広場恐怖症の原因と寛解の方法

 広場恐怖症と呼ばれる精神疾患が注目されている。女子プロゴルファーである菅沼菜々さんがツアーで初優勝して、自分が公共交通機関を利用できない広場恐怖症であることを優勝コメントで発したことでニュースになったからであろう。同じ広場恐怖症で苦しんでいる人々を勇気付けたいと思っているという。広場恐怖症とは、パニック障害のひとつとして捉えられることが多い。広場だけでなく、多くの人々が集まる場所やシチュエーションが苦手で、バス、電車、飛行機、船、エレベーターにも乗れなくなる人もいる。

 元々は普通に交通機関に乗れていたのに、ある時に特定の場所でパニック発作が起きてしまい、また同じ発作が起きるのではないかという恐怖が心を支配するらしい。初優勝した菅沼菜々さんは、公共交通機関に乗れないので、全国各地に父親が運転する車で転戦しているという。したがって、飛行機や船でしか行けないような沖縄や北海道でのツアーには参加できない。この広場恐怖症は、一旦発症してしまうと日時生活に支障を来してしまうし、通勤できないので会社勤めも出来なくなるケースが多い。

 この広場恐怖症が発症する原因は、遺伝的要因が大きいと言われていて、養育環境やストレスによって強化されてしまい発症するのではないかと推測されている。自律神経が何らかのショックによって暴走状態に陥ってしまうのではないかと見る医学研究者が多い。元々強烈な不安を感じやすい気質があり、衝撃的な事件・事故で副交感神経が働かなくなり、交感神経が暴走してしまい、それが固定化しているのではないかと推測されている。今までの医学的常識からすると、こんな診断をしてしまうだろうが、どうも納得できない。

 広場恐怖症が一旦発症してしまうと、予後は良くない。SSRIという抗うつ剤を投与したり、暴露療法や認知行動療法をしたりして、治療をするが効果が出にくい。何年にも渡り治療を受けても、効果が出にくいので社会復帰が遅れてしまうことが多い。それだけこの広場恐怖症という精神疾患が、難治性の疾病だと言えるが、原因や発症システムを見誤っているせいではないだろうか。自律神経のアンバランスや暴走だという見立ては、間違っていないと思われるが、交感神経の暴走というのは少し違うように感じている。

 何故かと言うと、副交感神経が抑えられて交感神経が暴走状態になったと仮定したとして、その暴走が長期化してしまうというのは考えにくい。通常交感神経が優位になってしまい、ずっと暴走のような状態が続いたとしても、交感ホルモンがずっと放出され続けることは考えにくい。なによりも、広場恐怖症は心と身体の遮断やブロックを起こすのである。交感神経とは、真逆の働きをするのである。とすれば、副交感神経である迷走神経のうち、背側迷走神経が暴走してしまい、シャットダウン化が起きたと考えるのが妥当だ。

 広場恐怖症を発症する人は、元々不安や恐怖を感じやすい。ということは、不安神経症的な気質を持ち合わせている。そして、HSPと呼ばれる神経学的過敏と心理社会学的過敏の気質を持つことが多い。さらに、何事にも完璧を求める傾向があるし、人の目を気にし過ぎる傾向があり、誰に聞いても『良い人』だという答えが返ってくるほど、優等生であることが多い。こういう気質こそが、広場恐怖症を発症させてしまう下地となっていると言えよう。そこに過大なストレスがあり、逃避や戦闘も出来ない状況で、想像を絶するような不安・恐怖を感じてしまうと、背側迷走神経が暴走し発症する。

 背側迷走神経が暴走した状況になりシャットダウン化が起きると、身体と心が動かなくなり、まったく行動できなくなってしまうのである。こうなってしまうと、また同じような事が起きてしまうのではないかと不安になり、同じシチュエーションに身を置くことが不可能になる。この背側迷走神経のシャットダウン化を解くためには、カウンセリングや適切なセラピーが有効である。または認知行動療法やオープンダイアローグ療法も効果がある。一番は、『安全基地』となる存在である。安全基地となる存在が、けっして否定せず傾聴と共感を繰り返し、ボディセラピーを実施して身体の緊張を解きほぐし、音楽療法などを併用することで寛解を迎えることが出来よう。時間がかかるが、治るのは不可能ではない。

ソバーキュリアスというお洒落な生き方

 ソバーキュリアスという言葉をご存じであろうか。数年前から使われ出している語句で、比較的新しい言葉である。ひとつの特徴的な生き方と言えるもので、お酒を飲めるのにもかかわらず敢えて飲まないという人生プランである。ただし、絶対に飲まないという頑なとも言える生き方ではなくて、人生の節目に当たるようなお祝い事には、多少のアルコールを嗜むこともある。お酒が嫌いとか飲めないという訳ではないのに、飲まないというのが新しくてお洒落だと言える。昔にはなかった人生における選択肢である。

 お酒好きで晩酌を欠かさないという人には、到底考えられない生き方がソバーキュリアスでもある。好きな人には、お酒がない人生なんて、実に詰まらないに違いない。職場の上司や同僚との飲み会は、無くてはならないものであろうし、友達との飲み会は何よりも楽しいに違いない。酒好きの人間にとっては、お酒を飲まないで集まりに参加するなんて、許せないかもしれない。お酒の場こそが人間関係を円滑にさせてくれるし、酒席を活用することで仕事が上手く行ったという思いがある。お酒の効用は非常に大きいと実感している。

