化学肥料の危険性

化学肥料と農薬は、近代農業に多大な貢献をした。収量の増大と農業労働の省力化をもたらして、農業生産のコストダウンによる収益率の向上を実現させてくれた。その一方では、大きな健康被害をもたらしてしまったという点を忘れてはならない。つまり、農薬の過剰使用による残留農薬の健康被害と、化学肥料の行き過ぎた使用によって、本来持っている野菜のミネラルなどの栄養素を異常なほど低下させてしまった点である。特に、人間の健康にとって不可欠な栄養素である、微量な元素を野菜から奪ってしまったせいで、健康被害を助長してしまったのである。

 

化学肥料の長期に渡る大量使用は、土壌本来のエネルギーを奪い、土を痩せさせてしまう。そうすると、人間にとって必要なビタミンC・A、鉄分、カルシウム、亜鉛、マンガン等の栄養素が不足した野菜しか生産できなくなってしまう。田んぼの稲も同じことになる。亜硝酸態窒素の危険性も提起されている。化学肥料だけの問題ではない。品種改良による影響もある。消費者の嗜好や見た目を求める傾向に迎合した品種改良が、栄養素不足の農産物生産を招いている。化学肥料を大量に使用すると、従来品種の野菜が枯れてしまう。化学肥料を大量使用しても枯れない野菜の品種改良が行われている。化学肥料が大量に売れるようにと品種改良をしているのだ。遺伝子操作による危険性も指摘されている。消費者の利益を無視している暴挙である。

 

ビタミンCや鉄分の不足した野菜の市場流通によって、貧血の人は増大している。カルシウムの不足した農産物の影響もあり、キレる若者が増えているし、骨粗しょう症が増加している。亜鉛不足は深刻である。亜鉛不足により味覚異常をきたして、濃い味の食事を摂取するようになり、高血圧や糖尿病の患者を増大させている。辛い食事を取り続けると、自律神経のバランスを崩して免疫異常を引き起こす。亜鉛不足は性ホルモンの不足を招いて、男性は男性ホルモンが減少して女性化し、逆に女性は女性ホルモンが不足して男性化が進行する。性ホルモン不足は、婚姻率を低下させると共に不妊率が向上してしまう。つまり、少子化という深刻な事態を引き起こす要因にもなるのだ。

 

マンガン不足も深刻である。マンガンは『愛情の塩』と呼ばれていて、人間の心の健康にとって大切なミネラル分である。マンガンは愛情を生み出す魔法の調味料と言われている。つまり、マンガンの不足が愛情不足を招いてしまうのである。マンガン不足は夫婦関係や親子関係の亀裂を生み出すから大変である。受胎率の低下をもたらすし、性不感症を起こしてしまう。さらには子どもに愛情が注げなくて、母性愛が低下してしまい、しまいには虐待まで起こしかねないのだ。ビタミンや鉄分の不足も深刻だが、これらの亜鉛とマンガン不足も人間の身体健康だけでなく精神的な健康被害をもたらすということを認識すべきであろう。離婚が増えている要因のひとつかもしれない。

 

化学肥料をまったく使用していない山菜は、ビタミン類、鉄分、カルシウム、亜鉛、マンガンを豊富に含んでいる。春になると山菜を大量に採取してきて、多くの親戚と知人におすそ分けしている。群馬県に住んでいる義姉には、コゴミ、ウド、シドキなどを段ボールに梱包して送付している。長い期間に渡り義姉はアレルギー症状で苦しんでいる。ところが、送った山菜を食べるようになってからは、アレルギー症状がすごく軽減していると喜んでいる。微量元素のミネラル分が、毒素をデトックスしてくれているし、腸内環境を改善してくれているに違いない。

 

化学肥料を使用せずに、堆肥、落葉土、自然由来の鶏糞や魚粉などを使う有機栽培であればいいのかというと、そうとも言い切れない。動物の糞を利用した堆肥などは、ビタミン類やミネラル分が不足する可能性があるという。逆に亜硝酸態窒素が問題を起こすケースもあるらしい。やはり、動物の糞を利用しない有機堆肥が良いみたいである。EM菌が良いというので使用している農家がある。しかし、科学的な根拠もないし検証結果も効果がないとの反対意見も多い。いずれにしても、化学肥料や農薬は使用しないほうがいいと思われる。昔から行われている、土を大事にした自然栽培による農産物生産こそが、健康に良いのは間違いない。

 

※イスキアの郷しらかわ(農家民宿四季彩菜工房)では、無農薬・無化学肥料により自然栽培しているお米と野菜を提供しています。ですから、数日間イスキアの郷で生活していると、体内の毒素がデトックスされると共に、腸内環境も劇的に改善されて、心身共に健康になります。

神戸製鋼・日産不祥事の真の原因

神戸製鋼所による製品強度偽装事件は、さらなる広がりを見せている。強度を満たしていない製品を、正規品として出荷していたことが解り、その製品強度を測定した結果も偽装していたことまで明らかとなった。それは、企業全体で実行されていたということが判明してきたという。さらには、その偽装が取締役会でも報告されていたという。本来は、製品の品質を保証すべき品質保証部でさえ、その偽装を認めていたというから驚きだ。ものづくりでは絶対の品質を誇る日本製品全体の信頼を失墜させてしまう大事件である。

