自己肯定感を育てる教育の間違い

「自分のことが好きか?」という問いに、日本の子どもたちの多くはNOと答えるらしい。国際比較の青少年意識調査においても、米国や中国の青少年と比較して、極めて低い自己肯定感を示すという結果になっている。日本の青少年の自己肯定感は他国と比較しても著しく低い傾向を示して、問題視されている。自己否定感情が強いと、いじめ、不登校やひきこもりなどの問題を起こしやすいだけでなく、将来大人になった時にチャレンジ精神が持てない為に、挫折しやすいと言われている。現代の日本では青少年だけでなくて、成年者や中高年の自己肯定感も低いと言われている。

 

子どもたちの自己肯定感があまりにも低いことが問題になり、文科省は自己肯定感を高める教育を押し進めている。子どもたちだけでなく、若者たちの自己肯定感を高めるための方策がいろいろと検討され、実行されている。自己肯定感を高める為に、叱るよりも誉める教育をというスローガンも採用されている。企業においても、自己肯定感を活用したコーチングという社員教育手法を採用するケースが増えている。家庭教育でもまた、自己否定感を持つような叱り方をせず、子どもの自己肯定感を育てる教育が推奨されている。社会全体において、自己否定感を感じないように配慮した教育がなされているのである。

 

生涯教育の場においても、自己肯定感を伸ばす教育がもてはやされている。自分を否定しないで、認めて受け容れることの大切さを教える教育が流行している。自己実現や自己成長を促すセミナーが開催されているが、どうやって自己を認め受け容れるかという点に力点が置かれている。さらに、スピリチュアルな手法を主体にしたセミナーでは、過去世やカルマのせいで不遇になっているのだから、本人の責任はないのだという教え方をしている。つまり、悪い運命はあなたの責任ではなく、前世からの業がいたずらをしているのだから、あなたはそのままでいいのだと自己肯定感を育てるよう促す。

 

ところが、これだけ自己否定感を持たないように教育して、絶対的な自己肯定感を持てるように指導しているのに、残念ながらそれほど成果が上がっていないのが実情である。だから、相変わらず学校現場ではいじめが起きているし、不登校は減少していない。さらに、自己否定感が強いせいで社会に適応できなくて家庭にひきこもる若者が多い。さらにはうつ状態やパニック障害などのメンタル障害に悩む人が相変わらず多い。ということは、事故肯定感を育てる教育が成功していないということになる。何か根本的に間違っているのではないだろうか。

 

揺るぎない自己肯定感を持つ為には、自尊感情を持たなくてはならない。しかも、どんなことが自分の周りに起きようとも、すべてを受け容れ許すというセルフイメージが必要である。そして、この自尊感情というのは自分のすべてを愛する心でもある。その為には、自分を素直に見つめ自己対話をして、自分の良い処も悪い処も含めてすべてを認め受け容れることから始まる。ところが、日本における自己肯定感を育てる教育は、この点で非常に中途半端なのである。マイナスの自己を完全に受け容れて、先ずは自己を否定するプロセスを経ないと、真の自己肯定感を確立できないのに、自己否定することが出来ていないのである。

 

家庭教育、学校教育、そして社会教育において、自分のマイナスの自己が存在していることを謙虚にしかも素直に認めることを教えていないから、真の自己確立が実現してない人間が多い。誰でも自分の心の中に闇を抱えている。自己中心的で身勝手で、しかも煩悩に流されてしまう、どうしようもない自己を持っている。それを殆どの人はその闇に眼を向けず認めず、ないことにしてしまっているのである。だから、自分の周りに起きる出来事で、そのことを時折思い知らされてしまい、落ち込むのである。本当の自己肯定感を確立するには、このマイナスの自己である闇の存在を認めて、徹底的に糾弾して一度は自分を完全否定する必要がある。そのうえで、マイナスの自己を受容して慈しむプロセスを踏むのである。そうすれば、揺るがない自己肯定感を得ることが可能になる。

カップ麵依存症

孫の誕生日会を祝うためにお邪魔したら、息子が定期健診で異常を指摘されたとのこと。腎臓の異常を示す数値ながら、たいしたものではなく食事指導で十分だと思われます。お昼のメニューを聞いたところ、殆ど毎日のようにカップ麺を食べてるとのこと。それじゃ、腎臓に負担はかかり過ぎるし糖質を摂りすぎるのも仕方ありません。カップ麵だけはやめるように指導して、本人の自覚もあるようで今後は一切止めると約束していました。

腎臓はとても大切な臓器です。昔から肝腎かなめと言う通り、肝臓と腎臓は身体の維持には大切な臓器です。最近は、肝心と書く人が多いようですが、正しくは肝腎です。腎臓はご存知のように、血液をろ過して余計なものを尿として排出している臓器です。腎臓は、二重ろ過をしていて、毎日6リットルもの尿を作り出している働き者です。その他、他の臓器とネットワークを結んでいて他の臓器と協力して、寿命を延ばす働きもしています。ステロイドホルモンの分泌にも関わっているので、大切な役目をしています。

最近の医学研究で判明したのは、日本人の腎臓は外国人と比較すると、身体の大きさからみて割合小さいということです。欧米並みの食事になって肥満化したり大型化したりして、身体全体が大きくなっているにも関わらず、腎臓の大きさはあまり変わらないそうです。したがって、血液のろ過装置としての働きは、大きな身体を維持するため、相当に無理しているんじゃないかとのことです。だから日本人は腎臓障害が多くて、透析を受ける患者が多いのではないか見られています。

