。しかし、科学的な根拠もないし検証結果も効果がないとの反対意見も多い。いずれにしても、化学肥料や農薬は使用しないほうがいいと思われる。昔から行われている、土を大事にした自然栽培による農産物生産こそが、健康に良いのは間違いない。

 

※イスキアの郷しらかわ(農家民宿四季彩菜工房)では、無農薬・無化学肥料により自然栽培しているお米と野菜を提供しています。ですから、数日間イスキアの郷で生活していると、体内の毒素がデトックスされると共に、腸内環境も劇的に改善されて、心身共に健康になります。

神戸製鋼・日産不祥事の真の原因

神戸製鋼所による製品強度偽装事件は、さらなる広がりを見せている。強度を満たしていない製品を、正規品として出荷していたことが解り、その製品強度を測定した結果も偽装していたことまで明らかとなった。それは、企業全体で実行されていたということが判明してきたという。さらには、その偽装が取締役会でも報告されていたという。本来は、製品の品質を保証すべき品質保証部でさえ、その偽装を認めていたというから驚きだ。ものづくりでは絶対の品質を誇る日本製品全体の信頼を失墜させてしまう大事件である。

神戸製鋼だけではなく、日産自動車でも出荷製品の検査を偽装していたことが判明した。他の製造業でも不祥事が相次いでいる。しかも、偽装検査が判明してからも神戸製鋼と日産自動車では、相変わらず検査を偽装していたということが明らかとなったのである。空いた口が塞がらないとはこういうことを言うのであろう。CSR(企業の社会的責任)が問われ、コンプライアンス(法令順守)が重視されてきた筈なのに、こんな初歩的なそして悪質な法令違反があるなんて信じられない。企業統治がされていなかったと言わざるを得ない。

コーポレートガバナンス(企業統治)は、企業経営にとって必要不可欠の経営原則である。企業統治が不完全であれば、製造工程や品質管理・品質審査等の過程において重要な欠陥を招く。つまり、不完全な製品を世に出してしまうのである。だからこそ、CSRを経営の柱と据えて、品質管理・品質保証を重要視して、品質保証の担当に絶大な権限を与えて企業経営をしてきたのである。その品質保証の担当者がその任務を全うするどころか、偽装(不正)を率先して実行してきたというのだから驚きである。品質保証の一担当者や部門長が勝手に出来ることではない。企業ぐるみ、またはトップの姿勢がそうさせたのであろうと類推するしかない。

どうしてこんなにも破廉恥な行為をしたのかというと、企業間競争の激化によるコスト削減が行き過ぎたからだと誰しも思う。企業内においてもそういう調査結果を出すだろうし、マスメディアを含めた社会一般がそういう見方をするに違いない。果たして、本当にそうだろうか。真の原因は、どうも違うような気がしてならない。確かに、このグローバルな社会において価格競争は熾烈化している。品質だって、コモデティ化が起きているから企業間格差はなくなっている。どう考えたって内部コストを下げるしかないという結論になる。だから、人件費コストを切り詰めていくと、検査を胡麻化すしか他に方法がないと思ったのであろう。

日産自動車のカルロス・ゴーン会長を始めとした役員報酬は、巨額に上る。神戸製鋼の役員報酬もしかり。さらに、内部留保はどちらの企業もとんでもない額になる。高額の役員報酬を貪り、内部留保をたんまりと溜め込み、工場の設備投資や現場の人件費につぎ込まないという企業体質がこのような不祥事を招いたとみるべきではないだろうか。古ぼけた製造機器や手間のかかる旧式の検査機械を現場使わせていて、現場の士気が上がる訳がない。現場における倫理観が低下してしまうのは、目に見えている。トップや管理者が高額の報酬を得て、現場で苦労している人々が薄給に喘いでいたら、やる気が起きないし誤魔化しても仕方ないと思うのは当然ではないだろうか。

さらに問題なのは、企業の経営陣が自社株を所有しているし、自社株を会社が保有している点である。それも相当額の自社株を持っているから、自社の株価を下げる訳には行かないのである。目先の利益を確保するのに躍起になるのは、当然と言える。収益性が下がれば、株価は下がり自分の評価も下がり、地位も危うくなる。目先の利益を得る為に、設備投資は控えてコストダウンに血眼になる。そうなってしまうのは、企業理念が欠如しているからに他ならない。経営哲学と人間哲学がないのである。かつての松下電器産業やソニーは、経営哲学と人間哲学がトップから末端まで浸透していた。昔の東芝もしかり。現在の一流企業には、正しくて高潔な思想・哲学がないのである。稲盛さんが高邁な哲学を社内に浸透させて、JALをV字回復させた。その手法を見習って、神戸製鋼や日産も出直してほしいものである。