神戸製鋼だけではなく、日産自動車でも出荷製品の検査を偽装していたことが判明した。他の製造業でも不祥事が相次いでいる。しかも、偽装検査が判明してからも神戸製鋼と日産自動車では、相変わらず検査を偽装していたということが明らかとなったのである。空いた口が塞がらないとはこういうことを言うのであろう。CSR(企業の社会的責任)が問われ、コンプライアンス(法令順守)が重視されてきた筈なのに、こんな初歩的なそして悪質な法令違反があるなんて信じられない。企業統治がされていなかったと言わざるを得ない。

コーポレートガバナンス(企業統治)は、企業経営にとって必要不可欠の経営原則である。企業統治が不完全であれば、製造工程や品質管理・品質審査等の過程において重要な欠陥を招く。つまり、不完全な製品を世に出してしまうのである。だからこそ、CSRを経営の柱と据えて、品質管理・品質保証を重要視して、品質保証の担当に絶大な権限を与えて企業経営をしてきたのである。その品質保証の担当者がその任務を全うするどころか、偽装(不正)を率先して実行してきたというのだから驚きである。品質保証の一担当者や部門長が勝手に出来ることではない。企業ぐるみ、またはトップの姿勢がそうさせたのであろうと類推するしかない。

どうしてこんなにも破廉恥な行為をしたのかというと、企業間競争の激化によるコスト削減が行き過ぎたからだと誰しも思う。企業内においてもそういう調査結果を出すだろうし、マスメディアを含めた社会一般がそういう見方をするに違いない。果たして、本当にそうだろうか。真の原因は、どうも違うような気がしてならない。確かに、このグローバルな社会において価格競争は熾烈化している。品質だって、コモデティ化が起きているから企業間格差はなくなっている。どう考えたって内部コストを下げるしかないという結論になる。だから、人件費コストを切り詰めていくと、検査を胡麻化すしか他に方法がないと思ったのであろう。

日産自動車のカルロス・ゴーン会長を始めとした役員報酬は、巨額に上る。神戸製鋼の役員報酬もしかり。さらに、内部留保はどちらの企業もとんでもない額になる。高額の役員報酬を貪り、内部留保をたんまりと溜め込み、工場の設備投資や現場の人件費につぎ込まないという企業体質がこのような不祥事を招いたとみるべきではないだろうか。古ぼけた製造機器や手間のかかる旧式の検査機械を現場使わせていて、現場の士気が上がる訳がない。現場における倫理観が低下してしまうのは、目に見えている。トップや管理者が高額の報酬を得て、現場で苦労している人々が薄給に喘いでいたら、やる気が起きないし誤魔化しても仕方ないと思うのは当然ではないだろうか。

さらに問題なのは、企業の経営陣が自社株を所有しているし、自社株を会社が保有している点である。それも相当額の自社株を持っているから、自社の株価を下げる訳には行かないのである。目先の利益を確保するのに躍起になるのは、当然と言える。収益性が下がれば、株価は下がり自分の評価も下がり、地位も危うくなる。目先の利益を得る為に、設備投資は控えてコストダウンに血眼になる。そうなってしまうのは、企業理念が欠如しているからに他ならない。経営哲学と人間哲学がないのである。かつての松下電器産業やソニーは、経営哲学と人間哲学がトップから末端まで浸透していた。昔の東芝もしかり。現在の一流企業には、正しくて高潔な思想・哲学がないのである。稲盛さんが高邁な哲学を社内に浸透させて、JALをV字回復させた。その手法を見習って、神戸製鋼や日産も出直してほしいものである。

※『イスキアの郷しらかわ』では、正しい企業理念や経営哲学と人間哲学の研修も実施しています。幹部研修や初任者研修などで利用してほしいと思っています。名目だけのCSRにならず、CSRを営業の収益に貢献させることができる方法を学ぶことができます。是非、お問い合わせください。

指導死を二度と起こさない為に

福井県で、中学2年生の男子生徒が自殺した。担任と副担任の指導に行き過ぎた点があったと調査報告書は認めているし、校長もその事実を確認し謝罪した。こういう指導の行き過ぎによる『指導死』というのは、他にも例が多く、ゆうに100件近くに上ると言われている。これは、判明した件数だけであり、おそらくこの何倍もの数の指導死が存在するのではないだろうか。それだけ、不適切な指導が学校現場で行われているという証左であろう。

この行き過ぎた指導をした担任と副担任の実名と顔写真が、ネット上で拡散されている。正義漢ぶったネットウヨが、彼らを非難し中傷している。2度と教壇に立てないように、教師免許を剥奪しろという者や、殺人罪として立件しろと騒ぎ立てる輩もいる。このような事件が起きると、最近はネット上でリンチ(私刑)のようなことを繰り返す者たちが横行する。福岡県で起きた煽り運転死亡事故の加害者の親として間違えてネットで拡散し、えらい迷惑を受けてしまった人もいた。

許せないと思う気持ちも解るが、こういうネット上におけるリンチで対象者が自殺したら、自分たちが加害者にもなりえるということを認識しているのだろうか。実に情けなくて怖いネット社会である。問題なのは、担任と副担任、そしてその指導管理の責任を問われる校長と副校長の態度と行動である。その指導方法が悪いのであって、彼ら彼女らの全人格や人間全体までも否定するというのは、行き過ぎではないか思うのである。