このように負荷のかかりやすい腎臓に、危ない食品添加物を多量に含み、しかも塩分を必要以上に含んだカップ麵を食べるというのは自殺行為のようなものです。以前在職していた会社でも、役員も社員もカップ麵が大好きで、毎日のように食べていたのを目にしていました。現代の若者たちは、刺激物が大好きで、辛いものが好きだし炭酸飲料もかなり飲んでいるようです。現代人の殆どが、多重ストレスと過大なプレッシャーがかかっていて、食生活の乱れを産んでいるように思われます。

カップ麵がどれだけ人々の健康被害をもたらしているか、想像もつかないくらいです。私は、こんなにも危ない食品を食べる勇気はありません。そして、炭水化物(糖質)依存症にもなりかねませんから、怖くて食べれません。でも、味が濃くて化学調味料を大量に含んだカップ麺は、毎日食べたくなるのです。毎日食べたくなるというのは、完全に依存症です。脳が欲しているのです。こういう依存症になると、なかなか止めることが出来ません。イスキアの郷しらかわは、カップ麺依存症の方が離脱するのに、とても良い環境です。3食とも健康的な自然食を食べますので、カップ麺に含まれている化学薬品をデトックスします。近くにコンビニもありませんから、ファストフードやジャンクフードも買えません。健康的な食習慣を取り戻すためにも、ご活用ください。

効果のない研修は無駄

会社の人材育成、学校の授業・講義、講演会、各種研修会・セミナー等でいろんな学びをする機会があるが、その効果は限定的である場合が多い。それも、嫌々ながら受講しているならいざ知らず、自ら進んで参加するケースでさえも学びは不完全なことが少なくない。受講した当の本人は、すべて学んだと勘違いしていることが殆どであるが、学んだことがそのエッセンスの1割にも満たないことが多いのである。何故そんなことが起きるのかというと、教える側の問題もあろうが、受講者のメンタルモデルに問題があるからである。脳科学者の養老孟子氏が、「バカの壁」と呼んだあの先入観念・固定観念や拘りのことである。

 

たいていの人間は、自分自身でこうでなければならないとか、こういう時にはこのように言動をするという無意識の行動規範を持っているものである。これを最先端の脳科学では、メンタルモデルと呼んでいる。このメンタルモデルは、優秀なそれであれば良いのだが、残念ながら低劣な価値観に基づくメンタルモデルのケースが殆どである。だから、自分が新たな正しい価値観に目覚めたり自己成長したりすることが阻害されるのである。逆説的に述べると、謙虚さや素直さを失っているのは、このメンタルモデルがガチガチに固まってしまっているからであり、そしてそのことを本人がまったく認識していないところから不幸が始まっているのである。これが、人間の自己成長を妨げている理由である。

 

同じことを最先端の心理学用語で述べると、こうなる。人間は自己物語とも呼ばれる「ドミナントストーリー」を持っている。このドミナントストーリーというのは、家族との関わりや他人との複雑な人間関係の交わりの中で学んで、身に付けてしまったこだわりや固定観念である。これは、自分自身を他人からの攻撃を守るための盾であり鉾でもある。実はこのドミナントストーリーは、一度身に付けてしまうと手放すことが非常に難しくなる。そして、メンタル障害を起こすに至った問題が起きた原因でもあるから複雑である。このドミナントストーリーを一度破壊して手放し、オルタナティブストーリーを身に付ければ、自分を苦しめてきた問題を解決できるのである。

 

これらのメンタルモデルやドミナントストーリーを先ずは完全に壊すことが必要なのであるが、簡単ではない。何故なら、この低劣なメンタルモデルがあるうちは、人の助言や指導を聞かないからである。それも、有用で自分の自己成長にとって必要な情報ほど素通りさせてしまうのである。経営学において、イノベーションを起こすには創造的破壊が必要だとシュンペーターは説いていたが、まさしく人間学においても創造的破壊が必要なのである。各種セミナーにおいて、創造的破壊を出来た人だけが深い学びをして自己成長が可能となる。何故、メンタルモデルの破壊的創造が出来ないのかというと、潜在意識というか無意識がそれを邪魔しているからである。メンタル障害が改善しないのも、低劣なメンタルモデルが邪魔をして、心理療法が効果を生み出さないからである。

 

最先端の心理療法や認知行動療法において、この低劣なメンタルモデルやオルタナティブストーリーをぶち壊す方法が見つかったのである。今までは、低劣なメンタルモデルやオルタナティブストーリーの間違いを指摘したり、何とか変更させようとしたりしていた。これでは、クライアントは益々頑なになり、貝のように心を閉ざしてしまっていたのである。その状態を変えるには、相手の自己物語を否定することなく、まずはその低劣なメンタルモデルに共感することが必要なのである。クライアントは自分の苦しさ悲しさ辛さを理解してもらったと安心して、自らの心を開くのである。そして、助言者を心から信頼し、その助言にも耳を貸すようになるのである。そして、物語的な助言法を駆使しながら、ドミナントストーリーを切り捨てて、自らオルタナティブストーリーという正しい価値観に基づく新たな物語を構築するのである。これが、ナラティブアプローチという方法である。