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指導死を二度と起こさない為に

福井県で、中学2年生の男子生徒が自殺した。担任と副担任の指導に行き過ぎた点があったと調査報告書は認めているし、校長もその事実を確認し謝罪した。こういう指導の行き過ぎによる『指導死』というのは、他にも例が多く、ゆうに100件近くに上ると言われている。これは、判明した件数だけであり、おそらくこの何倍もの数の指導死が存在するのではないだろうか。それだけ、不適切な指導が学校現場で行われているという証左であろう。

この行き過ぎた指導をした担任と副担任の実名と顔写真が、ネット上で拡散されている。正義漢ぶったネットウヨが、彼らを非難し中傷している。2度と教壇に立てないように、教師免許を剥奪しろという者や、殺人罪として立件しろと騒ぎ立てる輩もいる。このような事件が起きると、最近はネット上でリンチ(私刑)のようなことを繰り返す者たちが横行する。福岡県で起きた煽り運転死亡事故の加害者の親として間違えてネットで拡散し、えらい迷惑を受けてしまった人もいた。

許せないと思う気持ちも解るが、こういうネット上におけるリンチで対象者が自殺したら、自分たちが加害者にもなりえるということを認識しているのだろうか。実に情けなくて怖いネット社会である。問題なのは、担任と副担任、そしてその指導管理の責任を問われる校長と副校長の態度と行動である。その指導方法が悪いのであって、彼ら彼女らの全人格や人間全体までも否定するというのは、行き過ぎではないか思うのである。

そもそもこんな指導死が起きる本当の原因は、何であろうか。文科省の指導、教育庁や教育委員会の指導管理に問題があるという意見が多い。一方、教師の資質に問題があるという人もいれば、日教組に責任があるとする人もいる。学校における行き過ぎた競争原理の中で、起きてしまった不幸な事故だとする主張する人も少なくない。行き過ぎた競争原理とは、子どもどうしの競争と教師間の競争、両方に原因があるという意見だ。いろいろな原因が言われているが、原因を特定してその原因が改善されていない。だから、今回も同じ不幸な指導死が起きたのである。

こんなにも酷い指導死の事故が起きるのは、明治維新以降に導入された近代教育の欠陥によるものだと推測する。明治政府が近代教育を導入したのは、日本を近代国家にして、欧米の列強のように強い国家を作る為である。その為には、欧米のような近代教育を導入して、国家にとって都合のよい技能の高い若者を育成する為である。思想・哲学や価値観の教育は余計なものとして排除して、あくまでも能力至上主義の教育を目指し、競争原理を導入して優秀な人材育成に力を注いだのである。

近代教育は、さらに欧米で主流であった客観的合理主義を導入したのである。つまり、物事を各要素に細分化し、それを客観的合理性で分析して問題解決をする手法を身に付けさせたのである。つまり、何かの課題・問題を発見した際に、その問題の原因を特定するために、問題を各要素に分解し細分化し客観的に分析して解決策を見つけ出すという手法を教育したのである。この客観的合理主義・要素還元主義は、一見すると正しいように見えるが、大きな問題を孕んでいる。全体を洞察することを忘れさせたのである。つまり、木を観て森を観ずという価値観を育ててしまったのである。

この客観的合理主義は子どもたちに、物事をあくまでも客観的に観察し分析する習慣を身に付けさせてしまった。つまり、自分に関わる人間をまるでモノとして扱い、客観的に分析する癖を持ってしまうのだ。だから、実に冷たい目で相手を見る。人の行動を分析して、批判的に観るのである。いつも批判的態度を取るから、相手に共感できない。人間関係を損なうことが多い。特に、近代教育を沢山受けた高学歴な人間ほど、そして優秀な人間ほどこの批判的な態度を取りやすい。相手の気持ちが解らないのである。特に、相手の悲しい気持ちや辛い気持ちに共感できない。優秀な人ほど身勝手で自己中心的な人間が多いのは、これが原因である。

教員は、高学歴で優秀である。すべての教員がそうではないが、要素還元主義と客観的合理主義に毒されているケースが多い。客観的合理主義もある意味必要である。ただし、あまりにも客観的合理主義にシフトし過ぎるのが良くないのである。近代教育の欠陥に気付いた欧米は、統合主義や関係性の哲学を加えた教育制度に舵を切り直した。残念ながら、日本の政治家と文科省官僚はその間違いに気付かずに、さらなる能力至上主義と個人主義に陥ってしまっている。このような間違った教育制度こそが、『指導死』を起こしていると認識すべきであろう。近代教育制度を見直して、全体最適(統合主義)と関係性の哲学を加えた教育に改めたら、こんな不幸な指導死も防げるし、いじめや不登校の問題もすぐに解決できると確信している。全体最適と関係性の哲学であるシステム思考を、今すぐにでも学校教育に導入してほしいものである。