 確かに、お酒の効用は多大なものがある。長い人間の歴史の中で、お酒がもたらしてくれた効用は数限りない。しかし、一方で酒による失敗も同様にある。酒というものが、いかに人生に大きな影響を与えてきたということである。それだけ、お酒というものが人間の歴史に様々な足跡を残してきたと言えよう。そんなお酒を、敢えて飲まないという人が増えてきたらしいのである。ソバーキュリアスという生き方を志す人が、世界中に増えてきたという。どうしてお酒を飲まないという人が増えたのであろうか。

 ちなみに、ソバーキュリアスという生き方を志す人は世界中にいるし、著名人にも多い。日本人では、泉谷しげる、斎藤工、伊達みきお、ロバートの秋山竜次、X JAPANのToshi、京本政樹、森保一らが挙げられる。海外では、ブラッド・ピット、ダニエル・ラドクリフ、アン・ハサウェイ、ヴィクトリア・ベッカム、ナオミ・キャンベル、ナタリー・ポートマン、マドンナ、ジェニファー・ロペスと枚挙に暇がない。しかし、日本人のソバーキュリアスは元々お酒が苦手だという人が多いが、海外の著名人は元々お酒が飲めるのに敢えて飲まないケースが多い。本来のソバーキュリアスとは、後者のことを言う。

 お酒を飲むことのメリットとデメリット、飲まないことによる長所と短所について述べるつもりはない。また、お酒を飲む人を蔑んだりソバーキュリアスの人々だけをリスペクトしたりする訳ではない。何故、著名人や教養・学歴の高き人たちにソバーキュリアスの人が増えたのかについて述べたい。元々、人はお酒を何故飲むのかと言うと、大脳生理学的にはドーパミンという脳内伝達物質が多量に放出されるからである。お酒を飲むと、快楽的になり気が大きくなるのはこのせいだ。そして、このドーパミンというホルモンは習慣性がある。つまり、このドーパミンの作用により、お酒に依存してしまうということである。

 ソバーキュリアスという生き方に目覚めた人々というのは、お酒に依存したり快楽を追い求めたりする生き方が、人間のあるべき生き方とかけ離れていることに気付いたのであろう。お酒を習慣的に飲むことが、精神的自立を阻んでしまい、自己人格の確立が実現できなくなることに気付き始めたのではなかろうか。人間が無意識的にドーパミンを放出させようとしまうのは、どこか満たされない人生を歩んでいるという感覚があると言えよう。自我人格を克服できないと、どうしても欲望(煩悩)に支配された生き方をしてしまうのである。

 欲望に支配されてしまっている自我人格を乗り越えて、自我人格と自己人格を統合させて、全体最適の高い価値観を持つ自己人格を確立するには、お酒を飲む習慣を持っていては難しいと思われる。勿論、100%無理だとは断定できないが、少なくてもドーパミンに支配されているような生き方では無理である。それは、お酒だけでなく煙草やギャンブルに依存していても難しい。アルコール依存症は、本人だけでなく家族を不幸にする。欧米では、アルコール依存症になる人が多く社会問題化している。だからこそ、ソバーキュリアスという生き方に人々が注目し、その生き方がお洒落でカッコいいと、もてはやされているのかもしれない。

教養が高い親ほど子育てに苦労する

 高学歴で教養があり知能が高い親は、子育てにもその能力を発揮して、優秀な子どもを育てることが出来ると思われている。ところが、逆にそういう優秀な親ほど子育てに苦労する例が多いのである。勿論、例外もあるし、立派な子育てをしている教養の高い親もいる。しかし、教養が高いと思われる医師・学者・教師である親が、子育てを苦手だと感じるケースが多いのも事実である。特に、コミュニケーション能力が非常に高い親ほど、子育てに苦難と困難を味わうことになりやすい。そして心が折れてしまうことも多いのである。

 一般的に、知能が高くてコミュニケーション能力にも秀でている親は、子育てが得意だと思われている。子どもを納得させることが出来るし、モチベーションを上げさせることが可能だと想像する人々が多い。ところが、子どもはコミュニケーション能力が高い親に対して、表面的には従順な姿勢を示しながら、本心では反発し反抗していることが多い。だから、親の言うことにハイハイと返答しながら、その場だけは取り繕うが、親が嫌がることを続けるし、親の期待に背く行動をとり続けることが少なくない。

 高学歴で教養があり知能の高い親は、自分が歩んできた道が唯一正しいのだと思い込み、同じような道を子どもにも歩ませようとする。勉学に励むことが大事であり、優秀な成績を残して、著名な大学を卒業して立派な職業に就くことが、子どもの幸福だと信じて疑わないのである。自分もそうやって努力して現在の地位や評価を得たのだから、子どもがそうするのは当たり前だと信じ、子どもに過干渉と過介入を繰り返す。中には、親の言うことに疑問を持つことなく、親の期待通りに歩む子どももいるが、少数である。

 何故、高学歴で教養がありコミュニケーション能力の高い親に、子どもは反発するのであろうか。または、一応従順な姿勢を見せていながら、期待に背く行動をするのであろうか。中には、発達障害グレーゾーンになってしまったり、不安定愛着スタイルを抱えてしまったりする子どもがいる。そして、不登校になったりひきこもりになったりする子どもも少なくないのである。多くの不登校やひきこもりに接してきた自分の経験からすると、そんな親子が非常に多いのも事実である。優秀な親であるが故に、子どもは苦しむのである。

 教養の高い親が言うとおりに信じて、けっして親の指導に疑問を持たずに、立派な職業についたとしても、社会人になってから本人が苦労するケースも多い。アカデミックの世界や医療関係で職に就くとか、または行政職であれば、ちょっと変わった人で使いにくいなと、思われるくらいで済む。ところが、民間企業だとそんな訳には行かない。主体性、自主性、自発性、責任性が持てないし、指示待ちの社員になってしまい、まったく使い物にならない。当然、企業内ではお荷物社員になってしまい、休職から離職するケースが多くなる。