 

大勢の聴衆を集めた研修セミナーにおいては、このようなドミナントストーリーを破壊するような講演をすることは難しい。個別対応のセミナーでしか使用できないと思われる。集団セミナーで、メンタルモデルに対して創造的破壊をするのは難しい。しかし、数人のクライアントと向き合い、じっくり会話を繰り返したり、ピアカウンセリング的なワークショップを続けたりすることで、破壊的創造が起きて自ら気付き学ぶというイノベーションが起きる可能性がある。こういう破壊的創造と人間自身のイノベーションを起こすのが、『イスキアの郷しらかわ』である。是非、自らの問題に気付き自己マスタリーを実現する為にも、イスキアの郷しらかわのグリーンツーリズム(研修旅行)を経験してほしい。ナラティブアプローチを是非とも体験して、正しいメンタルモデルを獲得してみてはどうだろうか。

本能と理性について

本能と理性というのは本来相容れないものであり、対立的なものとして捉えられている。本能に支配されてしまうと理性を失ってしまうし、理性が正常に働いている場合は本能をある程度抑えることが出来ると考えられている。理性が勝ち過ぎると、実に詰まらない人間に見られたり、精気が感じられなくなったりもする。ましてや、根源的な本能である食欲や性欲がまったくなくなったとしたら、生命の維持や種の保存さえも危うくなるだろう。一方本能が暴走すると、反社会的な行動をしがちになり身勝手な人間だと思われてしまい、社会生活が成り立たなくなる。そこで、多くの人々は本能と理性をバランス良く取りながら生きるべきだと考える。確かに、理性が勝ちすぎてもいけないし、本能に弄ばれるのも良くない。ある程度の折り合いが必要なことは言うまでもない。

暴走しやすい本能を法律や宗教などによって、コントロールしてきた歴史がある。それでも、時折世間では欲望が暴走したかのような事件が頻発する。芸能人の覚せい剤事件などは、まさに欲望という本能が暴走してしまった一例であろう。覚せい剤は脳に通常放出される何十倍何百倍の快楽ホルモンと同じ効果を産み出すのだから溜まったものではない。シャブのとりこになってしまったら、なかなか抜け出せない。身を滅ぼすしかない。こういう場合、理性は完全に本能に飲み込まれてしまうのである。最近は、パチンコなどのギャンブル依存症にはまってしまって、個人破産に追い込まれている人間も多いらしい。これも、理性を本能が凌駕してしまっている例であろう。

それでは、人間という動物は基本的に本能を理性によって押さえ込むことは難しいし、理性と本能をバランスよく生きることが困難なのであろうか。倫理観や道徳観念を子どものうちから厳しく指導教育したとしても、理性は本能によって駆逐されてしまうのであろうか。実に情けない話ではなかろうか。世界における様々な宗教の殆どが、やはりこれらの欲望である本能を抑えるべきだということを説いている。一部の新興宗教に例外はあるものの、おしなべて欲望である本能を押さえ込むことの大切さを力説している。身を滅ぼすことになるからであろう。仏教も「足るを知る」という言葉で欲望を抑えることを説いているし、苦の源が煩悩により生まれて来るものだとも言っている。四苦八苦の中には、求不得苦や五蘊盛苦という苦しみがあるのだと説いている。

ところが、仏教の経典の中で唯一欲望さえも、ある意味では肯定しているものがある。「理趣経」と呼ばれる経典である。この経典は非常に誤解を受けやすいので、厳しい修行によって悟りを開いた人でないと、読んではならないという制限があり、唐から持ち帰った弘法大師空海は、門外不出としたらしい。本来は生きるうえでは制限されるべき愛欲という煩悩さえも、清浄なる菩薩の境地のひとつであるから、あるがままで良いと説いている。言い換えると、人々の幸福を願いその実現の為に愛欲というエネルギーを有効に働からせるのであれば、それを肯定することもあろうとする考え方である。つまり、本能と理性が統合された生き方こそが、求められるのだと言っているようだ。

 

理趣経は、誤解を生みやすい。何故なら、煩悩を肯定するという自分に都合のよい部分だけをことさらに強調して、自分の貪欲さを肯定してしまったら、苦を招くからだ。ただ単に煩悩を肯定するのではなく、あくまでも衆生救済のエネルギーとして活用するという点が重要なのであろう。こんなケースが考えられる。公益活動をしている素敵な女性がいたとする。その魅力的な女性から誘われて、公益活動に取り組むようになった。そのうちに、公益活動が楽しくなり本来の理念に目覚めて、その公益活動をさらに発展させる原動力になり大活躍したというような例がある。最初の動機は愛欲からのものであり不純ながら、結果として社会にたいしておおいに貢献したのであるから、愛欲も必要だったのである。

 

このように、人の為世の為に貢献する為に、本能というエネルギーを上手に活用していくのであれば、本能が暴走することもあるまい。本能を社会全体の最適化(幸福実現)の為に活用することで、本能と理性を統合させることになるように思う。本能と理性というのは、本来対立するものであるが、理趣経が説くように、本能を自分の欲望を満たすためだけでなく衆生救済の為に使うのであれば、意味のあることである。煩悩という不純なものを、そのような活用をして清浄なる菩薩の境地に高めることが求められているように思う。本能と理性をこのように統合させてバランスを取りながら生きていけば、人間としての道を誤ることもないであろう。