そもそもこんな指導死が起きる本当の原因は、何であろうか。文科省の指導、教育庁や教育委員会の指導管理に問題があるという意見が多い。一方、教師の資質に問題があるという人もいれば、日教組に責任があるとする人もいる。学校における行き過ぎた競争原理の中で、起きてしまった不幸な事故だとする主張する人も少なくない。行き過ぎた競争原理とは、子どもどうしの競争と教師間の競争、両方に原因があるという意見だ。いろいろな原因が言われているが、原因を特定してその原因が改善されていない。だから、今回も同じ不幸な指導死が起きたのである。

こんなにも酷い指導死の事故が起きるのは、明治維新以降に導入された近代教育の欠陥によるものだと推測する。明治政府が近代教育を導入したのは、日本を近代国家にして、欧米の列強のように強い国家を作る為である。その為には、欧米のような近代教育を導入して、国家にとって都合のよい技能の高い若者を育成する為である。思想・哲学や価値観の教育は余計なものとして排除して、あくまでも能力至上主義の教育を目指し、競争原理を導入して優秀な人材育成に力を注いだのである。

近代教育は、さらに欧米で主流であった客観的合理主義を導入したのである。つまり、物事を各要素に細分化し、それを客観的合理性で分析して問題解決をする手法を身に付けさせたのである。つまり、何かの課題・問題を発見した際に、その問題の原因を特定するために、問題を各要素に分解し細分化し客観的に分析して解決策を見つけ出すという手法を教育したのである。この客観的合理主義・要素還元主義は、一見すると正しいように見えるが、大きな問題を孕んでいる。全体を洞察することを忘れさせたのである。つまり、木を観て森を観ずという価値観を育ててしまったのである。

この客観的合理主義は子どもたちに、物事をあくまでも客観的に観察し分析する習慣を身に付けさせてしまった。つまり、自分に関わる人間をまるでモノとして扱い、客観的に分析する癖を持ってしまうのだ。だから、実に冷たい目で相手を見る。人の行動を分析して、批判的に観るのである。いつも批判的態度を取るから、相手に共感できない。人間関係を損なうことが多い。特に、近代教育を沢山受けた高学歴な人間ほど、そして優秀な人間ほどこの批判的な態度を取りやすい。相手の気持ちが解らないのである。特に、相手の悲しい気持ちや辛い気持ちに共感できない。優秀な人ほど身勝手で自己中心的な人間が多いのは、これが原因である。

教員は、高学歴で優秀である。すべての教員がそうではないが、要素還元主義と客観的合理主義に毒されているケースが多い。客観的合理主義もある意味必要である。ただし、あまりにも客観的合理主義にシフトし過ぎるのが良くないのである。近代教育の欠陥に気付いた欧米は、統合主義や関係性の哲学を加えた教育制度に舵を切り直した。残念ながら、日本の政治家と文科省官僚はその間違いに気付かずに、さらなる能力至上主義と個人主義に陥ってしまっている。このような間違った教育制度こそが、『指導死』を起こしていると認識すべきであろう。近代教育制度を見直して、全体最適(統合主義)と関係性の哲学を加えた教育に改めたら、こんな不幸な指導死も防げるし、いじめや不登校の問題もすぐに解決できると確信している。全体最適と関係性の哲学であるシステム思考を、今すぐにでも学校教育に導入してほしいものである。

無為に生きることの愚かさ

ゴルフのネットで組合せをする一人予約をたまに利用して楽しんでいる。いろんな人とラウンド出来て楽しい。平日のゴルフなので、同じ組になるのは殆どが会社などをリタイアした人たちである。つまり、私と同じ年金受給者の60代から70代のゴルフ愛好家である。ゴルフが楽しくて仕方ないという。仕事は現役時代に精一杯したから、もう沢山だという。それでは、何らかの市民活動やボランティアをしているのかと問うと、まったくそういうことはせず趣味の世界に浸っているらしい。NPO活動等の公益活動をしている人にお目にかかったことは今まで一度もない。

 

仕事を精一杯やり遂げてきたから、老後はのんびりと趣味の世界で生きたいという気持ちも理解できる。老後の蓄えは十分にあるし、年金も含めた生活資金は余裕があるから働きたくないし、現役時代は我慢してきたスポーツや趣味の世界を楽しみたいというのも当然であろう。しかし、そのような目的のない生き方、自分のためだけの生き方というのは如何なものであろうか。つまり、人生の目的実現やライフワークとして取り組む何かがなくて、ただ単に自分の人生を楽しく送るだけというのは、もったいないと思うのは私だけであろうか。

 

確かに、生きる意味はそれぞれあるだろうし、価値観も違って当たり前である。ただし、高い価値観や哲学に基づいた生きる意味を見出して生きていかないと、無為な人生を送ってしまうのではないかと思うのである。人間は考える葦であると言ったのはパスカルである。葦という植物は、少し風が強く吹くと折れとしまう非常にか弱い植物である。さらに、葦は何の役にも立たない生物でもある。人間というのは、「何故生きるのか」と常に自分に問い続けて考えていかなければ、葦のように何の役にも立たなくて、すぐに倒れてしまう弱い生き物になってしまうぞ、ということをパスカルは言いたかったに違いない。

人間という生き物は、自分の生き方を肯定したいものである。そして、自分の立ち位置から一歩踏み出すことに、不安や恐怖を持ちやすい生物らしい。ましてや、生きる意味や価値を考えることなく、何となく平穏に生きていることで満足していれば、そこから抜け出すことを嫌がるのではないだろうか。敢えて、自ら苦難困難を引き受けて、それを乗り越えたいと思う人はいないだろう。大変な苦労を伴うことだから、避けたいと思うのは当然である。楽しくおかしく、平和に生きたいと思うのは誰しも同じ。しかし、それだけでいいのだろうか。意味のない人生や無為な生き方になってもいいと、自信を持って断言できるのかと問いたい。