 社会に出れば、事細かく指示したり指導したりしてくれる親は居なくなる。当然、自分で考えて決断して行動しなくてはならない。今まで干渉して介入してくれた親がいない。人間とは本来、自己組織化して自立していかなければ、社会ではひとりでは生きていけない。コミュニケーション能力の極めて高い親の元で、次はこうするのだよ、こうしては駄目なのよと、行動の先取りをして育てられた子どもは、親に依存しているので自立できていない。絶対的な自己肯定感も確立されていないので、苦難困難があるとすぐに挫折してしまう。

 教養があって学歴が高く、知能が高い親は、完璧な親を演じやすい。それに、子どもの前では感情を表出することも少ない。喜びや嬉しさ、悲しさや寂しさも、子どもの前ではあまり見せない。さらには、純粋なインナーチャイルドを子どもの前では、絶対に見せない。非の打ちどころのない親を持った子どもは日々息苦しさを感じる。強烈なエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを持ってしまうと、親を超越できないから、精神的な自立が拒まれる。子どもの前で完璧な親を演じ切ってはならず、マイナスの自己をさらけ出すことも必要なのである。

※まずは子どもをあるがままにまるごと愛することが肝要で、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注ぐことが必要です。そして、4歳ないし5歳頃から少しずつ父性愛である条件付きの愛である『躾』を始めることが大切です。この順番を間違って、2~3歳ころから過干渉や過介入を繰り返して、子どもを支配してコントロールしようとしてしまうと、子どもは自己組織化せずに、親のロボットみたいな生き方になってしまいます。子どもに良い子を演じさせてしまうような子育てをしてはならないのです。教養があり学歴の高く、知能が高い親は注意が必要です。

溺愛するのは悪いことなのか

 札幌市のホテルで起きた首切断殺人事件が、父と娘の共犯によって起こされた犯行だという衝撃的な報道がされている。そして、母親もこの事件に関わっていたとして逮捕される事態にもなっている。娘ひとりで殺害を実行して、それに父と母が協力をしたのではないかと見られている。さらに、この娘は小学校から不登校になっていて、29歳になった現在はひきこもりだったとも伝えられる。この事件が起きた原因のひとつには、子どもを甘やかし過ぎて育て、溺愛した為だと主張する専門家が多数いるのには驚いた。

 教育評論家や家庭問題のアナリストの中には、こんな時代錯誤とも言えるような見識や理論しか持っていない専門家がいるのである。不登校・ひきこもりが一向に減らずに、改善する兆しがないのも当然である。おそらく、この事件の報道を見た教育関係者や文科省の役人たち、そして政治家たちも同じような原因分析をしたのではないだろうか。精神科医師である父とその妻は、この娘を過保護状態で育てて、溺愛した為に娘を不登校・ひきこもりにさせてしまい、このような凶悪事件を起こさせたのだと結論付けたいのに違いない。

 子どもを溺愛してしまうと、子どもを駄目にしてしまうというのは、教育関係者にとっては定説のようになっている。果たして、それは発達科学において正しいのであろうか。溺愛とは、限度を超えて盲目的に愛を注ぐことだと言える。それは親子関係や恋人関係(夫婦関係)にも用いられる。一般的には、溺愛してしまうとその関係を破綻させてしまうと思われている。溺愛する背景には、親が子どもに依存しているとか、自分自身が愛情に飢えている為に起きると分析されている。溺愛とは、愛に溺れると書く。

 溺愛とは自分を見失ってしまうくらいに対象者を愛してしまう行為ではあるが、果たしてこういう愛し方は間違っているのであろうか。確かに過ぎてしまうのは良くないことではあるが、愛するという行為が悪いことではない。両親や祖父母が、我が子や孫を溺愛するのは、当たり前のことである。溺愛することが悪いことだと決めつけるのは、どうにも納得できない。札幌の首切断事件を起こした娘の両親が、我が子を溺愛していたとは、到底思えない。事件を起こした娘は、逆に両親からの愛情に飢えていたのではなかろうか。

 世の中の親たちの多くは、我が子を深く愛することが出来ないでいる。特に、母性愛と言える無条件の愛を我が子に注ぐのが極めて下手である。条件付きの愛である父性愛を注ぐのは得意なのだが、あるがままにまるごと我が子を愛することが出来ない。何故かと言うと、自分自身がそのような愛情を注がれて育っていないからである。だから、現代の子どもや若者は、絶対的な自己肯定感が確立されていないのである。若者だけではない。中年者から高齢者も同じである。札幌の両親も自己肯定感が確立されていなかったのであろう。

 ましてや、札幌の事件を起こした父親は、正しい形而上学を学んでいなかったのである。形而上学というのは、科学を超越した神の領域の学問である。現代の日本人の殆どが、形而上学という概念を持ち得ていない。札幌の事件を起こした父親が、正しい形而上学を学んでいて、娘に対しても常日頃から形而上学について話していて、形而上学に基づいた行動をしていたとしたら、こんな不幸な事件は起きなかった筈である。勿論、娘が不登校とかひきこもりにもならなかったに違いない。両親が、絶対的な自己肯定感を持ち、形而上学を認識していたら、娘は幸福な人生を歩んだであろう。