 

 

恋愛臆病症候群

今時の若者は、恋愛をしたがらないらしい。どういう訳なのか、恋愛をしたいと思わないという。したがって結婚も出来ないし、これでは子孫さえ作れない。現在のすべての若者がそうだとは言わないが、恋愛に対して臆病な若者は、想像以上に多いらしい。そして、自宅から独立せず、親の元でパラサイトの状態になっている若者が急増している。私たち中高年齢者から見たら、信じられないような態度である。いつも恋愛に憧れていた私らの若い頃と比較してみると、大変な違いだと思える。青春時代に恋をしたいと思うのは、誰しも同じだと思っていたのに、こんなにも恋愛に臆病な若者が多いのは実に不思議である。

さて、若者は恋愛に対して何故に臆病なのであろうか。多くの評論家たちは、それは若者たちが恋愛に失敗したり恋人に裏切られたりして、自分が傷つくのを恐れているからという分析をしている。または、自分自身の駄目な所や嫌な所が知られることにより、愛想を尽かされるのを極端に不安視しているのではないかという分析をしている人も多い。そして、昔は一刻も早く親から独立して独り暮らしをしたいと思っていたのに、今は親元から離れようとしない若者が増えているのである。家から独立せず、恋愛をしようともしないこれらの若者たちは、恋愛臆病症候群と呼べなくもないだろう。

面白いことに、これらの恋愛臆病症候群の若者たちは性衝動もないかというと、以外にもそうではないという。恋愛には臆病ながら、性行動は大胆に実行するというのだ。それも、恋愛感情のない相手とならば、平気で性交渉を行うというから信じられない。好きで好きで溜まらず、相手のすべてが欲しくて身も心も一体になりたいからと性衝動が起きると思うが、そういう相手には愛の告白さえ出来ず、性交渉も出来ずにいるらしい。本当に好きな相手に愛を告白したり性行動を起こして、もし万が一にも拒否されたら自分が傷付くと思い、行動に移れないと想像される。でも、嫌われてもいいと思うような相手となら、一夜を共にすることさえ平気らしいのだ。

そうすると、どうやら当世若者たちの深い心理状態が見えてくる。つまり、彼らの恋愛臆病症候群は、性的に未熟であったり性的欲求がなかったりするからではなく、精神的な未熟さが原因だと言える。言い換えれば、自己肯定観の未成熟さから、人から嫌われたり否定されたりすることを極端に避ける傾向があり、恋愛に対して臆病になっているということになる。今の若者たちの特徴的な傾向は、自己肯定観が低いばかりに極端に歪んだ自己愛に充ちていて、自分の異常な万能感という変なプライドに支配されている。だから、人から注意されたり叱られたりすると、極端に落ち込んだり逆切れをしたりするのであろう。実に精神状態が幼稚なのである。

それでは、恋愛に対して臆病なのは自分が傷付くことが怖いからというなら、何故そういう心境になるのであろうか。昔の若者と今の若者の心情は何が違うというのだろうか。そして何故、自己肯定観が低いのであろうか。真の自己肯定観をしっかり自分に根付かせる為には、真の自己確立が必要と考える。つまり、自我(エゴ)を克服して、自己を確立する経過を経なければ、たとえ自分が否定されたり拒否されたりしても、けっして揺るがない自己肯定観を確立することは出来ないのだ。つまり、真の自己証明であるアイデンティの確立こそが必須なのである。

ところが、今の若者たちは自己の確立が出来ないばかりか、自我の確立さえ出来ない者もいるという。つまり、親子の精神分離さえ出来ず、親離れ子離れが出来ずにいるのである。そんな若者であるのだから、相手の複雑な気持ちを汲み取りながら、自分の欲望との折り合いを図りつつ、二人の愛を育むというような複雑なプロセスを踏める筈がない。しかし、人間というのは、狂おしく眠れず食べ物も喉を通らないような思いをしながらも、恋愛を経験して行かないと、精神的な成長を遂げることが出来ない。何度かの恋愛を繰り返しながら、人はいろんなことを気付き学ぶものである。勇気を出して傷付くことを恐れず、恋愛臆病症候群を乗り越えてほしいものである。若者だけでなく、中高年者も同じだと思う。一度や二度恋愛・結婚に失敗したからといって、恋する気持ちを捨ててはいけない。

パニック障害を克服する

パニック障害で苦しんでいらっしゃる方は少なくいと思われる。この障害の苦しみと辛さは、当の本人しか解らない。誰にも解らない不安や恐怖感を、何故かは知らないけれど感じてしまう。そして、動悸や絞めつけられ感などのパニック発作が起きる。そのパニック発作が起きるきっかけは、狭所で起きる人もいれば、広い環境で起きる人もいる。ほんのちょっとだけ高い処から下を見下ろすだけで起きることもあれば、人込みが苦手だという人もいる。自分が安心する環境ではない処に入り込んだだけで起きるのだから、厄介である。したがって、パニック障害はいつ起きるか解らず、さらに不安と恐怖が強化されてしまうのである。

 

