NPOを辞めた本当の理由

NPO法人に最初に関わったのが平成11年だから、昨年まで実に18年もの期間に渡りNPO法人活動をしてきたことになる。その間に、3つのNPO法人で設立当初から理事になり、中心メンバーとして運営に携わってきた。それらのNPO法人では、副理事長という立場で経営にも参画していたし、企画や管理、そして教育という重要な部門での担当をさせてもらい、NPO活動に邁進してきた。そのNPO法人を昨年で、すべて辞めさせてもらった。あれほど情熱を注いできたNPO法人から、すべて手を引いたのである。

何故、NPO法人の活動から身を引いたのかというと、表立った理由としては、イスキアの郷しらかわの活動に専念したいからと宣言してきた。しかし、それも辞めた理由の一つではあるが、本当の理由はNPO法人活動では、社会変革や人々の意識改革が難しいと確信したからである。NPO法人活動をする目的は、活動を通して崩壊してしまったコミュニティを再構築して、お互いを支え合う地域社会を創り上げることであろう。言い換えると、全体最適を目指し、関係性の豊かな社会を創ることだと認識している。それが、NPO活動だけでは、実現するのが無理だと感じてしまったのである。

NPO活動を始めた平成11年から約15年間は、人々の意識改革を実現して、望ましい社会を創造して行けると確信していた。その為に、NPO活動に心血を注いできたつまりだ。ところが、自分の力量が足りなかったせいかもしれないが、人々の意識が変革できたという実感がまったくない。そればかりか、社会における人々の意識は益々低劣化へと向かっているとしか思えない。さらに、NPO活動の経済的自立が出来ないから、活動が先細りしているのである。NPOの将来への展望が見い出せなかったのである。

特定非営利活動促進法が出来た平成10年には、社会変革を可能にするのはNPO活動しかないと、心が躍ったものである。ところが、NPO法人が誕生して既に20年になるが、職員の給与は殆どが最高でも大卒初任給レベルであるし、役員報酬が年間500万円以上の理事は皆無である。ということは、専任の理事はNPOの報酬だけでの生活が困難だし、NPOの職員が結婚して子どもを育てるというのは、極めて難しいということである。福祉系のNPO法人では例外もあるが、殆どのNPO法人で、専任の優秀な役職員が集まらないのは当然である。

NPO法人の役職員で、経営のセンスや実務能力を持っている人は極めて少ない。ましてや、マネジメントの諸原則を一般企業の役職員のように真剣に勉強している人は殆どいない。理念は立派でも、経営能力を持たない役員が多いのが実情である。マーケティングの基本原則やイノベーションの基本さえ知らないのである。そもそもNPO活動にとって、社会的イノベーションを起こすというのも本来の役割の一つである。しかしながら、イノベーションの基本原則さえ知らないのだから実にお粗末である。

NPO活動における経営と財務の自立が出来ていないのは、委託事業や補助金に頼り切っているからであろう。または、公的収入に依存せざるを得ないからである。拡大再生産の為の自主財源を確保できるほどの収入を得るようなNPOは皆無である。内部留保を持たなければ、設備投資や人材育成に対する先行投資ができない。しかるに、委託業務や補助金業務に依存していては、優秀な人材を育てることは出来ないし、委託費には満足な管理経費さえ認められないから、NPO活動が活性化する望みはないのである。

結論として導き出されるのは、地域活性化やまちづくりは民間の営利企業でしかなしえないということである。仮定の話として、過疎地域の法人の殆どが、NPO法人や市民活動団体になったとしよう。そうなれば、法人税や役職員の所得税などの税収は上がらず、地方自治体の存続すら危ぶまれる。地域経済の浮沈は民間企業の活性化にかかっているのである。したがって、我々が今なすべきなのは、優秀な若者が地域で活躍するビジネスモデルを創り上げることである。都会の優れた若者が地域に移住して活躍したいと思うようなビジネスモデルを、どのようにシステム化するかである。「イスキアの郷しらかわ」は、実はそんな役割も担っていると思っている。地域の問題や課題を解決しながら、ビジネスとしても成り立つことが出来て、子を産み育てられるような個人収入も確保できるようなビジネスモデルを創造することを成し遂げたい。それが、崩壊してしまった地域コミュニティの再構築と市民の意識改革、そして社会的イノベーションをも実現させると信じている。

一人でも真の味方がいれば

不登校・ひきこもりの青少年が増えている。学校も含めたこの社会があまりにも『不寛容社会』であるが故に、学校や職場などに居場所が見つからず、不登校やひきこもりという選択をするしかなかったと思われる。そんな不登校とひきこもりの状態にある青少年は、何とかこの状況から抜け出したいと、懸命にもがき苦しむ。しかし、焦れば焦るほどメンタルや肉体は傷つくし、自己否定感は益々強くなる。だから、不登校・ひきこもりの状態を抜け出せないのである。

保護者、学校関係者、職場の人たちは、何とか救い出したいと努力をするが、一度不登校やひきこもりの状態になってしまうと、どんな方法を駆使したとしても救い出せないのが実情である。メンタルの障害を何とかしなければと、医療や福祉、または精神保健の専門家に助けを求めるが、一時的な症状の緩和は認められるものの、残念ながら完全復帰は難しい。深刻なのは、本人が治療や復帰に対して消極的であるという点と、一度復帰したとしても再度不登校やひきこもりの状態に陥ってしまい、益々症状が強化されてしまうことである。