 過保護とか溺愛は、けっして悪くないのである。札幌の両親は、良い子に育てようとか、立派に育てようとして、娘に対して過干渉や過介入を繰り返していたに違いない。この過干渉や過介入こそが、子どもを駄目にするのである。溺愛や過保護であったとするならば、干渉や介入はしない筈である。あるがままにまるごと愛するという行為を続けていたら、子どもは自ずと自己組織化するであろうし、絶対的な自己肯定感が確立する。そのうえで、神の哲学である形而上学を学んでいたなら、幸せな生き方が出来たに違いない。溺愛することが悪いと勘違いするような報道は控えてほしものである。

滝と龍と私(自分)

 滝を訪ねてじっくり眺めることが、Awe(オウ)体験として最適だというブログを前回書いた。滝には龍が住んでいて、そこを遊び場にしていて、昇ったりダイビングしたりを繰り返して楽しんでいる姿が想像できる。その龍とは自分の心の裡にあるインナーチャイルドとか抑圧されてない本来の自己ではないかということを記した。そして、龍と自分を重ねることで、自分自身の生き方を深く洞察して、本来の生き方を取り戻せるような気がするのである。そのことを、もう少し掘り下げて考察してみたいと思った。

 龍が滝の周辺で水遊びをしているというのは、昔の人々が想像していたことである。だから滝という漢字に竜が使われているし、龍が冠された滝が全国各地に存在する。龍の住処であるというのも日本各地で共通している認識である。その龍というのは、自由気ままな存在であり、ある時は大暴れして大雨を降らし、大水害を起こすこともある。逆に龍が沈み込んで活動を停止してしまうと、雨が降らなくなり干ばつを起こしてしまうと考えたようである。水害を防ぐために龍を鎮める祭りや、干ばつを終わらせる為の人身御供の儀式をしたのであろう。

 いずれにしても、天変地異や自然の猛威を龍のせいだとしたのは、自然の力というものが人間の力ではどうにもならないものだと認識していたからであろう。自然の猛威の前では、人間なんて無力なのである。だからこそ、人間がコントロールできない水を自由自在にできるのは、龍しかいないものだと認識して、龍神として畏れ敬ったのではなかろうか。そして、その龍神を力で抑える存在として不動明王を奉り、龍を慰める存在として十一面観音菩薩を祀ったのだと想像できる。昔の日本人には、豊かな想像力があったように思う。

 昔の日本人は、滝と龍の関係だけでなく、龍と自分自身の心を重ね合わせたのではないかと思われる。人間の心の中には、穏やかな心と激しい心を両方持ち合わせている。その激しい心というのか、マイナスの感情と言える怒り・憎しみ・妬み・悲しみ・寂しさというようなものを、龍という存在と同化させようと思っていたのではあるまいか。それらのマイナスの感情(自己)を、出さないようにとか周りに感じ取られないように、我慢して無理して暮らしていたように思われる。マイナスの自己を悟られないように生きてきたのだ。

 何故、マイナスの自己を封じ込めたのかというと、そのような激しい感情を周りの人々にぶつけてしまうと、良い関係性を損なうと怖れたからである。しかも、自分の心にはそういう怒り・憎しみ・妬み・悲しみ・寂しさなどのマイナスの感情はないのだと、自分自身に言い聞かせてきたのである。さらには、自分の心の奥底にある無邪気で純真な心であるインナーチャイルドさえも、抑え込んでしまい生きづらい感覚を持っていたように感じる。インナーチャイルドが暴れださないように、逆に落ち込まないようにと気遣っていたのである。

 自分の心の裡にある龍(マイナスの自己やインナーチャイルド)を封じ込めて存在しないことにして生きていると、強烈な生きづらさを感じるだけでなく、自己否定感が強くなり過ぎる。そうなると、いろんなことへの挑戦意欲や苦難困難を乗り越えようとする気力さえも萎えてしまう。嫌なことや辛い出来事が続くと、益々落ち込んでメンタルがやられてしまうこともある。自分の中に存在するマイナスの自己やインナーチャイルドを、まるっきり否定してしまい存在を消そうとしてしまうと、本来の自分を見失い生きる気力を失ってしまう。

 人生に疲れ切ってしまったりメンタルがやられたり人も、滝とそこで無邪気に遊ぶ龍を眺めていると、その龍に自分を重ね合わせることで、自分を取り戻せるのである。抑え込んでしまったマイナスの自己を表出させても大丈夫だよと、滝と龍が教えてくれる。本来の無邪気で純真なインナーチャイルドを、無理に抑え込まなくてもいいんだよと、龍が囁いてくれる。無理したり我慢を繰り返したりすると、本来の自分を見失ってしまい、どう生きていいのか悩み苦しみ、人生の迷宮に迷い混んでしまう。それでも、滝とそこに遊ぶ龍と出会い、しばし龍が自由自在に遊びまわる姿を眺めることで、あるがままに生きていいんだよと悟らせてくれるのである。

※いろんな滝を巡って眺めたとしても、そこに住む龍と誰でも出会えるのかというと、けっしてそうではありません。滝を巡り龍に出会えるかどうかは、その際に同行してくれるガイド役次第だと言えます。龍とコンタクトをして、龍のように伸び伸びと無邪気に生きることの大切さを教えてもらう為には、龍を感じる感覚を鋭くしてくれるブースター役が傍らにいることが必要なのです。イスキアの郷しらかわでは、滝めぐりツアーにはガイド役(ブースター)が同行します。

Awe体験に最適な滝めぐりツアー

 Awe(オウ)体験は、人間が心身共に健康であり続け、精神的に成長し進化して行き、正しい生き方を志す人間形成には必要不可欠なものだと、前回のブログで発信させてもらった。それでは、その大事なAwe体験を実践するには、どんな自然体験が相応しいのかという点を明らかにしたいと思う。昔の修行僧や修験者は、厳しい山岳修行を修めてAwe体験としたようである。しかし、現代人が生命の危険を冒すような山岳修行は難しい。そんな体力や気力を持つのは並大抵のことではない。もっと安全で確実なものはないだろうか。