パニック障害が重症化すると、家庭に引きこもるしかなくなる。なにしろパニック発作が何時起こるか解らないのだから、外に出るのが怖いのだ。したがって、日光を浴びることもなくなるし、運動からも遠ざかるので、益々パニック障害の固定化が起きるのである。薬物治療や心理療法などの医療を受けると、ある程度症状が緩和されることもある。特に、認知行動療法は効果があると言われている。しかし、薬物療法は副作用が起きるケースもあるし、認知行動療法の効果はあるものの、完全治癒までの道のりは遠い。

 

さてパニック障害になる原因は何かというと、様々である。以前は心の病気だと思われていたが、医学的研究が進み、脳の神経学的な誤作動によるものだと言われている。パニック障害を起こす人は、過剰なプレッシャーやストレスを抱えていることが多い。それも中途半端なプレッシャーではなくて、自分にとって乗り越えるのが困難なレベルである。ストレスもかなり大きいだけでなく、多重ストレスのケースが多い。そして、それらのプレッシャーやストレスがかかる課題に対して、頑張り過ぎてしまっている場合に起きやすい。

 

人間は過大過ぎるプレッシャーや加重なストレスに長い期間さらされると、自律神経のバランスを崩して、交感神経が過大に緊張してしまう。そうすると体内のネットワークが誤作動を起こしてしまい、大脳辺縁系の異常や前頭前野の機能低下も起きるらしい。それ故に、不幸感が大きくなると共に、不安や恐怖感が増大してしまうと言われている。さらには、脳の機能が低下してしまい、正常な認知が出来なくなりさらなる誤作動を起こすのであろう。これらの度重なる誤作動が、パニック発作を起こしてしまい、正常な判断ができなくなるのではないかと見られている。これがパニック障害の起きるシステムだというのが定説になりつつあるらしい。

 

したがって、これらの誤作動を正常に戻すことは、大きな困難を伴うことになり、薬物治療の効果も限定的であり、長期間の治療が必要になるのであろう。今までは、セロトニンの分泌が少なくなってこのようなパニック発作が起きると考えられ、セロトニンを増加させる薬物治療をしてきた。しかし、最近はセロトニン不足だけが原因ではなく、オキシトシンという脳内神経伝達物質の不足がパニック障害の発症に関わっているということが判明してきた。したがって、このオキシトシンというホルモンを正常に分泌させるようにすれば、パニック発作が抑えられることが証明されつつあるらしい。

 

このオキシトシンの分泌を増やして、パニック障害を乗り越えた人も実際にいる。諏訪中央病院の名誉院長で、『がんばらない』等多数の著書で有名な鎌田實医師である。先生は、若くして諏訪中央病院の院長に大抜擢された。過度の期待に応えようとして、多大なプレッシャーを感じてしまい、必要以上に頑張り過ぎてしまったという。そうすると、結果を出せないのではないかとの不安と恐怖から、パニック発作を起こしてしまい、かなり苦しんだという。それでも、彼は自分で工夫して何とかこのパニック障害を乗り越えた。その方法が、オキシトシンを増やす生活であり生き方であったという。

 

どんな方法かというと、自分の幸福や豊かさを求める生き方ではなくて、患者さんを含めた周りの人々の幸せや心の豊かさを追求する生き方を徹底したという。どうしたら、自分の全精力を地域の人々の幸福実現のために注げるかを考え、病院の大改革と職員の意識改革に臨んだのである。さらには、患者さんや地域とのふれあいを大事にして、関係性を豊かにすることを求めたのである。最初から結果を過度に求めず、自分を信頼し「がんばらない」生き方を実践したのである。オキシトシンを増やすヒントがここに隠れている。生きる上でのその人の価値観が大切だということである。

 

イスキアの郷しらかわは、この大切な価値観である、『システム思考』を学ぶ場である。パニック障害を克服することは可能である。イスキアでは、パニック障害が起きる仕組みとそもそもの原因、それを乗り越える方法を詳しく解説している。オキシトシンを増やす価値観とその方法を研修することが出来る。パニック障害に苦しんでいる方は、まずは問い合わせしてみてほしい。

依存症からの完全離脱

政府調査によると、ギャンブル依存症が推計で320万人するという驚きの結果が出た。これは対面調査によるもので、現在の依存症の数ではなくて、過去も含めて一度でもギャンブル依存症になった経験を問う調査である。したがって、現在の依存症の実数ではないものの、かなりの数のギャンブル依存症が存在していることが明らかになった。しかも、フランス、イタリア、ドイツなどの先進諸国と比較するとかなりの高率になることも解った。厚労省としても、何らかの依存症対策が必要だとしている。

 

世の中の人間がはまってしまう依存症は、他にもたくさん存在する。アルコール依存症、薬物依存症、ニコチン依存症、糖質依存症、買い物依存症、スマホ依存症、ネット依存症、SNS依存症、ゲーム依存症、浮気依存症など、生活を劣化させたり人生を破綻させたりしてしまう依存症が沢山ある。DVやいじめなども、一種の依存症だとする研究者もいる。これらの依存症は、本人の自覚がないケースも少なくないし、依存症から抜け出すことが非常に困難な例が多い。したがって、大きな社会問題として注目されている。

 

依存症から抜け出すためには、依存症になる原因を特定して、その原因を排除しなくてはならない。依存症になる原因は、いろいろあると言われている。脳神経学的に言うと、ドーパミンやβ-エンドルフィンの脳内神経伝達物質に依存してしまうことで起きると言われている。または、遺伝子に問題があり、先天的なものだと主張する人もいる。さらには、家族に問題があって、乳幼児期からの子育てに原因があると説く人もいる。いやいや、やはり根本原因は本人の性格や人格にあり、物事に対する考え方や認知傾向に問題があるから依存症になると言う人もいる。残念ながら、これだという原因を特定できないでいるのだ。