昔の人々の考え方がすべて正しいなどと乱暴な意見を述べるつもりはないが、少なくても生きることに対して、昔はもっと真摯だった気がする。だから、今は殆ど死語化しつつある、『無為』などという語彙があったように思う。人は何かの目的を持って生き、そしてその目的に添った目標を設定し、自分を高めつつ社会に対する貢献を実行してきた。そんな生き方も出来なくて、人生の目的も持たずにただ目の前の享楽に甘んじるような人を、無為に生きる人と称して蔑んできたのである。そのような人間が、やがて誰からも見放されて病気や事故に遭い、一人寂しく死んでいく姿を見てきて、無為に生きることで不幸せに陥ることが解っていたから、無為に生きることを戒めてきたのである。

それじゃ、生きるべき目的や価値観を持っていれば、幸せな人生を送れるのかというとそうではない。そもそも幸福とは何だろうかということを、まったくはき違えているからである。物質的な豊かさを持ち、面白おかしく生きることが幸福だと思っている人が多いが、そうではない。多くの人々の幸福に貢献できる人生を送ることこそが、心豊かな生き方であり真の幸福を実現するのである。多くの人々から敬愛されると共に、他の人々と絆を広く深くすることが出来て、お互いに支えあう人生を享受することが、人間本来の生き方ではないだろうか。故に、常に全体最適を目指すという高い価値観こそが人間には必要であり、自分個人や家族だけの幸福を目指すような低い価値観では、人間本来の生きる価値や意味を見つけ出すことは叶わないのである。

ただ生きていることに意味があり、あるがままに生きることに価値がある、というのはある意味正しい。ただし、それは真摯に謙虚に人生を生き、苦難困難にも自ら進んでぶち当たり乗り越えてきた人が言うには、説得力を持つ言葉だ。それこそ目の前の欲望に支配され流され、自分だけの利益だけを求めて、無為に生きてきた人が言うべき言葉ではない。人間は、世の為人の為にと必死に生き、自我を克服して真の自己を確立する為に学び成長し、多くの人々に夢と希望を与えるような生き方をしてこそ、生きる意味や価値があると言えよう。マザーテレサ女史や佐藤初女さんのように、死ぬまで人々の幸福に貢献する生き方を全うしたいと思っている。

パラドックスを抱えた医療制度

医療技術は日進月歩という状況を呈している。診断技術も日々進化しているし、驚くような新薬や注射が開発されている。これだけ医療が発展しているのだから、さぞや疾病に罹患する割合は激減しているに違いないと誰でも思う。しかし、不思議なことに有病率は年々増加しているし、一度罹患してしまうと完全治癒するケースが非常に少ないのである。これだけ医療の診断技術や治療技術が発達して延命率は高くなっているのに、どうして完治率だけが低いのであろうか。

 

勿論、ケガや外科的な疾患、さらには一時的な炎症性の疾病の治癒率は高い。生活習慣病などを扱う内科、または精神科領域の疾病の完治率は低い。患者本人の完全治癒のための努力が足りないという面があるとしても、これだけ医療が進化しているのにどうして完治しないのかが不思議である。慢性疾患は治りにくいものだとしても、これだけ薬品や治療技術の研究が進んでいるのに効果が出ないというのが解せない。

 

このような医療界における不思議な状況が起こるには、何か訳がありそうである。あくまでも想像ではあるが、例えば慢性疾患であっても完治させる画期的な薬品を完成させたとしよう。しかも、その薬品は完治させれば二度と服用しなくてもよいものだとする。そうすると、薬品会社の売り上げは一時的に伸びるが、やがて減少してしまう。新規に罹患した患者は使用するが、完治した患者は使用しないのだから、どうしたって売り上げが減少していく。このように完治する薬は一部の例外を除いて、まったく開発されていないのである。

 

現在投与されている慢性疾患の薬品は、殆どが症状を抑えるものであり、一度飲み始めると一生飲まなくてはならなくなるものが多い。精神科の薬も同じようなものが多い。薬品会社にとっては、完治させる薬を開発したいが、そんな画期的な薬をしまうと売り上げが落ちるし、会社の存続も危うくなる。このようなジレンマが存在するのである。また、医療機関と開業医師も同じである。患者を完治させたいが、完治させてしまうと経営的に行き詰るというパラドックスを抱えているのである。

 

医療機関の経営、そして薬品会社の経営を優先させているが為に、患者の完全治癒を拒んでいるなどという乱暴なことを言うつもりはない。そんなことを考えている薬品会社の役職員や病院経営者がいる筈がない。しかしながら、これだけ完治率が低いというのも不思議だ。通常のビジネス世界では、顧客満足度を限りなく高めることを優先する。顧客の幸福や豊かさを追求し、ビジネスを通して社会貢献に寄与することで、企業の収益も向上する。ところが、医療ビジネスだけはクライアントである患者の健康と幸福を追求すればするほど、ビジネスとして成り立たなくなるのである。こんな矛盾やパラドックスを抱えて経営しているのは、医療関連事業だけである。

 