不登校とひきこもりの青少年に共通しているのは、非常に強い孤独感である。つまり、自分はひとりぼっちだという感覚に陥っているのだ。親もいるし、先生もいるし、上司や同僚もいるし、精神保健の専門家や医師も味方だと言っているものの、自分の本当の味方だとは当人が認識していないのである。ここに、実は社会復帰できない理由があると思われる。「私はあなたの味方ですよ」と温かく言葉掛けをしているのだが、その言葉が実は当人の心には響いていないことが多い。自分の真の理解者は、誰もいないんだと思い込んでいるのである。

何故、彼らはそんな孤独感を抱えてしまっているのであろうか。親も、先生も、上司や同僚も、精神保健の先生たちも、みんなが心配している。それぞれが、当人の味方になりたいと思っているのは間違いない。しかし、当の本人は味方と認識していないのである。それは、味方になり支援しようと思っている人たちが、その当事者であり利害関係者であるからである。当人を何とか完治させて、社会復帰させようという強い意思を持っていることが、ありありと本人に解ってしまっているが故に、皮肉にも『真の味方』になり得ていないのである。

悩み苦しみ、自分を否定して、自らを責め抜いてしまっている人間に、今の考え方や生き方が間違っていると、益々否定するようなことを知らず知らずのうちに言ってしまっているのである。言葉に出さずとも、あなたの生き方には同意できないという行動、つまりは不機嫌な態度や悲しい表情、無言の圧力を与え続けているのである。どんなに優しい言葉や態度であっても、本人の行動を否定するような意思が見え隠れしていたとしたら、当人はその人間を心から信頼することはないし、心を開くことはあり得ない。だから、味方とはなり得ないと言える。

まず大切なのは、悩み苦しんでいて、自分自身を情けなく思っている当人に対して、まるごと否定せずに受け止めることである。ひとつひとつの行動も、発する言葉も、考えも、性格も、人間性も、一切否定せずにすべてに共感することである。彼らの悲しみ苦しみ悩みをまるごと受け容れて、同じ感情を共有することが肝要であろう。例え、その認識や考え方が間違っていたとしても、間違いだと指摘せず、まずは共感することが必要なのである。そうすれば、彼らの心の奥底までも入り込むことが出来て、真の味方として認知してくれるのである。

そのうえで、否定していると思われないように優しく質問をしてあげるのである。それは、共に学び気付きたいという態度で、けっして相手に何かを気付かせようとする態度を取ってはならない。そうすれば、彼らは自分のこだわりや固定観念に対して、初めて疑念を抱くことが出来て、ニュートラルな考え方にシフトできるようになる。そして、新たな正しい物語を自分の心の中に築き始めることができるのである。その新たな物語を再構築するのを、そっと寄り添い支援するだけでいい。これが彼らの認知を再構築できる唯一の方法である。誰か一人でも、彼らの真の味方になりえることが出来たとしたら、苦しい生き方から抜け出せること可能になる。真の理解者が一人でもいれば、彼らは勇気を持って自立に向かって歩み始められるのである。

※「イスキアの郷しらかわ」での相談業務は、真の味方(理解者)になれる『ナラティブアプローチ』の手法を取っています。私たちは、利害関係者でもありませんし当事者ではないので、クライアントに対して支配的でもないしコントロール的でもありません。保護者に対しても、本人に対しても何も否定せずまるごと受け止めて共感をする態度で相談を受けています。相談料も研修料も頂いていませんから、あくまでもボランティアなので、相手に何も求めませんし、相手の尊厳を認めます。支援とは、本来はこのようにありたいものです。

女王蜂症候群にならない為に

女王蜂症候群という語句を聞いたことがあるだろうか。最初は、1970年代の米国で盛んに話題になった注目ワードである。その後、ずっと忘れられていたものの、ここ数年この女王蜂症候群という言葉が話題になっているというのである。本来の意味とは、企業内で幹部職に昇進した女性が、女王蜂のように君臨して、部下を働き蜂のようにこき使う姿を揶揄したものと思われる。ちょっと前までは、女王蜂のように颯爽と仕事と家庭を両立させている女性幹部に憧れていた女性が、自分もやがてそうなりたいと頑張っていたのだが、最近は逆に減滅してしまい、経営幹部になりたがらないというのである。

女性キャリア職ならば、やりがいのある仕事を任せられ、やがては業績を残して昇進したいと願うのは当然であろう。せめて部長職まで昇りつめたいと思うのではなかろうか。男女共同参画社会の意識が高まり、一般企業においても女性管理職に対するアレルギーが少なくなり、女性管理職が増えてきた。しかし、せいぜい係長や課長止まりが多くて、部長や取締役まで昇進する女性は極めて少ないという。何故かと言うと、課長までならいいけど、部長までにはなりたくないと思う女性キャリア職が多いと言うのである。その多くが、女王蜂のように活躍する部長職の下で働いているというのである。

女王蜂のように君臨して、バリバリ働いている幹部職は女性の部下を実に上手く使いこなせると想像することであろう。自分も女性であり、女性の細やかな感受性を持つのだから、女性部下の気持ちが良く解る。女性特有の体調にも配慮できるし、家事育児の両立を経験してきたから、女性が働くための環境を整えることが上手に出来る筈である。同性だという気安さもあり、いろんな助言や指導が適切に行える。女性ということで、社内の根回しも出来ることから、部下も仕事がやりやすいことであろう。