 過去にAwe体験によって悟りを開いた歴史上の人物は、少なくない。まずは仏教の創始者である、仏陀が挙げられる。恵まれた裕福で安定した環境を自ら捨てて、厳しい修行を続けて涅槃の境地至ったと言われている。その後日本では、弘法大師空海が高知県室戸岬の洞窟に籠り、虚空蔵菩薩真言を100万回唱えて悟りを開いたと伝わる。役行者も厳しい山岳修行で悟りを開いた。天台宗においては、千日回峰行という決死の行を満了して大阿闍梨となる。真言宗では大峰奥駆け修行をやり遂げて悟りを開くと言われている。

 我々のような凡人が、そんな大それた修行を行うべくもないが、多くの人々が滝行をして煩悩からの解放を望むこともある。今でも、大峰山、御嶽、出羽三山、岩木山、七面山などでは修行としての参拝登山が行われている。これらの少しハードな修行をしたとしても、煩悩を完全に滅却して悟りを開くのは極めて難しいし、参加するにはハードルが高いように感じる。不完全ではあっても、危険を伴わずに何度も実行できるAwe体験はないものかと探したら、ようやく見つけることが出来た。滝めぐりツアーによるAwe体験である。

 滝は人気の観光名所であることが多い。何故滝の人気が高いのかというと、水がどどーっと流れ落ちる迫力ある眺めや音に惹かれるのではなかろうか。そして、ほとばしる水のしぶきや細かく漂う霧のような水滴から受けるマイナスイオンも心地よいのだろう。流れ落ちる水の姿から諸行無常を感じたり、滝や流れの音から1/fの揺らぎを体感したりする人もいることだろう。いろんな魅力が滝とその周辺の景色にあると言えよう。そんな魅力ある滝をゆったりとした気分で眺めていると、俗世間の嫌なことも忘れられるかもしれない。

 滝や瀧という漢字を見ていると、水と竜(龍)から出来ていることが解る。滝つぼには竜が住むとも言われている。そのせいか、各地の滝の名所に竜が付けられていることが多い。日光の竜頭の滝、那須塩原の竜化の滝、和歌山県の宝龍の滝、全国各地の龍門滝、水と龍は切っても切れない縁があるように感じられる。古来より、龍は水の化身とも言われている。天竜川や九頭竜川といった竜の名前が冠された川もある。昔から、龍が暴れると水害が起きると信じられてきた。竜神とか竜王、または竜宮として龍を崇め奉ってきた歴史がある。

 龍の化身である水や瀧を畏れると共に崇めてきたのは、人間の力では龍をいさめることが到底及びもつかないことを、身をもって感じていたからに違いない。人智の及ばないことだから、龍をいさめて抑えることが出来るのは人間ではなく、不動明王や十一面観音菩薩ではないかと思い至り、滝の近くに不動明王や観音菩薩を祀ったのではないかと思われる。不動明王の圧倒的な法力によって龍をいさめたり、観音菩薩の慈悲の力によって龍をなだめたりしたのではあるまいか。そういう感覚を日本人は持っていたのであろう。

 滝を眺めながら自分自身の生き方を振り返り、自然と自分の関係性を見つめ直し、どう生きるべきかを問うてみるのは、とても有意義だと思われる。何故かと言うと、水の化身である龍は、自分自身だからだ。自分の心の中にある、時には暴れだしたり塞ぎ込んだりするマイナスの感情や自己が龍であるという見方が出来ないだろうか。または、自分で抑え込んでしまったインナーチャイルドが龍そのものではなかろうか。その龍であるマイナスの自己やインナーチャイルドを、素直に認め受け容れて慈しむことで、慈悲の心を開花させることが出来るような気がする。その時に、傲慢な心を捨て去り、自然と一体化して本来の謙虚な心を取り戻すことが出来るのだと確信する。滝めぐりツアーがAwe体験として最適な理由が、ここにある。

※イスキアの郷しらかわでは、Awe体験としての滝めぐりツアーを実施しています。現在、定期的なツアーはまだ企画していませんが、➀奥日光三大名瀑ツアー(華厳の滝、竜頭の滝、湯滝)➁奥久慈の滝めぐりツアー(月待ちの滝、袋田の滝、生瀬滝)の二つのコースをご案内しています。ガイド料金は頂いていません。交通費は別途必要です。観光ツアーですと、時間に追われてゆっくり眺めることは出来ませんが、格別な珈琲とスィーツをご用意しますので、時間の許す限り滝(自分自身)とじっくり対話してください。問い合わせフォームからお申込みください。

Awe体験が人間の正しい生き方を導く

 Awe体験(オウたいけん)とは、大自然や大宇宙の悠久さや広大さを体感することで、自分自身の存在意義や自らの小ささを感じる体験のこと。このAwe体験は、その人間が生きる上で、とても大切な智慧を授けてくれると言われている。アメリカのジョン・テンプルトン財団の研究によれば、Awe体験をしている人は、見破る力、騙されない思考力を持つようになるという。Awe体験をしていない人は、情熱のある人の話や面白い話には弱く、説得されやすくなる。ものすごく情熱的に話されると、詐欺師でも信じてしまう。