 

このように、依存症になる原因を特定できなければ、この原因を取り除くことが不可能である。いずれにしても、依存症は単なるその人の癖や嗜好ではなく、心の病気であると認識すべきだと言われている。したがって、治療をしなければ治癒しないということである。だが、医療機関を受診したとしても治療をしてくれる医療機関も少ないし、その治療効果も限定的だとも言われている。ところが、自分の努力によってこの依存症から離脱している人もいる。これらの改善例を詳しく分析すれば、依存症から離脱できそうな気がする。

 

依存症から離脱したケースにおいて、どうして離脱したのかを聞き取ると、家族や友人、またはパートナーによる励ましや支援があったと殆どの人が答える。それも、押し付けの態度による支援ではなくて、傾聴と共感、そして自己否定感を起こさないような、心温まるサポートだったという。つまり、支援者自身の損得や利益のための支援ではなくて、あくまでも依存症自身の幸福のためを願い、何を求めずただ与えるだけの支援だったという。それも、上から目線の支配や制御のサポートではなくて、博愛・慈愛・慈悲の支援だけが離脱の効果を現したというのである。

 

これらのケースから言えるのは、依存症の根本的な原因とは、もしかすると愛情不足にあるのではないかということである。いや、私は家族やパートナーから愛されていると主張する依存症の人がいるかもしれない。しかし、よく考えてみてほしい。それは、支配や制御のための見返りを求める愛ではないだろうか。何も求めず与えるだけの純愛に飢えていたのではないか。依存症に陥るのは、心の中に何かぽっかりと空いた「飢え」がある場合である。何か満たされない何かがある場合、その満たされない何かを埋めるために、代替の何かに心が惹かれるに違いない。

 

愛情不足に陥ってしまっているのは、周りの人々のせいではない。突き詰めていけば心から愛されない自分の性格や人格に行きつくように思う。人々から信頼されず、心から敬愛されないのは、自分の価値観、または哲学や思想が低劣で低俗であるからだ。回りの人々から博愛・慈愛・慈悲によって満たされないのは、自分がそのような愛で人々を幸福にしていないからに違いない。このことに気付かない限り、依存症からの完全離脱はあり得ないのである。イスキアの郷しらかわでは、依存症の完全離脱のためのプロセスを支援している。何故依存症になるのかを詳しくレクチャーする共に、完全離脱の研修プログラムを実施させていただこうと思っている。依存症で苦しんでいる人は、まずは問い合わせフォームから相談してみてほしい。

DVがなくならない訳

夫を持つ妻や恋人を持った経験のある女性のうち、DV(ドメスティックバイオレンス)を1度でも受けた人は、全体の25%に上ることがアンケート調査の結果判明したという。そして、何度も繰り返してDVを受け続けている女性も、かなり多いということが解ったらしい。しかし、これだけで驚くのは早計と言わねばならない。何故なら、ここでいうところのDV被害は、あくまでも実際の暴力行為であり、手や足などを用いたDV以外のDVである、暴言や無視の態度によるDVは含まれていないからである。このような言葉や態度の暴力を含めたら、おそらく半数以上のカップルにDVが起きているに違いない。もしかすると、8割以上のカップルに存在するのではなかろうか。

近年、男性側からの離婚申し立てはあまり増えていないが、女性からの離婚申し立てが急増しているらしい。その離婚理由のうち、DV被害もまた急増しているという。最近話題になったモラハラも離婚の原因として増えている。どうして、こんなにもDV被害が原因による離婚が増えているのであろうか。男性側としての言い分は、DVは愛情表現のひとつだとか、妻を指導教育する一環として、厳しい言葉を投げかけているだけだから、けっして言葉の暴力には当たらないと主張している例が多い。離婚を申し立てられた男性に聞くと、まったく自分には心当たりがないというらしい。女性は既に愛がすっかり冷めているのにも関わらず、男性側では今でも愛していると未練たっぷりの態度を取るという。

DVだと認識していないことといい、妻の気持ちをまったく理解していないことからも想像するに、夫である男性が自己中心的でかなり身勝手であるということである。これは、特定の男性だけの特徴なのではなくて、世の中の大半の男性がそうだと言える。離婚までは行かなくても、横暴で身勝手な言動をする夫に対して、我慢に我慢を重ねている妻は、想像以上に多いという。その証拠に、夫が定年後に熟年離婚に踏み切る妻が非常に多いという現実がある。そう言えば、SNSでブログやコメントに対する批判的なコメントをするのは圧倒的に男性であり、空気を読めないばかりか、他人に対して批判的態度を取る例が実に多い。共感的なコメントをする男性は極めて少ないと言ってもいいだろう。

それでは、家庭内で夫は妻に対していつも横暴で冷たいのかというと、けっしてそうではない。実に優しい態度をすることもしばしばである。例えば、バースデーやクリスマスのプレゼントを欠かすことなくしているし、度々映画館やレストランに誘うし、旅行にも連れて行きたがる。だから、そういう優しい態度を見せることもあることで、DVを我慢する妻がいるのだ。男性は、DVをしてしまうという一面と一方では優しい思いやりを示す一面の両面の人格を有しているのである。そして、間違いなく妻を好きで堪らないし、暴力を振るうのは、相手が嫌いだからという理由ではないのである。勿論、不機嫌な態度をしたり無視したりする態度をするのも、けっして愛してないからという理由ではない。