ところが、実際に女性管理職の下で働く女性キャリア職たちは、様々な不満を抱えているというから驚きである。まず、子どもの軽い体調不良があり、休みが欲しいと申請すると、そんな風邪ぐらいのことで自分は休んだことがなかったと皮肉を言うというのである。さらに、若い頃の自分はもっと仕事を頑張ったし、業績も残していたと部下に頑張りを押し付けるというのである。それも自分の実績を過大評価して、自分の過去を美化するというから始末に負えない。こんな上司の下では働く喜びを感じられず、過大なストレスを抱えて、うつなどの気分障害になる女性が多いというから深刻だ。

人間という生きものは複雑である。自分が苦労して手に入れた地位や名誉は、手放したくなくなるものである。自分よりも仕事が出来て、能力も高くて他からの評価や信頼が高い部下に対して、無意識で排除したがるのはよくあることである。これは女性に限らず、男性の管理職にも多い誤謬でもある。管理職というのは、自分よりも出来る部下を育てることを無上の喜びとしなければならない。ところが保身意識が強い上司は、自分の立場が脅かされると、無意識で部下を育てたくなくなってしまう。特に価値観の低劣な上司ほどこういう対応をしやすい。

このように、部下を育てられず部下を使い捨てにしてしまう、女王蜂のような女性管理職が増えてきたというのである。そして、女性管理職が陥ってしまっているこれらの症状を、『女王蜂症候群』と呼んでいるらしい。実に困った状況になっている。熊本市議会の女性議員などが、市の職員に対して乱暴な言動をしてパワハラをしているのは、まさに女王蜂症候群だと言えよう。権力や権威を長く持つと、どうしても自分が一番だと思いたがるようである。男女共同参画社会がこれだけ浸透しているのに、こんな議員や幹部職員がいると、逆行しかねない。由々しき大問題である。

女王蜂症候群に陥ってしまい、部下を気分障害にしてしまったり、やる気を削いで辞職に追い込んだりする原因は、正しい哲学や価値観を持たないからに違いない。何のために仕事をするのか、どんな目的のために業務を遂行していくのかという、そもそも正しい働く目的がないのである。出世してトップになり、会社の業績を伸ばして、会社の役に立ちたいというのが目的だというなら、これは完全な間違いである。これは個別最適であり、社員同士やお客様、そして取引先との関係性を棄損してしまう。そうすると、結果として業績も伸ばせない。本来、働く目的とは人々のため世の中の為に、社業を通して貢献することにある。つまり全体最適にあるのである。その為に、関係性を重要視した管理が求められる。この全体最適と関係性重視の正しい価値観を持たないから、『女王蜂症候群』に陥っているのである。女性管理職には、正しい価値観を学んでほしいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、幹部職及び幹部候補生に対して、正しい経営哲学と価値観の学習を支援しています。部下がメンタル障害になったり休職離職に追い込まれたりしているのは、上司が正しい価値観を持たないのが要因のひとつです。是非、研修を受講してください。問い合わせフォームからご相談ください。

過労死を二度と起こさないために

野村不動産の社員が過労死をしたというニュースが流れた。それも、違法の裁量労働制をしていたと摘発されたのである。本来、裁量労働制という制度で認められているのは、研究職や技術職の専門的な職種と企画開発のような特殊な職種である。今回、違法だと摘発された野村不動産のケースは、主に営業をしていたのにも関わらず、無理やり企画開発職だと偽って労働契約を結んでいたと見られている。こんな誤魔化しが、野村不動産では日常化しているのである。なんと6割近い社員が裁量労働制を強いられているというから驚きである。

そもそも、裁量労働制というのは自らが労働時間を設定できて、出社時刻と退社時刻が決められていない筈である。ところが、実際には他の社員と同じ時刻に出社することが決められていて、しかも退社時刻の前に退社することは認めていられない例が多い。労働量と業務量も自分で設定できる筈なのに、上司からこれだけの業務をこなすようにと指示されているケースが殆どである。つまり、現在の裁量労働制の大半が違法状態になっているのである。この裁量労働制が、残業手当を少なくするための隠れ蓑として利用されているのである。

こんな酷い実態なのに、政府と自民党は経営者側からの要求を鵜呑みにして、裁量労働制を営業職まで広げようとしたのである。つまり、内閣と自民党は違法行為だと知りながらそれを見逃すだけでなく、その違法行為を助長するような裁量労働制の改悪までも目論んだのである。ということは、過労死を益々増加させるような悪法を制定しようとしたのである。未必の殺人行為といえるような暴挙に、内閣が手を貸そうとしたと言えよう。経営者と政府自民党は、こんな悪法を通そうとしていて、それに行政職も協力してしまったと想像できる。

それにしても、こんな違法状態を見逃している各労働局と労働基準監督署は、酷い職務怠慢だと言える。過労死が起きてから慌てて摘発するのであれば、労働局や労働基準監督署なんて不要である。こういう違法状態を野放しするだけでなく、本来はこんな状況になる前に予防する役目を果たすべきであろう。労働局や労働基準監督署は、各企業に対して立ち入り調査をする権限が与えられている。裁量労働制の導入に対して、しっかりと検証してから認定すべきであろう。しかし、このように違法性を見逃している実態があるのだ。

日本国憲法の基本的人権の尊重と労働法というのは、弱い立場である労働者の正当な権利を守る為に制定されている。そして、厚労省、労働局、労働基準監督署というのは、その労働者の正当な権利が侵害されないように厳しく監視すると共に、違法行為を起こさないように経営者側に対して厳しく指導監督する役目を負っているのである。しかるに、厚労省は政府と経営者側に有利に働くような調査結果になるように報告書を偽造したと見られている。こんな暴挙を絶対に許してはならないのである。