 それに対してAwe体験をしている人は、真実を見破る力があるらしい。インターネット上の嘘の情報やフェイクニュースにも騙されることもなく、陰謀論に嵌まってしまうこともないという。また、カルト宗教に入信してしまうこともないし、怪しい自己啓発セミナーに騙されることもなくなる。さらには、ナダ・トロント大学のステラー博士らの研究では、Awe体験をすると自分の自我(エゴ)を少なくし、謙虚な気持ちを起こすことがわかっている。人間としてとても大事な、社会貢献性を持つということである。

 アメリカ・アリゾナ州立大学のシオタ博士は、Awe体験の効果として①マインドフルネスと同じように、何ごともありのままに受け取ることができる②心と身体をリラックスさせる③好奇心を引き出す④人と心のつながりを作る⑤利他の心を引き出す⑥心身を健康にする⑦創造性を引き出す⑧希望に満ちた状態になる⑨幸福感が高まる⑩嫉妬心など、ネガティブな感情が少なくなる。が起きるとしている。Awe体験によって、単に心が洗われるだとか、気分転換になるだけでなく、具体的に心身ともに良い影響があるとしている。

 中国・広州大学のリー博士らの研究は、Awe体験が「社会性行動」にどのような影響があるかを調べている。Awe体験で未来の時間の感覚を持てるようになり、社会性のある行動が取れるようになるという研究結果を出している。未来の時間感覚を持てるという意味は、自分が存在していない未来さえも、自分が生きている「いま」と同じような感覚で捉えるということである。つまり、自分が生きていない未来に対しても責任を負うということだ。100年後や500年後の未来に思いを馳せ、SDGsを大切にする生き方をするのである。

 カナダ・トロント大学ステラー博士らの研究ではAwe体験を頻繁にしている人は液性免疫を制御するサイトカインの一種であるインターロイキン6の濃度が低く保たれているという結果が出ている。インターロイキン6が長い期間に渡り過剰に産生されると、関節リウマチ等の自己免疫疾患を発症したり、慢性炎症性疾患を起こしたりする。また、癌細胞の増殖や癌転移の促進をしてしまうことも判明している。Awe体験を頻繁にしていると、病気にならないだけでなく、健康な身体を保って長生き出来るということである。

 日本では、古来より僧侶や修験者が山岳修行をしてきた。まさしくAwe体験によって高い人間性や社会性を獲得して、魂の浄化や進化が実現できると経験的に認識していたのであろう。それでは、登山をする人がすべて高い人間性を持ち社会貢献性を持ちうるのかというと、そうではない。単なる自然体験を沢山したからと言って、それがAwe体験になる訳ではない。大自然の雄大さと自分の小ささを実感もせず、傲慢な態度姿勢で、自然を愛でることもせず、山自慢するような登山をする人にとっては、Awe体験にはなり得ない。

 いくら自然体験を積んだとしても、雄大で偉大な自然や宇宙の営みを体感・実感して、それと比較していかにちっぽけな存在としての自分を自覚しなければ、Awe体験にはならない。さらには、広大な自然や宇宙の一部である自分を認識して、自然や宇宙と一体化した感覚を持ち、生かされている自分を自覚することが、Awe体験として必要なのである。その為には、自然の中に身を置いた際に、センスオブワンダー(驚きの感性)持つことが肝要である。そして、このセンスオブワンダーは、小さい頃の豊かな自然体験を通して、傍らの信頼する大人から導かれることが必要である。センスオブワンダーを持つ人間だけが、Awe体験を認識することが許されるのかもしれない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、「Awe体験ツアー」をガイドしています。自然の雄大さや偉大さを体感するために、滝めぐりツアーやトレッキングをしながら、センスオブワンダーを持つために必要なことをレクチャーします。参加者の年齢・体力に合わせた自然体験ツアーを企画提案しますので、問い合わせフォームからお申込みください。

寝取られた男が恥の上塗り

 妻が不倫をしたと記者会見して、相手を非難している姿を見ていると、何だか奥さんが可哀そうになってしまう。勿論、特定の伴侶がいるのに不倫をするというのは、道義的に許されることではない。しかし、妻は献身的に尽くしてくれたと、妻を擁護する言葉を連ねながら、一方では相手の男がすべて悪いし、謝罪をしないと言って糾弾している姿を世間に晒しているのは、みっともないような気がする。浮気をした妻や相手の男性を擁護する訳ではないが、寝取られてしまった男性が記者会見までして訴えるのは、実に不思議な光景だ。

 一昔前であれば、自分の伴侶を寝取られた男が、記者会見とか情報発信などをするなんて考えられなかった。自分が悪くないのだから恥じることはない、というのは正論である。逃げ隠れする必要はない。とは言いながら、自分の伴侶が他の男性に恋心を抱くと言うのは、結論から言うと自分よりも浮気相手に魅力があったということである。言い換えれば、相手の男性との恋愛競争に負けたとも言えよう。もし、それがもし自分であったしたら、自分があまりにも惨めであり、人さまの前に寝取られた自分を絶対に晒したくはない。

 昭和22年までは姦通罪という刑法上の不貞の罪があった。江戸時代は、不義密通を働いた妻と浮気相手は死罪になり、夫はその場で両方を切り捨てても罪にはならなかった。なお姦通罪は、女性とその相手だけに適用されて、夫が不義密通をしても罪にはならなかった。江戸時代の不義密通の罪もまた、女性とその姦通相手にだけ適用された。女性だけに適用した不平等の罪だ。これは、男性中心の時代だからであり、財産を子どもに相続させる際に、自分の遺伝子を繋ぐ子どもだけに財産や権力を譲りたいという切実な願いから出来た罪であろう。