こういうパラドックスを医療が抱えているということを、マスメディアはあまり取り上げない。本来こういう矛盾を抱えているからこそ、第三者的立場の審査者が適正な医療が実施されているのか、公平な目で審査をするべきであろう。しかし、現代の医療を審議しているのは、厚労省や社会保険診療審査会などに所属する医師である。当然、同じ職業である医師が同じ立場の医師に対して厳しく審査することに及び腰になるのは仕方ないことであろう。ただし、患者の完治を目指して全力を尽くして、減薬や断薬を指導している医師もいる。投薬・注射をなるべくしないで、生活指導や心理療法を多用して、患者の完治をすべく努力を怠らない医師もいる。しかし、残念ながらそういう医師は極めて少ないのである。

 

保険診療制度も悪い。投薬・注射をしないで、生活習慣を改善するように時間をかけて指導しても、収入には結びつかない制度になっているのである。精神科の医療も、時間をかけてカウンセリングや心理療法をしても、収益向上には繋がらない。完全治癒が少ないというのが、こんなことが原因になっているとしたら、患者ファーストでない医療制度だと言わざるを得ない。完全治癒に対する多額の成功報酬を医療機関に与える保険診療制度を確立出来ないだろうかとも思う。そうすればこんなパラドックスを少しは克服できるかもしれない。

システム思考とは

システム思考という語句を聞いたことがあるだろうか。哲学というか社会科学の用語であり、日本人にはあまり馴染みのない言葉かもしれない。システム思考の第一人者と言えば、MIT(マサチューセッツ工科大学)の上級講師であるペーター・センゲ氏であろう。米国のビジネスマンや経営者、そして多くの科学者に多大な影響を与えている研究者である。この世の中は、特定のシステムによって動いているし、そのシステムに則ったビジネスモデルならすべてが上手く行くが、このシステムに反する経営をして行けば破綻すると主張している。

 

このシステム思考が基本となるのは、ビジネスや経済だけではない。政治・社会・国家・組織・団体・家族を初めとしたすべての世界において、システム思考は有効である。それだけではない、宇宙の仕組みもまたシステム思考であるし、すべての物体や生き物はすべてシステム思考を基本に存在している。この学術理論は驚くことに、今から2500年前から唱えられているのである。世界で最初にシステム思考を人々に説いたのは、ゴータマシッタールーダブッダという人物だ。つまり、お釈迦様である。仏教の神髄は、システム思考なのである。当時、システム思考とは呼んでいなかったが、考え方はまるでシステム思考なのである。

 

さらに、驚くことに日本の江戸時代はこのシステム思考がごく普通に機能していたのである。システム思考とは、全体最適を目指すものであり、全体を構成するそれぞれの要素は、関係性によって成り立っているという理論である。だから、それぞれの構成要素の関係性が劣化したり損なったりすると、全体最適の機能が発揮できなくなる。人間社会においては、それぞれの人間の個別最適を目指してしまうとシステムが機能しないし、人間どうしの関係性が悪くなると、組織は全体最適に向かわなくなり、組織は減滅したり棄損したりすることになる。江戸の町では、100万人もの人々が暮らしていても、感染性の疾病で壊滅的被害もなくて、事故による崩壊や犯罪による悲惨な状況が起きなかったのは、システム思考が機能していたからに他ならない。

 

全体最適と関係性重視の哲学であるシステム思考は、すべての組織・コミュニティに必要な理論・価値観でもある。東芝が経営的に行き詰ったのは、システム思考を忘れて、各部門や関連会社とその役員がそれぞれ『個別最適』を求め過ぎた結果である。そして、社員どうし部門どうしの関係性が悪かった為に、経営危機を起こしたとも言える。シャープの経営危機や富士通の経営悪化も、システム思考を無視した経営にあったと言っても過言ではない。また、フランスのパリや英国のロンドンで、ペストやコレラで壊滅的な人口減に陥ったのは、システム思考を生かした都市計画がなされなかったからである。

 

国家組織や地方行政組織においても、システム思考を無視した政治や行政が行われるケースがある。そうすると、様々な問題が発生する。ひどい場合は、財政破綻まで起きる場合もあるし、首長のリコールや政権交代が起きるケースもある。家族の関係性が劣化・悪化し、全体の幸福を追求せず、それぞれが個別最適を求めてしまうと、家庭崩壊が起きる。または、家庭内別居、離婚、DV、モラハラ、不登校、ひきこもりなどの問題が起きてしまう。学校でいじめや不登校が起きるのも、システム思考に反する価値観が蔓延しているからである。

 

ブッダが関係性の重要性を縁起律という考え方で示し、衆生救済などの考え方で全体最適の大切さを教えてくれた。このような理論が科学的にも正しいということを、最先端の複雑系科学は証明しつつある。量子力学、宇宙物理学、分子生物学、大脳生理学、脳神経学、非線形数学等を研究すればするほど、システム思考が理論上だけでなく実証科学的にも正しいことを示すのである。ノーベル賞を受賞するような科学者は、おしなべてシステム思考に傾倒する。人間の身体や精神も、全体最適や関係性重視のシステム思考に基づいた生き方をしないと問題を起こす。疾病やメンタル障害、または不幸に見舞われる。この全宇宙システムに存在する生物、植物、鉱物はシステム思考によって存在が許され、そして機能していることを我々人間は忘れてはならない。

不登校の本当の原因

一時期減少傾向を示していた不登校が、また増えているという。この不登校の統計データだが、あまり信用できない。何故なら、調査している主体が文科省であり、なるべく不登校の実数を少なくしようという意思が働いているからである。各県の教委や各市町村の教委もまた、学校に問題は存在しないと言いたいらしく、不登校やいじめなどの問題は存在しないと世間に公表したいと思われる。統計データほど当てにならない。何故なら、統計調査をする主体者の意図によって、結果が大きく変化するからである。統計調査は、問題を明らかにして解決を図るための資料とすべきなのに、お役人というのは自分の無力さを隠しておきたいらしく、問題を過少に見せたいみたいである。