つまり、夫が妻に対してDVとか、態度や言葉の暴力を振るうのは、相手が嫌いになったとか憎んでいるという理由ではないのである。愛するが故に、自分の思い通りの妻になってほしいと無意識で願い、DVや態度の暴力を用いて、支配と制御をしたがるのである。自分の所有物だと勘違いして、意識することなく独占したいとか自分の思い通りの操り人形にしたいと、DVや態度の暴力というツールを用いるのである。それは、本当の愛ではない。単なる自分にとって都合の良い妻を飼育しているだけであり、人間としての尊厳をまったく認めていないという態度である。暴力で妻を支配するなんて、人間として最低である。とは言いながら、妻はDVを受けるとつらい気持ちになるし、中にはこんな目に遭うのは自分がいたらないからだと自分を責めるケースもあるらしいのだ。許せないし、やるせない。

何故、そんな男性ばかりなったのかというと、客観的合理性を重視した近代教育の影響であろうと思われる。相手を客観的に観るということは、相手の気持ちに共感出来ないということである。自分に取って都合の良い解釈しか出来ないし、相手の気持ちになりきった心を持つことが出来なくなるのである。つまり、近代教育は身勝手で自己中心的な人間を育ててしまうのだ。勿論、男性ばかりではなく女性もそういう傾向になるのだが、脳の構造的特徴から、女性よりも男性のほうが強く出るらしい。思想教育を廃した近代教育を長い期間受けた、高学歴の人ほどその傾向が強いし、収入の多い職業でしかも会社で評価の高い人ほど身勝手な夫になる例が多い。DVを無くす為には、価値観の学習や高い思想を得る形而上学の教育を受けるしかない。高い価値観を持った人間は、人が嫌がることをしないし、温かい態度を取り真の優しさを持つ。DV被害を無くすには、高い価値観の教育しか方法がないということである。

『君の名は。』で描く量子力学の世界

新海誠の大ヒット作映画『君の名は。』がBDとDVDで発売され、販売とレンタルでも評判になっている。映画の公開当初は、面白くないと酷評する人と絶大な評価をする人で二極化していた。しかし、最初は映画の意図が解らなかった人も、その魅力を知ることになり、絶大な人気を博した。それが、今度はBDとDVDでも観られるようになり、また『君の名は。』ブームが再現したという。映画で2回鑑賞して大ファンになった自分も、また観て見たい誘惑にかられている。それだけ、この映画の魅力にはまってしまった一人でもある。映画のストーリーも良いし、この映画にベストマッチしている音楽も最高である。なにしろ、描いている世界観が実にいいのだ。

新海誠監督は、この映画で何を描きたかったのであろうか。映画を観た時に、これは量子力学の世界を描いていると直感した。新海監督もある雑誌のインタビューで、まさしく量子力学の世界を描こうとしたと明かしている。単なるラブストーリーを描いたのではなく、時間軸と次元の無限性をも表現したかったと見るべきなのかもしれない。この現実は実体ではなくて、すべては「むすび」という関係性で成り立っているということ、さらには我々が実体だと思っているこの現実や過去もまた私たちの意識が作り出しているに過ぎないということを言いたかったと思われる。人間や宇宙の根源に関わる問題を、この映画で描き出そうとしたのではないだろうか。

この映画のテーマは「むすび」である。このむすびというのは、漢字表記では産霊(むすび)となる。誕生や生成、合体や統合も意味するし、出会いも含まれるであろう。巫女である祖母の一葉は、むすびは出会いや別れも意味すると説明している。彗星が分れたのもむすびであるし、あらたに産まれた隕石もまたむすびなのであろう。この物語の地方では黄昏時のことを「かたわれどき」と呼んでいる。たそがれとは「誰そ彼」から出た言葉であり、薄暗闇で誰か解らないという意味だと言われている。しかし実は「自分と他人の区別がつかない時間」をも意味しているのではあるまいか。元々、我々は『自他一如』であり、相手と自分は一つである。この「かたわれどき」に私たちは他人との区別がなくなり、元々ひとつであったものが再び交わるひとときを、このように表しているように思う。

「むすび」とは、関係性とも読み解くことが出来ると思われる。量子物理学においては、素粒子どうしの関係性によって、物体が成り立つし、人間の意識によってそれが変化するということが実験によって確認されている。宇宙そのものも、システムという関係性により成り立っているし、我々の社会もまた関係性により成立していて、全体最適を目指している。関係性がなければ、我々人間そのものが、この宇宙には存在しえない。したがって、この映画でいう「むすび」が、すべての生き物だけでなく物質の根源だと捉えることができよう。新海誠は、この映画で「むすび」という言葉を使って、我々に関係性の重要性を示したかったのではあるまいか。