 不義密通の罪や姦通罪という法的な縛りがあったというのは、古来より伴侶以外の男性に心を奪われてしまい、身も心も捧げてしまう女性が相当数存在していたという証しであろう。何故、そんな妻たちが沢山いたのかというと、夫たちに魅力がなくなってしまい、夫にときめかなくなってしまったからではなかろうか。または、夫をリスペクトできなくなり、詰まらない人間に見えてきたというか、真実の姿が見えてきたのかもしれない。身勝手で自己中で、妻の心に寄り添えず、自分の損得しか考えない夫に、妻は愛想を尽かしたのだ。

 すべての夫がこんな酷い男だという訳ではないが、妻たちが夫のパワハラ、モラハラ、セクハラに耐えられなくなったケースは多いに違いない。その逆で、妻にときめかなくなった夫もいることだろう。何故、そんなことになったかというと、自分を磨く努力を怠ったからだとも言える。若い頃のスマートな体型を保つ為に節制と運動をし、健康を保つための食生活を心掛ければ、みっともない体型にはならない。また、常に自分を高めようと勉学に勤しみ、魂を磨く努力を怠らなければ、魅力が衰えることはない筈だ。

 自堕落な生活を送り、自分の幸福だけを追求して、仕事が忙しいと家事育児を放棄して、妻への傾聴と共感が出来ない夫を愛することが出来る妻がいる訳がない。そんな夫婦関係であるのだから、婚外恋愛についつい心を奪われるのも仕方ないことであろう。例の寝取られた男の続報だが、実は自分も浮気をしていて、部下にパワハラをしていて、妻にはモラハラとパワハラをしていたのではないかとの報道がされている。そして、寝取った相手も当該の夫に反撃をしている。泥試合の様相を呈している。実に醜い不毛の争いだ。

 結婚当時の魅力を失わない努力を続けるのは当然だが、人間は日々成長していかなければ時代に取り残されるだけでなく、家族からもリスペクトされ続けるのは無理である。身体的にも、精神的にも、そして人間的にも進化を続けることが、輝き続けることの必須条件である。もし、そのような努力を積み重ね、魅力ある男性であり続けることが出来たなら、他の男に寝取られることなんてなかった筈だ。他の男に寝取られたなんてカミングアウトするのは、自分磨きに失敗したんだと宣言しているようなものではないか。こういうのを恥の上塗りと、世間では言うのである。

自衛隊の発砲事件を2度と起こさぬには

 自衛隊の射撃訓練場における発砲事件が起きた。事件に遭われた方にとっては不幸な事件であり、犠牲になってしまわれた方の冥福を祈りたい。事件の背景が明らかになりつつあり、どうしてこの事件が起きたかという原因、またはこの事件を防げなかった安全システム上の問題が取り沙汰されている。このような事件が起きる度に、再発防止策が検討され、安全システムの見直しが行われる。しかし、どんなに安全システムの改善を実施しても、このような発砲事件は絶対に無くならないし、これからは益々増えるに違いないだろう。

 何故なら、警察官が拳銃を用いて自らの命を絶ってしまうという事案が、最近多発しているが、この発砲事件の原因は共通しているからである。自衛隊は、他人を殺傷していて、警察官は自分に対する発砲だから、まるっきり違うと思っている人が多いことだろう。政治家や行政組織の管理者たちは、全然違う事案だと捉えているだろうが、実は根っこは同じなのである。これらの発砲事件を起こした当事者たちは、同じような生きづらさを抱えていたのは間違いない。つまり、自己愛性の障害を抱えていたことが容易に推察できる。

 自ら命を絶った警察官も、自動小銃で教官を射殺した自衛官候補生も、自己愛性の障害を抱えていたのではなかろうか。それはどういうことかというと、彼らに共通しているのは、自尊心や自己肯定感の欠如である。人間とは本来、マイナスの自己も含めて、自分をまるごと好きになり愛せることが、心身共に健やかに生きる為には必要不可欠なことである。自分の嫌な自己も含めてすべて愛せるからこそ、他人をも好きになり愛せるのである。勿論、嫌なことや辛いことが起きても、絶対的な自己肯定感が確立していれば、乗り越えられる。

 ところが、絶対的な自尊心や自己肯定感が確立されてないと、辛いことや悲しいこと、自分で乗り越えるのが難しい苦難困難に遭ってしまうと、その課題から回避したり逃避したりしてしまうのである。自分がそんなに辛い目に遭うのなら、この世から自分を抹殺しようとか、自分をそんな目に遭わせる存在を抹殺しようと短絡的発想をしてしまうのである。絶対的な自己肯定感を確立した人は、けっしてそんな気持ちにはならない。乗り越えるための方策を考えるし、その障壁を乗り越えられない筈がないと自信を持ち、向かって行くのだ。

 現代のような不寛容社会、または自己肯定感を育てることが出来ない教育システムの中では、このような自己愛性の障害を持った人々を大量に生み出してしまっているのである。つまり、絶対的な自己肯定感を確立した人は明らかに少数派であり、強い自己否定感を抱えている人が大多数になってしまっている。当然、警察官の中にも多数いるし、自衛官を目指す人たちにも大勢存在している。そういう自己愛性の障害を抱えている人たちが、一瞬で人の命を奪ってしまう拳銃や自動小銃を扱っているのだ。恐ろしい社会である。

 銃所持が許されている米国でも、拳銃やライフル発砲事件が多発している。やはり、自己愛性の障害を持つ人々が起こした事件だと言えよう。絶対的な自己肯定感を持つ人は、自分を心から愛することが出来るし、他人をもまるごと愛することが可能だ。そういう人は、自分自身を自ら傷つけるようなことをしないし、他人を攻撃することもない。何故、絶対的な自己肯定感を持てず自己愛性の障害を抱えてしまうかと言うと、それは教育システムの不備によるものだと言わざるを得ない。教育制度が根本的に間違っているからである。