日本国憲法は三権分立を謳っている。立法、司法、行政が完全に独立して、それぞれの誤作動や暴走を牽制するシステムになっている。ところが、最近の政府自民党の言動は、立法と行政がそれぞれに牽制するどこか、お互いに協力し合っているとしか思えない。これでは、国民の幸福や福祉の向上に寄与しないどころか、国民に過酷で不幸な生活を強いるような暴走に陥っていると考えられる。この誤った裁量労働制による過労死という未必の殺人行為に現れていると言えよう。過労死したNHKの女性記者のような犠牲者が、これから益々増えてしまうに違いない。

過酷な長時間労働は、労働者の健康を損なうだけでなく、その勤労意欲を大きく削いでしまう。そして、労働効率や生産性を低下させてしまう。企業側に取っても、マイナス面が大きいのである。家庭においても、父親から家事育児参加の時間を奪ってしまうので、母親の負担が増えてしまいストレスが多大になり、様々な家庭問題を起こす要因になる。労働者が趣味やスポーツの時間も取れなくなることで、ストレス解消も出来なくなり心身の障害が起きる。休職や離職に追い込まれひきこもりが起きてしまうし、子どもの不登校も起きかねない。つまり、過酷な長時間労働は、国家的な損失に繋がるのである。過労死が起きるような酷い労働環境を止めることが出来るのは、投票権を持つ我々国民しかいないことを認識すべきであろう。

自分を責めなくていいんだよ

不登校やひきこもりの状態にある子どもたちや若者に共通して存在するのは、自分を責める心である。自分がこのような状態に追い込まれているのは、自分が悪いせいだと責めているし、こんなにも弱い自分が許せないと思っている。そして、何よりも親に心配かけていることにも自責の念を抱いている。そして、自分でも何とか解決したいと思いながら、どうにもならない自分の勇気のなさも気にかけている。さらに、主に子育ての役割を果たしていた母親もまた、不登校やひきこもりの子どもにしてしまった自分を責めている。

★セツブンソウ(2月から3月に咲く花)

不登校やひきこもりをするようになったのは、本人と子育てをした親に責任があると思っている人は多い。何故なら、誰にとっても同じ学校の環境なのに、学校に行けないのは本人の心の弱さであり、そのように育てた親に責任があると考えてしまうからである。学校の先生も同じように考えている節がある。すべての児童生徒に対して、同じように教育と指導をしている筈なのに、どうして特定の児童生徒だけが不登校になるのか不思議だと思っている。本人とその保護者に責任があると思うのだから、口にこそ出さないが不登校の責任は学校にはまったくないと思い込んでいる。

しかしながら、不登校やひきこもりになった責任は、本人にはまったくない。ましてや、子育てをした親にも責任はない。不登校やひきこもりにさせてしまった本当の責任は、学校と社会にある。学校、職場、地域すべての社会は、不寛容社会だと言われている。他と少しばかり違っていると、仲間から排除したがる。自分達と同じ考え方や言動をしないと、仲間外れにしたり虐めたりする。他との違いを個性として認めないし受け容れないのである。不寛容社会は、多様性を認めないから生きづらいし居場所がない。だから、不登校やひきこもりがなくならないのである。

不登校児とひきこもりの青少年、そしてそのご両親に対して、自分のことを責めなくていいんだよ!と申し上げたい。そのうえで、敢えてご両親に助言したいことがいくつかある。先ずは、子どもたちは学校に行けないことで罪悪感を持っていることを認識してほしい。したがって、学校に行けないことを責めるのは止めてほしいということだ。自分で自分を否定している子どもを、さらに親が否定することは避けなくてはならないということである。学校に行けないことを、ことさら問題視しないでそっと見守ってほしい。

また、子どもを言葉で動かせると思い込むことは、よくないということも認識しなくてはならない。幼少年期までなら、言葉で子どもを動かせる。しかし、思春期に入ってある程度の自我が芽生えてくると、親の言葉で子どもを動かすことが出来なくなる。そして、やがてはお互いに言葉で主導権争いをしてしまうのである。さらに、それがお互いに不可能だと察すると、不機嫌な態度や無言の圧力をかけて、相手を支配し制御しようとする。これは、けっしてよくない結果を生み出すこということを認識したい。

さらに、親の期待が大きければ大きいほど、子どもを責めることになることを認識しておく必要がある。そして、それは本人への直接的な言葉でなくても、子どもを責めてしまうことにも繋がる。例えば、兄や弟が学業やスポーツで優秀な成績を取った場合に、不登校やひきこもりの子の前で誉めることは、無言の期待をかけることになる。また、親戚や知人の子が、優秀な成績で有名高校や著名大学に入ったこと、大企業に入社した話なども、その子の前で言う事は禁物である。優秀な子と比較されることは、自分が責められている事と同じなのである。他と比べるということは、本人を責めてしまうことになるのだ。

最後に、意外だと思うかもしれないが、励ましも本人を益々責めることになるということも認識すべきだ。やがては学校に行けるようになるよ、ひきこもりから復活できるから心配ないよ、という言葉は本人にとって実に残酷なのだということを知らない親が多い。親がこんなに励ましてくれているにも関わらず、実際にその通りに出来ない自分がもどかしく、そして期待に応えられないことに幻滅し、自分が情けなくて益々自分を責めることになる。辛い自分、苦しい自分、情けない自分、責めてしまう自分に対し、親はまるごと共感して、否定せずにそっと寄り添うことが求められる。そうすればやがて、自分を責めなくてもいいのだと自ら思えて、少しずつ自立に向かうことが出来るに違いない。