最近、ようやく不登校に対する社会的認識が変わり、不登校を特別視しなくなり、不登校でもよしとする風潮が一般化してきた。それは、子どもを守るという緊急避難的措置としては正しいが、根本的な問題解決には至らない。したがって、うつ病が市民権を得て患者が爆発的に増えたように、不登校という状況があってもそっと見守ることが必要だなどという誤った認識が増えたお陰で、不登校が増えているとすれば由々しき大問題である。不登校の子どもに対して、教師と保護者が腫物にでも触るような態度をとり続けたとすれば、問題は解決されないばかりか益々悪化し兼ねない。不登校は見守るだけでは解決しない。何らかの対策が必要だと認識すべきである。

不登校の原因を文科省と学校では調査分析をしている。いじめ、虐待、学友との不和、学業不振、発達障害、病気、家族の問題等々様々な原因をあげている。しかし、こられは本当の原因ではない。あくまでも、これらは不登校のきっかけであり、本当の原因は他にあるという認識を持っている教育関係者はあまりいない。何故なら、不登校の本当の原因を親も担任も知らないからである。そして、本人さえもそのことを知らない。不登校の本当の原因である『関係性』の大切さを誰も認識していないのだから当然だろう。不登校という現象が起きるのは、関係性が劣化もしくは破たんしているからである。子どもと保護者、父親と母親、子どもと教師、保護者と教師、教師どうし、すべての関係性が貧弱であったり希薄であったりするから、不登校が起きるのである。不登校の原因をいじめや虐待、本人の精神的な問題を原因として取り扱っているうちは、不登校はこの世からなくなることはけっしてないであろう。

学校にいじめや虐待、友達との不和、先生への違和感や不信などが起きたら、そのことを子どもたちは保護者や親しい先生に素直に話すであろうか。今の子どもたちは、自分たちの心の闇を教師や校長・副校長に話さないし、保護者にも話さない。どんなにしつこく聞き出そうとしても、話せないのである。勿論、スクールカウンセラーにも話せない。何故かというと、学校における子どもと教師の関係性が崩壊しているし、家族というコミュニティも崩壊しているからである。関係性が実に貧弱であり希薄化しているし、心から支え合うという関係性と信頼感がなくなっているからである。特に不登校の子どもたちの両親(夫婦)の関係性は、表面的には良好に見えるけれども劣悪化しているケースが少なくないし、家族の関係性が非常に希薄化しているケースが多い。

不登校は日本だけの問題ではなく、先進国では増加の傾向にあるらしい。日本ほどの深刻ないじめや不登校が殆どない先進国もある。オランダである。自由な国だというせいもあるが、日本と違うのは小学校で『システム思考』を教えているという点である。システム思考というのは、全体最適と関係性の哲学である。子どもたちに、関係性の大切さを教えているし、個別最適よりも全体最適の重要性を伝えているという。学校教育において、人間どうしお互いの関係性を豊かにしなければ、正常な社会が成り立たないと教えているのは先進国ではオランダだけであろう。子どもどうしは勿論、保護者と子ども、先生と子どもの関係性が豊かであるしお互いに支え合っているから、不登校がないのであろう。

 

アジアの国々で不登校がない国も少なくない。タイ、カンボジア、ベトナム、ミャンマーなどでは不登校という概念さえない。貧しくて不登校になっている例はあるものの、深刻ないじめもないし不登校も存在しない。これらの国は何が違うかと言うと、仏教の国であるという点だ。仏教というのも実は『システム思考』の哲学を教えている。「縁起律」という概念で、関係性の大切さを説いている。この社会はシステムで出来ているし、社会は豊かな関係性によって成り立っている。したがって、関係性をないがしろにしたのでは、この社会そのものが存在しえないという教えなのである。江戸時代の日本でもシステム思考の教えが存在していた。現代の日本でも、システム思考の教育を取り入れていたとしたら、こんなにも不登校はなかったと推測される。

 

不登校の本当の原因は関係性にあるとする認識は、少しずつ増えてきている。または、社会における関係性の希薄化や劣悪化が不登校という問題を生んでいて、不登校の子どもたちは我々に関係性を改善しなさいと自ら教えてくれているんだと主張している専門家も増えている。学校教育、そして家庭教育において、今こそ「関係性」の重要性を教えていかなくてはならない時期にきているといえよう。それが、不登校をこの世から一掃する唯一の手立てであると心得たい。システム思考の哲学を基本にした「関係性の教育」を学校教育の現場で導入してほしいものである。

自己肯定感を育てる教育の間違い

「自分のことが好きか?」という問いに、日本の子どもたちの多くはNOと答えるらしい。国際比較の青少年意識調査においても、米国や中国の青少年と比較して、極めて低い自己肯定感を示すという結果になっている。日本の青少年の自己肯定感は他国と比較しても著しく低い傾向を示して、問題視されている。自己否定感情が強いと、いじめ、不登校やひきこもりなどの問題を起こしやすいだけでなく、将来大人になった時にチャレンジ精神が持てない為に、挫折しやすいと言われている。現代の日本では青少年だけでなくて、成年者や中高年の自己肯定感も低いと言われている。