 人を育てるには、まずは絶対的な自己肯定感を産みだす為に、絶対的な無条件の愛である母性愛が必要である。0歳~3歳の間にたっぷりと母性愛が注がれてから、条件付きの愛である父性愛をかけることが肝要である。ところが、現代の家庭教育においては、あるがままにまるごと愛するという教育プロセスが欠落している。中途半端な母性愛のままに、父性愛である干渉や介入が行われる。しかもそれがこうしちゃ駄目、あれしては行けないと過干渉の育たれ方をされてしまうのだ。これでは人間は自己組織化されないし、自己肯定感なんて育つ筈がない。自己愛性の障害を抱えてしまい大人になり、生きづらい人生を送るのだ。いくら安全システムを見直しても、発砲事件はなくならないのだ。

※学校教育や職場教育においても、自己否定感をさらに強くしてしまう教育が蔓延っている。誉めて育てるということをせずに、子どもや部下をコントロールする育て方をするのだ。それも、これして駄目あれしては行けないと、相手を否定するダメダメ教育をするのである。警察や自衛隊ではその教育傾向が極めて強い。これでは、自己愛性の障害を抱えている人たちのメンタルが壊れてしまうのは当然である。家庭教育も学校教育も、そして職場の教育も、抜本的に見直すことが必要である。

生きづらさの原因は不安型愛着スタイル

 子どもの頃からずっと生きづらいのであれば、それは不安型愛着スタイルから来るものかもしれない。愛着障害というメンタルのパーソナリティ型がある。小さい頃に虐待やネグレクトを受け続けて育った子どもは愛着障害を抱えてしまい、強烈な生きづらさを持つだけでなく、様々なメンタルの障害を持つし、身体的な病気をも抱えてしまう。そんな虐待やネグレクトを受けた訳ではなく、ごく普通に愛情を持って育てられたのにも関わらず、やはり生きづらさを抱えてしまう事がある。それは、不安型愛着スタイルによるものである。

 両親から愛情をたっぷりと注がれて、十分な教育をされてきたのに何故か不安や恐怖感を抱えていて、学校に行きづらくなったり社会に適応しにくくなったりする人生を送ってしまう子がいる。親からの愛情が不足した為に『愛着』に問題を抱えると言うなら理解できるであろう。ところが、親から有り余るような愛情を受けているのに、愛着に不安を持ってしまうことがある。それは、親からあまりにも強い干渉や介入を受けた場合である。そして、かなり高学歴であり教養・知識が高く、コミュニケーション能力が高い親ほど陥りやすい。

 つまり、聡明な親ほど子どもを不安型愛着スタイルに追い込んでしまうのである。勿論、子どもをわざと不安型愛着スタイルに追い込んで、生きづらさを抱え込ませてしまう親なんて、いる訳がない。子どもを立派に育てて、幸せな人生を送ってほしいと願うのが親である。しかし、その思いが強いばかりに『良い子』に育ってほしいと願い過ぎた時に、取り返しのつかない過ちを犯してしまうのである。子どもに対して、親は過度に期待するものである。だからこそ、知らず知らずのうちに過干渉と過介入をしてしまうのであろう。

 人間には本来自己組織化する働きがある。つまり、生まれながらにして主体性や自主性・自発性、そして自己成長性や進化性を持つので、それらの自己組織性を伸ばしてあげれば、ひとりでに成長して素晴らしい大人になっていく。その自己組織化能力を伸ばすためには、子どもに対して余計なコントロールや支配をしてはならない。自己組織化の能力は、干渉や介入をなるべくせずに、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注ぐことにより成長する。逆に父性愛である条件付きの愛やしつけを厳しくし過ぎてしまうと、自己組織化が止まる。

 三つ子の魂百までもという諺通り、子どもは三歳の頃までの育てられ方で、その人の一生が決まってしまうと言っても過言ではない。親が子に対して『あるがままにまるごと愛する』という体験をたっぷりとし続けなければ、子どもは自己組織化しないのである。現代の親たちの多くは、子どもに対して過干渉と過介入を必要以上に繰り返して育てる。そうするとどうなるかというと、自己組織化する能力が育たずに自立できなくなる。そして、不安や恐怖感を必要以上に抱えてしまい、社会に対して上手く適応できなくなるのである。

 幼い子どもというのは、ありのままの自分をまるごと愛してくれて、どんな自分であっても見離さず必ず守ってくれる庇護者がいれば、絶対的な安心感・安全観というものが形成される。少しぐらい親に反発したり反抗したりしても、温かい態度で包んでくれる存在があってこそ、不安感・恐怖感は払拭されて、どんな苦難困難にも向かっていけるようになる。ところが、親から所有され支配され、強くコントロールされて親の思い通りに育てられると、強い不安や恐怖に支配されてしまうし、自立が阻害されてしまう。これが不安型愛着スタイルという状態である。

 不安型愛着スタイルになってしまうと、強烈な生きづらさを抱えてしまうし、苦難困難を乗り越えることが出来なくなる。何故不安型愛着スタイルになるかというと、愛情ホルモンまたは安心ホルモンと呼ばれる、オキシトシンというホルモンが不足するからである。故に、HSP(感覚過敏症)にもなる。自閉症スペクトラム障害やADHDのような症状を呈するケースも多い。自己肯定感が低くて、人の目を気にしやすい。依存性や回避性のパーソナリティを持つことも少なくない。育て方が悪いせいだと親を責めることも出来ない。何故なら親もまた同じように育てられ方をしたからだ。不安型愛着スタイルというのは世代連鎖をするから恐いのである。