不登校は必ずなくせる

不登校がゼロの学校は、全国では殆どないという。ごく少人数の分校程度の小規模校や離島の学校なら不登校ゼロもありえるが、たいていの学校において不登校児童が存在する。文科省が不登校をどのように定義しているか、正確に把握している人は極めて少ないという。年間30日以上、病気や経済的理由以外で休んだ場合を不登校と定義している。

しかし、特記事項が付いていて、実際に30日以上休んでいても不登校と扱うかどうかは、当該学校の管理者の判断に委ねると記してある。しかも、保健室登校や放課後登校でも登校扱いされるのである。不登校児童の数が実際よりも少なくカウントされるというマジックが存在するのである。文科省、県や市町村の教委、そして学校の管理者も不登校が多いと自分たちの管理責任が問われるのだから、実数よりも不登校を少なく見せようという意思が働いても不思議でない。

不登校がゼロの学校が唯一存在する。それも大阪市立の公立小学校である。大空小学校という1学年1クラスの小規模学校であるが、不登校児童はまったくいない。何故、不登校児童がいないかというと、不登校ゼロを学校の絶対に達成すべき目標に設定していて、教職員が一丸となって努力しているからである。発達障害や知的障害の児童も普通学級で一緒に勉強しているが、不登校児童がゼロである。学校だけでなく地域の人々もボランティアで不登校を無くす努力をしているので、「みんなの学校」と呼ばれている。

この学校では厳しい規則はまったくないが、守るべき約束がある。『人が嫌がることをしない、言わない』というのがそれである。これを守らない児童は、校長室に呼ばれて自らの非を認めて、2度としないことを約束する。勿論、教職員も同じだ。子どもたちに対して不適切な指導をしたら、校長室に呼ばれて「教師なんか辞めちまえ!」と厳しく叱責される。児童中心の教育を徹底して実施しているのである。だから、教師による不適切な指導で子どもたちが学校に行けなくなることが皆無なのだ。

地元の小学校で、ある校長がこんな指導をしていた例があると聞いた。心優しく優秀な児童が不登校になった。この児童に対して、校長は放課後の時間に校長室に来て勉強するようにと提案した。心無い教師や他の児童が居ない環境で、安心して勉学に励んで、無事に卒業できたという。その子どもは、中学校に行っても不登校になった。校長は定年退職後に地元の公民館で社会指導主事をしていた。公民館に来なさいと子どもを誘い、可能な限り勉強を教えたという。この子どもは、地元で一番優秀な高校の特別進学クラスに進み、著名大学に進んだとのことである。

このような実例から導き出される結論は、不登校は学校関係者の対応が適切であれば、無くすことが可能だということである。学校関係者は、不登校の原因は本人とその家族にあると思い込んでいる。他の児童生徒は普通に登校しているのに、学校に来れない原因は本人にあると勘違いしているのである。これは、完全な間違いである。普通に登校している児童生徒が異常だと言えるのである。お互いの関係性が最悪で、悪意と攻撃性に満ちている学校の現状に、息苦しさを抱えている不登校児童が正常なのである。

不登校の子どもたちは、心優しく感受性が強いという特性がある。他人の悪意に満ちた言動に、心が傷つけられる。自分は虐められていないが、回りの子どもがそのような虐めに遭っているのに、自分がそれを助けられない自責の念にさいなまれていることが多い。自分が同じ目に遭うのではないかという不安もある。先生の心無い言動にも傷ついているのである。他の鈍感な子どもたちが気付かないことにも感じてしまい、いたたまれないのである。

このように不登校の優秀で心優しい子どもたちを、見殺しにしている学校とその教職員に責任があると言えよう。だから、学校が変われば、そして教職員の意識が変われば、不登校はなくなるのである。しかし、教職員や登校している子どもの保護者たちは、先生が忙し過ぎてそんなことは不可能だと口を揃えて言う。そんなことはない、やろうとしていないだけである。『なせばなる、なさねばならない何事も、なせぬは人のなさぬなりけり』と上杉鷹山は断言して、米沢藩の行政改革を成し遂げた。不登校をゼロにしようと努力もしないで、最初から出来ないと諦めるのは無責任であり、『悪』である。

※イスキアの郷しらかわでは、不登校の本当の原因を追究して、日本から不登校を無くす活動をしています。さらに、不登校の子どもさんのサポートと、ご両親への相談支援をさせてもらっています。下記の問い合わせフォームから相談を受けています。すべてボランティアでさせてもらっています。

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不登校児の親を悩ませる専門家

不登校とひきこもりの子どものお母様方から相談を受けているが、絶対に許せない対応をしている専門家がいることに驚く。ある臨床心理士(カウンセラー)に不登校の子どもの対応について相談すると、「卒業式に出られないようなら、もう望みはないから、絶対に卒業式だけには無理してでも出席しなさい」と子どもを説得したらしい。それも、50分のカウンセリング時間、ずっとそのことだけを言い続けたと言う。今時、そんな時代錯誤のことを子どもと親に言うカウンセラーがいること自体が不思議である。

カウンセラー(臨床心理士)は、それこそ大学院まで専門教育を受けて、著名な教授から認定を受けた専門家である。心理学を専門に勉強して、児童心理学だって相当深く学んだ筈である。不登校の子どもの心理が解らないことなんてあり得ない。カウンセリング後にこの子どもは、カウンセラーが大嫌いになり、他のカウンセラーであっても2度とカウンセリングに行かないと宣言したという。懸命な判断であろう。こんなカウンセラーに相談しても、悪化することはあっても良くなることは絶対にありえない。クライアントに信頼されないカウンセラーがいるなんて、信じられないことである。