 

子どもたちの自己肯定感があまりにも低いことが問題になり、文科省は自己肯定感を高める教育を押し進めている。子どもたちだけでなく、若者たちの自己肯定感を高めるための方策がいろいろと検討され、実行されている。自己肯定感を高める為に、叱るよりも誉める教育をというスローガンも採用されている。企業においても、自己肯定感を活用したコーチングという社員教育手法を採用するケースが増えている。家庭教育でもまた、自己否定感を持つような叱り方をせず、子どもの自己肯定感を育てる教育が推奨されている。社会全体において、自己否定感を感じないように配慮した教育がなされているのである。

 

生涯教育の場においても、自己肯定感を伸ばす教育がもてはやされている。自分を否定しないで、認めて受け容れることの大切さを教える教育が流行している。自己実現や自己成長を促すセミナーが開催されているが、どうやって自己を認め受け容れるかという点に力点が置かれている。さらに、スピリチュアルな手法を主体にしたセミナーでは、過去世やカルマのせいで不遇になっているのだから、本人の責任はないのだという教え方をしている。つまり、悪い運命はあなたの責任ではなく、前世からの業がいたずらをしているのだから、あなたはそのままでいいのだと自己肯定感を育てるよう促す。

 

ところが、これだけ自己否定感を持たないように教育して、絶対的な自己肯定感を持てるように指導しているのに、残念ながらそれほど成果が上がっていないのが実情である。だから、相変わらず学校現場ではいじめが起きているし、不登校は減少していない。さらに、自己否定感が強いせいで社会に適応できなくて家庭にひきこもる若者が多い。さらにはうつ状態やパニック障害などのメンタル障害に悩む人が相変わらず多い。ということは、事故肯定感を育てる教育が成功していないということになる。何か根本的に間違っているのではないだろうか。

 

揺るぎない自己肯定感を持つ為には、自尊感情を持たなくてはならない。しかも、どんなことが自分の周りに起きようとも、すべてを受け容れ許すというセルフイメージが必要である。そして、この自尊感情というのは自分のすべてを愛する心でもある。その為には、自分を素直に見つめ自己対話をして、自分の良い処も悪い処も含めてすべてを認め受け容れることから始まる。ところが、日本における自己肯定感を育てる教育は、この点で非常に中途半端なのである。マイナスの自己を完全に受け容れて、先ずは自己を否定するプロセスを経ないと、真の自己肯定感を確立できないのに、自己否定することが出来ていないのである。

 

家庭教育、学校教育、そして社会教育において、自分のマイナスの自己が存在していることを謙虚にしかも素直に認めることを教えていないから、真の自己確立が実現してない人間が多い。誰でも自分の心の中に闇を抱えている。自己中心的で身勝手で、しかも煩悩に流されてしまう、どうしようもない自己を持っている。それを殆どの人はその闇に眼を向けず認めず、ないことにしてしまっているのである。だから、自分の周りに起きる出来事で、そのことを時折思い知らされてしまい、落ち込むのである。本当の自己肯定感を確立するには、このマイナスの自己である闇の存在を認めて、徹底的に糾弾して一度は自分を完全否定する必要がある。そのうえで、マイナスの自己を受容して慈しむプロセスを踏むのである。そうすれば、揺るがない自己肯定感を得ることが可能になる。

カップ麵依存症

孫の誕生日会を祝うためにお邪魔したら、息子が定期健診で異常を指摘されたとのこと。腎臓の異常を示す数値ながら、たいしたものではなく食事指導で十分だと思われます。お昼のメニューを聞いたところ、殆ど毎日のようにカップ麺を食べてるとのこと。それじゃ、腎臓に負担はかかり過ぎるし糖質を摂りすぎるのも仕方ありません。カップ麵だけはやめるように指導して、本人の自覚もあるようで今後は一切止めると約束していました。

腎臓はとても大切な臓器です。昔から肝腎かなめと言う通り、肝臓と腎臓は身体の維持には大切な臓器です。最近は、肝心と書く人が多いようですが、正しくは肝腎です。腎臓はご存知のように、血液をろ過して余計なものを尿として排出している臓器です。腎臓は、二重ろ過をしていて、毎日6リットルもの尿を作り出している働き者です。その他、他の臓器とネットワークを結んでいて他の臓器と協力して、寿命を延ばす働きもしています。ステロイドホルモンの分泌にも関わっているので、大切な役目をしています。

最近の医学研究で判明したのは、日本人の腎臓は外国人と比較すると、身体の大きさからみて割合小さいということです。欧米並みの食事になって肥満化したり大型化したりして、身体全体が大きくなっているにも関わらず、腎臓の大きさはあまり変わらないそうです。したがって、血液のろ過装置としての働きは、大きな身体を維持するため、相当に無理しているんじゃないかとのことです。だから日本人は腎臓障害が多くて、透析を受ける患者が多いのではないか見られています。

このように負荷のかかりやすい腎臓に、危ない食品添加物を多量に含み、しかも塩分を必要以上に含んだカップ麵を食べるというのは自殺行為のようなものです。以前在職していた会社でも、役員も社員もカップ麵が大好きで、毎日のように食べていたのを目にしていました。現代の若者たちは、刺激物が大好きで、辛いものが好きだし炭酸飲料もかなり飲んでいるようです。現代人の殆どが、多重ストレスと過大なプレッシャーがかかっていて、食生活の乱れを産んでいるように思われます。