現代は、関係性が希薄化していると言える。身勝手で自己中心的な人間が増えているせいか、自分の損得を考えるあまり、他人への思いやりにかけるきらいがある。自分の利益だけを考え、利他の心が忘れ去られている。当然、相手との関係性は悪化して、家族、会社、地域、国家などのコミュニティが崩壊しつつあると言われている。人々は人間本来の生き方である、良好な関係性と全体最適性を求める人生観を忘れ去っているように思える。しかし、人間の潜在意識は関係性の大切さをけっして忘れていない。だからこそ、深層無意識においては、他人との関係性を求めているのである。関係性の大切さを切々と説いているこの「君の名は。」という映画に、人々はこんなにも熱狂するのであろう。

この世界は多元宇宙によって複雑にからみ合っていて、時空間が交わり合うことで、質量を持たない素粒子どうしが、時空の違う世界に存在するであろう質量を保証する素粒子との関係性によって物質が存在するのではないかと考えられている。前世での出会いは、今世でもまた出会い、来世でも時空間を超えて出会う。それは、「むすび」という関係性によって保証されていると言える。映画では、巨大隕石によって街と人々が消滅してしまった過去が、書き換えられるというあり得ない世界も描かれていた。このことは、私たちの悲しくて辛い過去さえも、実は実体ではなく我々の意識が作り出したものだから、変容させられるということを表現しているのである。我々の集合意識が作り出したこの世界の現実は、私たちの意識によって、過去であっても変化していくということだ。我々の集合意識は常に世界全体の幸福と平和を願うことこそが求められるということである。

発達障害とその家族の関わり方

一昨日、NHKTVで発達障害の保護者たちが集まって情報交換会をしている模様が放映されていた。発達障害を持つ母親6人の方々が出演していた。まず不思議だと思うのが、仕事があるとしても父親の出演者は居なかったという点である。そして、母親たちが口を揃えて言うには、あまりにも夫たちが発達障害に対する無理解があるという。それも、単に障害そのものが分かりにくいというなら理解できるが、それぞれの夫たちは理解しようとしないばかりか、障害に背を向けてしまい、わざと育児を避けているようにしか思えないということである。したがって、子育ての苦労と悩みは母親だけが一人で背負っていると口々に言っている。

 

勿論、夫たちは仕事が忙しいという事情もあるだろうが、あまりにも非協力的な態度が気になる。それに対して、母親たちは子どもの発達障害に真正面から向き合い、何とか子どもが幸せな人生を送るために、苦しみ悩みながら最大限の努力をしている。そして、限りない愛情を子どもに注いでいるのが、いじらしくも感じる。あまりにも父親との態度が対照的なので、見ていてびっくりする。出演した母親たちが特別なのかとも思いたくもなるが、このようなケースが実際少なくないという。発達障害の子育てにおいて、母親だけに負担がかかっているという実態があるらしい。

 

発達障害は脳の先天的器質障害が原因とされている。だから、母親の子育てによるものではない。それなのに、夫やその家族が妻の子育てが悪かったせいだと責めるらしい。これでは母親がやり切れない。母親があまりにも厳しい態度でしつけるから、こんな子どもになったと言うらしい。無理解からの発言だとしても、これは許せない。子育てをすべて母親に押し付けておいて、こうなったのはお前が悪いからだと責任放棄する姿勢は、頂けない。これでは、母親があまりにも可哀想である。しつけは本来父親が担当すべきである。母親は無条件の愛である母性愛を注ぐだけであり、条件付きの愛であるしつけをするのは父親の役割だ。父親が役割を放棄したから、仕方なく母親がしつけまで肩代わりしているのに、それを非難するなんて到底許せない。

 

今まで、ずっと障害のある子どもたちの子育て支援をさせてもらっていて、すごく感じたことがある。発達障害だけでなく、知的障害や身体障害、または脳性小児まひやダウン症のお子さんの子育てをしているケースでは、圧倒的にお母さんの負担があまりにも大きい場合が多い。あげくの果てに、父親が子育てを放棄するだけでなく、家族から離脱してしまうケースだって少なくない。したがって、発達障害だけでなく、お子さんが何らかの障害を持たれた際の子育ては、お母さんだけに負担が押し付けられる例が非常に多いのである。

 

勿論、収入を得るためには父親が仕事に専念しなくてはならないであろう。けれども、少なくても精神的な支柱になってほしいし、何かあったときは相談の際だけでも親身になって聞いてほしい。何も、母親たちは助言や解決策まで求めている訳ではなく、困ったり悩んだりしていることを黙って聞いて共感してほしいだけなのである。そして、妻の大変さを解ってあげて、妻の気持ちと同化して時折一緒に涙を流してほしいのである。他人ごとのように、冷たい態度で責任を放棄したり、主体性を持ちえないような態度をしたりすることだけは避けてほしいと思っているのである。

 

発達障害は、先天的な脳の器質障害であったとしても、周りの家族の適切なサポートがあれば、和らいでいくことが判明しつつある。その為には、家族の理解、とりわけ父親の深い理解と協力が不可欠である。そして、母親が発達障害の子どもたちへの深くて大きな愛情を注ぎ続けるためには、母親の精神が安定してしかも安心していなければならない。母親が不安であれば、子どもにもその不安が伝播してしまうからである。母親が安心して子育てに専念し、無条件の愛情である母性愛を注ぐには、やはり夫が妻を深く愛することが必要である。その愛は、自分に都合良くするための見返りを求める愛ではなく、与えるだけの無償の愛である。制御と支配の愛ではなく、寛容と受容の愛である。このような夫婦関係であれば、発達障害は必ずや和らいでいくと確信している。