さらに、このカウンセラーを不登校児の親に紹介したのが、学校の教頭だったらしい。その教頭は、このカウンセラーはとても優秀なので、是非カウンセリングを受けなさいと勧めたという。それで、相談後に教頭にくだんの話をして、酷いカウンセラーだったと伝え、とんでもない専門家を紹介してくれましたと苦情を言ったら、黙り込んで謝罪もしなかったということである。この教頭も最低の人間である。このカウンセラーは、以前から悪評で有名な人物である。教育の専門家ならば、事前にそういう情報の収集をしっかりとしてから紹介すべきであろう。

また別の発達障害の子を持つ親が、ある権威ある児童精神科医に診察してもらい相談したところ、「この子は高校に入学するのは難しいから、就労のための訓練を早々に始めなさい」と言われたらしい。いくら発達障害の専門家だと言っても、小学生のうちから将来を悲観するようなことを親に言う権利があるのだろうか。発達障害であっても、高校、大学を出て立派な職業に就いている人がいることを知らない訳でもあるまい。それなのに、可能性を否定するようなことを平気で言って、親を絶望させてしまうなんて許せない卑劣な行為である。

このように、医療や教育の専門家が不登校児や発達障害児の親を不安がらせ、益々悩ませるようなこと言うのは、本来あり得ないことである。不登校児や発達障害児の親が、子どものことをどれだけ心配して、とても不安な気持でいることを知らないのであろうか。その不安な心を逆なでするような行為は非道とも言えよう。実は、これらの専門家だけではなく、他にも沢山の酷い医療専門家がいるのも事実である。こんな問題のある専門家だらけであるから、不登校児や発達障害児の親たちは、安心して相談する相手がいないのである。多くの親たちが、困り果てて悩んでいるのは、こんな事情があるからである。

昨日と本日の2日間に渡り、イスキアの郷しらかわにて発達障害・不登校・ひきこもりについて学ぶ会を開催させてもらっている。発達障害・不登校・ひきこもりの子どもや若者たちが増加している要因とその背景、そして保護者がどのように関われば良いかを、解りやすく説明させてもらっている。適切な保護者の対応と支援、そして数多く自然体験や農業体験をすること、さらには食事や生活習慣を適正にすることにより、今の症状を緩和させることが出来る可能性があることを伝えている。親たちの将来に対する不安や恐怖感を和らげてあげることが、子どもたちの不安を取り除くのに有効であることを、今までの数多くの相談経験から学んでいるからだ。

不登校児と発達障害児の親に対する親身になった相談支援こそが、是非にも必要なのである。しかも、その相談はあくまでも、相手を否定しない傾聴と共感を基本にしたものであるべきだ。親たちの不安や恐怖感、または諦め感を助長させるような相談をしてはならない。不登校児と発達障害児の子育てで、それこそ悩ましく苦しく悲しい思いを沢山してきたのである。お母様たちに、「よく一人で頑張ってきましたね、さぞ辛かったことでしょう」とその苦労をねぎらい、悲しみや悩みに共感することで、お母さんたちの心は安らぐことができる。そして、すべてを受容して寛容の態度で接してもらえば、自らの自己成長を実現させることが可能になり、しいては子どもたちの心も変化する。これこそが、森のイスキアの佐藤初女が実施してきた相談支援である。とんでもない専門家によって傷つき心が折れてしまったお母さんたちを、これからも支援していきたいと思っている。

働き方改革は労働者の立場で

働き方改革は安倍内閣の目玉政策として、進められている。連日、国会の予算委員会で活発な法案の集中審議が展開されている。これからの日本の労働政策の根幹にかかる重要課題であるが、どうやら労働者に配慮した働き方改革ではなく、雇用側にとって有利な働き方改革になっているような気がする。その最たるものは、裁量労働制度の業種拡大であろう。その討論の根拠となるデータが、明らかにねつ造されているのではないかとの疑いが明らかになった。裁量労働制は働き方改革にどうして必要なのか、まったく理解できない。

そもそも裁量労働制というのは、残業手当を削減する目的の為に制定されたものである。労働者にとっては、メリットはまったくなく、雇用側にとっては有難い労働制度である。いくら働かせても、残業手当を定額しか支払う必要がないのだから、益々長時間労働になるのは当たり前である。裁量労働制は、本来は労働者が労働時間を決める裁量を認められているのが基本となる。しかし、実際には労働者に自由に労働時間を決める裁量は認めてられていないのである。その前提が棄損しているにも関わらず、裁量労働制が認められていること自体が憲法違反であり法律違反なのである。

このコンプライアンス違反の実態は、労使共に把握しているだけでなく、厚労省・労働局・労基署は完全に把握しているのに、見て見ないふりをしているのである。だから、裁量労働制の実態調査をしていないのである。それなのに、この裁量労働制をさらに広げるという無茶な政策を推し進めようとしているというのは、労働者を見殺しにするようなものである。過労死が問題になっているのに、益々過労死が増えるに違いない。日本の労働環境は、欧米から見ると酷い状況にあるが、もっと劣悪なものになることであろう。

政府が推し進める働き方改革は、労働者不足を解消する為の政策である。労働者が勤労意識を高揚できると共に、働きがいをおおいに感じることができ、しかも余裕のある働き方ができることで、家族の触れ合いが出来る余暇の時間が持てて、父母共に子育てがしやすい環境を持てる為に働き方改革をするべきである。ところが、どういう訳かその真逆の働き方改革の法律改悪になっているのである。これでは、労働者が子育てや介護に充てる時間が益々減少してしまい、少子化はどんどん進んでしまうことであろう。