カップ麵がどれだけ人々の健康被害をもたらしているか、想像もつかないくらいです。私は、こんなにも危ない食品を食べる勇気はありません。そして、炭水化物(糖質)依存症にもなりかねませんから、怖くて食べれません。でも、味が濃くて化学調味料を大量に含んだカップ麺は、毎日食べたくなるのです。毎日食べたくなるというのは、完全に依存症です。脳が欲しているのです。こういう依存症になると、なかなか止めることが出来ません。イスキアの郷しらかわは、カップ麺依存症の方が離脱するのに、とても良い環境です。3食とも健康的な自然食を食べますので、カップ麺に含まれている化学薬品をデトックスします。近くにコンビニもありませんから、ファストフードやジャンクフードも買えません。健康的な食習慣を取り戻すためにも、ご活用ください。

効果のない研修は無駄

会社の人材育成、学校の授業・講義、講演会、各種研修会・セミナー等でいろんな学びをする機会があるが、その効果は限定的である場合が多い。それも、嫌々ながら受講しているならいざ知らず、自ら進んで参加するケースでさえも学びは不完全なことが少なくない。受講した当の本人は、すべて学んだと勘違いしていることが殆どであるが、学んだことがそのエッセンスの1割にも満たないことが多いのである。何故そんなことが起きるのかというと、教える側の問題もあろうが、受講者のメンタルモデルに問題があるからである。脳科学者の養老孟子氏が、「バカの壁」と呼んだあの先入観念・固定観念や拘りのことである。

 

たいていの人間は、自分自身でこうでなければならないとか、こういう時にはこのように言動をするという無意識の行動規範を持っているものである。これを最先端の脳科学では、メンタルモデルと呼んでいる。このメンタルモデルは、優秀なそれであれば良いのだが、残念ながら低劣な価値観に基づくメンタルモデルのケースが殆どである。だから、自分が新たな正しい価値観に目覚めたり自己成長したりすることが阻害されるのである。逆説的に述べると、謙虚さや素直さを失っているのは、このメンタルモデルがガチガチに固まってしまっているからであり、そしてそのことを本人がまったく認識していないところから不幸が始まっているのである。これが、人間の自己成長を妨げている理由である。

 

同じことを最先端の心理学用語で述べると、こうなる。人間は自己物語とも呼ばれる「ドミナントストーリー」を持っている。このドミナントストーリーというのは、家族との関わりや他人との複雑な人間関係の交わりの中で学んで、身に付けてしまったこだわりや固定観念である。これは、自分自身を他人からの攻撃を守るための盾であり鉾でもある。実はこのドミナントストーリーは、一度身に付けてしまうと手放すことが非常に難しくなる。そして、メンタル障害を起こすに至った問題が起きた原因でもあるから複雑である。このドミナントストーリーを一度破壊して手放し、オルタナティブストーリーを身に付ければ、自分を苦しめてきた問題を解決できるのである。

 

これらのメンタルモデルやドミナントストーリーを先ずは完全に壊すことが必要なのであるが、簡単ではない。何故なら、この低劣なメンタルモデルがあるうちは、人の助言や指導を聞かないからである。それも、有用で自分の自己成長にとって必要な情報ほど素通りさせてしまうのである。経営学において、イノベーションを起こすには創造的破壊が必要だとシュンペーターは説いていたが、まさしく人間学においても創造的破壊が必要なのである。各種セミナーにおいて、創造的破壊を出来た人だけが深い学びをして自己成長が可能となる。何故、メンタルモデルの破壊的創造が出来ないのかというと、潜在意識というか無意識がそれを邪魔しているからである。メンタル障害が改善しないのも、低劣なメンタルモデルが邪魔をして、心理療法が効果を生み出さないからである。

 

最先端の心理療法や認知行動療法において、この低劣なメンタルモデルやオルタナティブストーリーをぶち壊す方法が見つかったのである。今までは、低劣なメンタルモデルやオルタナティブストーリーの間違いを指摘したり、何とか変更させようとしたりしていた。これでは、クライアントは益々頑なになり、貝のように心を閉ざしてしまっていたのである。その状態を変えるには、相手の自己物語を否定することなく、まずはその低劣なメンタルモデルに共感することが必要なのである。クライアントは自分の苦しさ悲しさ辛さを理解してもらったと安心して、自らの心を開くのである。そして、助言者を心から信頼し、その助言にも耳を貸すようになるのである。そして、物語的な助言法を駆使しながら、ドミナントストーリーを切り捨てて、自らオルタナティブストーリーという正しい価値観に基づく新たな物語を構築するのである。これが、ナラティブアプローチという方法である。

 

大勢の聴衆を集めた研修セミナーにおいては、このようなドミナントストーリーを破壊するような講演をすることは難しい。個別対応のセミナーでしか使用できないと思われる。集団セミナーで、メンタルモデルに対して創造的破壊をするのは難しい。しかし、数人のクライアントと向き合い、じっくり会話を繰り返したり、ピアカウンセリング的なワークショップを続けたりすることで、破壊的創造が起きて自ら気付き学ぶというイノベーションが起きる可能性がある。こういう破壊的創造と人間自身のイノベーションを起こすのが、『イスキアの郷しらかわ』である。是非、自らの問題に気付き自己マスタリーを実現する為にも、イスキアの郷しらかわのグリーンツーリズム(研修旅行)を経験してほしい。ナラティブアプローチを是非とも体験して、正しいメンタルモデルを獲得してみてはどうだろうか。