現在、多くの若いママさんたちはシングルマザーになるという選択をしている。その理由は、夫が毎日朝早くから深夜まで仕事に専念し、休日まで出勤して、子育てや家事全般が妻だけの役割になっているからである。そのため、子どもの世話だけでなく夫の世話までさせられて、目いっぱいの状況にさせられている。それは専業主婦だけでなく、共働きの家庭でも同じように妻だけが頑張っている状況にある。仕事で目いっぱいになっている夫は、妻の大変さを解ってくれないし、愚痴も聞いてくれない。これでは、一人親のほうが精神的には楽だと、離婚してしまうのである。

こんなふうにシングルマザーを作り出してしまっているのは、日本の労働環境が悪いからである。日本人のサービス業や事務管理業務における生産性が、極めて低いというのは、長時間労働によるものである。人間というのは、毎日労働時間が長くて休日もろくに取れないと、労働意欲が低下するし能力低下が起きる。それ故に長時間労働にならざるを得なくなっていると言えよう。さらに、基準労働賃金が極めて安いものだから、残業手当が生活賃金になっているのである。こんな労働実態を作ってしまったのは、政府による労働政策の無策からである。日本の労働政策が、企業側の利益を守るためのものになっているからこんな酷い状況になっているのだ。

本来働き方改革というのは、労働者の立場で進めるべきものである。経済優先ではなくて、人間優先でなくてはならない。政治というものは、強いものの味方になってはならない。常に社会的弱者に配慮した政治を進める責任が、政治家と行政職に求められる。安倍内閣は、経済優先の政策を推し進めていて、労働者や国民の利益確保とか福祉向上を無視しているとしか思えない。自分のすべてを仕事にかけるような働き方を労働者に強いてはならない。仕事だけでなく、家庭や地域での活躍が可能になるような働き方改革こそが求められているといえよう。そうすれば少子化も防げるし、生産性も高まるし、働きがいや生きがいの持てる働き方が出来るに違いない。

落語「厩火事」にみる夫婦愛

古典落語に「厩家事」という、夫婦愛を描いた名作がある。夫婦愛とはこうありたいものだという噺ではあるが、ユーモアを交えたほのぼのとした物語に仕立ててある。妻を愛する気持ちが夫にあるのか確認したいという人は参考になるだろうし、夫とはこういう時こそ妻への愛情が試されるということを心得るべきであろう。

髪結いをしているお崎が、仲人のだんなのところへ相談にやってくる。亭主の八五郎とは所帯を持ってかれこれ八年になるが、このところ毎日夫婦喧嘩に明け暮れている。お崎は八五郎よりも七つも違う姉さん女房である。何故二人が夫婦喧嘩を繰り返しているかというと、この亭主は同じ髪結いで、今でいう共稼ぎなのだが、近ごろ酒びたりで仕事もろくろくせずに、遊びまわっているという。女房一人が苦労して働いているというのに、仕事が長引いて少しでも帰りが遅いと、変にかんぐって当たり散らして暴力まで奮い、始末に負えないと訴える。

お崎はそんなだらしない亭主に対して、もういいかげん愛想が尽きたから別れたいというのだ。仲人であるだんなが「女房に稼がせて自分一人酒をのんで遊んでいるような奴は、しょせん縁がないんだから別れちまえ」と突き放すと、お崎はうって変わって、そんなに言わなくてもいいじゃありませんかと、亭主をかばい始めた。あんな優しい人は他にはいないと、逆にノロケまで言いだす始末。呆れただんなは、それじゃ一つ、八五郎の料簡を試してみろと、参考に二つの話を聞かせる。

昔、唐(もろこし)に孔子(こうし)という偉い学者がいた。その孔子が旅に出ている間に、廐から火が出て、可愛がっていた白馬が焼け死んでしまった。どんなお叱りを受けるかと青くなった使用人一同に、帰った孔子は、馬のことは一言も聞かず、「家の者に、怪我はなかったか?」と聞いたという。これほど家来を大切に思って下さるご主人のためなら命は要らないと、家来たちは感服したという話。

麹町(こうじまち)に、さる殿さまがいた。お崎「猿の殿さまで?」だんな「猿じゃねえ。名前が言えないから、さる殿さまだ」その方が大変瀬戸物に凝って、それを客に出して見せるのに、奥様が運ぶ途中、あやまって二階から足をすべらせた。殿さま、真っ青になって、「皿は大丈夫か。皿皿皿・・・」と、息もつかず三十六回。あとで奥さまの実家から、妻よりも皿を大切にするような不人情な家に、かわいい娘はやっておかれないと離縁され、一生寂しく独身で暮らしたという話。

だんな「おまえの亭主が孔子さまか麹町か、何か大切にしている物をわざと壊して確かめてみな。麹町の方なら望みはねえから別れておしまい」帰宅したお崎、たまたま亭主が、さる殿さまよりはだいぶ安物だが、同じく瀬戸物の茶碗を大事にしているのを思い出す。台所の踏み板をわざとずらして置いて、帰宅した亭主の前で、それを持ち出すと、台所で踏み板を踏み込んでわざと転ぶ。それを見た八五郎「……おい、だから言わねえこっちゃねえ。どこも、けがはなかったか?」お崎「まあうれしい。猿じゃなくてモロコシだよ」八五郎「なんでえ、そのモロコシてえのは」お崎「おまえさん、やっぱりあたしの体が大事かい?」八五郎「当たり前よ。おめえが手にけがでもしてみねえ、あしたっから、遊んでて酒を飲めねえ」

この噺は夫婦愛の在り方を、深く考えさせてくれる。さて、この噺を聞いて、世の中の夫たる者、どんなふうに思うであろうか。この八五郎という亭主は、結局は自分中心じゃないか。自分が楽をして酒を飲みたいから、妻に対していたわるような言葉を発しただけじゃないか。なんのことはない、この亭主はもろこしの孔子ではなくて、やはり麹町の殿様と同じだな、と思うのならば、この夫は亭主失格だと言わざるを得ない。こんなふうに思う亭主ならば、妻への深い愛情はないから即刻別離したほうがよい。

一方、この噺を聞いて、自分の夫がこんなふうに解釈したのならば、亭主は妻への愛情があると思って良いだろう。この八五郎は、本当は女房のお崎の身体のことを心から心配するほど愛しているのだが、女房のお崎から「あたしの体のことを心配してくれるのかい」と言われて、あまりにも図星に言われ恥ずかしくて、照れ隠しに「遊んで酒を飲めねえ」と言ったのだと解釈するような亭主ならば、妻を愛しているに違いない。何故ならば、心理学的に分析すると、人間は物語の主人公に対して、自分の心情を投影しやすいものなのである。試しに、この噺を夫に聞かせて、どう解釈するのか聞いてみるとよい。でも、自分の夫が前者の解釈をするかもしれないのではと、怖くて聞けないかもしれない(苦笑)

視線恐怖症を克服する

他人の視線に対して異常に反応してしまい、恐怖に感じるメンタルの障害がある。対人恐怖症の一種であると定義されていて、それは視線恐怖症と便宜的に呼んでいる。正式な病名ではないらしい。日本人に特に多いという。『恥』の文化が浸透している日本人は、他人の目を気にする傾向にある。自分を見る目が、とても気になるのが日本人である。恥ずかしい装いや言動を避けたいという思いが強い。恥をかくという行為が万死にも値するという武士道の考え方が一般人にも浸透したのではないかと見られている。

さて、最近の青少年の間にこの視線恐怖症が広がっているという。10数年前にも視線恐怖症の若者がたまに見られたが、ここ数年にはとても多くの若者がこの症状に苦しんでいると言われている。他人が自分を見て笑っているとか、自分を侮蔑しているとか、自分の顔や姿がおかしいと噂し合っているということを主張するケースが増えている。したがって、多人数が出入りするコンビニやレストラン、スーパーマーケットに行くことを極端に嫌う。さらには、職場や学校でもそのような視線を感じ始めると、辞職や退学をせざるを得なくなるのである。不登校やひきこもりになるきっかけにもなっている。

この視線恐怖症という症状が何故起きてしまうのかというと、やはり成長期における様々な経験が影響しているのではないかと考えられている。養育者から育てられる際に、こんなことをすると周りの人から、恥ずかしいとか、批判されてしまうとか、何度も言われて他人の目を気にすることを強化され過ぎたせいかもしれない。または、何度も人前で恥をかく体験や、常に馬鹿にされて軽蔑されるような体験をしたということによる影響があるかもしれない。いずれにしても、あまりにも自己否定感情が強化されてしまったことによる影響が大きいと思われる。

この視線恐怖症を始めとした対人恐怖症に対する医療的治療は、困難を極める。投薬治療によって症状がある程度軽減されるケースもあるが、完全に恐怖感を払拭するのは難しい。カウンセリングや心理療法も、大きな効果を上げる例は極めて少ない。認知行動療法がある程度の効果があると言われているものの、効果は限定的であり、やはり完治は難しいと言われている。何故こんなにも治療が難しいのかというと、対人恐怖症を患う人は、自分の心の中に特定の『物語』を創り上げてしまい、この物語から脱却できないからである。脳科学的にいうと、頑固なメンタルモデルを創り上げているから、聞く耳をもたないのである。

この強固な『物語』は、心理学用語でドミナントストーリーとも呼ぶ。こういうことをした時には、必ずこんな結果になってしまい、極めて辛い悲しい思いをしてしまうというストーリーを自身の無意識下に創り上げ、そのストーリーに支配されてしまうのだ。だから、身内や他人からその考え方はどんなに間違いだと説得されても、頑固な物語に支配されてしまうのである。一度、そのドミナントストーリーを破壊して、完全に捨て去らなければならないが、聞く耳を持たないから、どんなに説得されても効果がないのである。

ただ一つ効果を上げられる治療方法がある。それはナラティブアプローチという方法である。他の治療は、視線恐怖症の症状が勘違いだとかあり得ないことだと納得させようとするのだが、ナラティブアプローチはまずその困った症状を、逆にまるごと肯定するのである。クライアントが感じる視線に対する恐怖の思いを一切否定せずに、まずはその感情に共感するのである。そうすると、自分の辛くて苦しい思いを共有してもらったという安心感から治療者に信頼を寄せるのである。そして、何度もその恐怖感にいたる思いを話してもらい共感してもらうことで、その考え方に対して自らが冷静な判断や分析が出来るようになるのである。

視線恐怖症の症状を解ってもらうことで、これらの症状に至った経過や原因を自分で振り返ることが出来る。そうすると、辛い症状が脳の誤作動であるのかもしれないと思い当たることが出来るのである。そして、間違った物語であるドミナントストーリーを捨て去ることが可能になり、新たな正しい物語であるオルタナティブストーリーが作られることになる。これがナラティブアプローチと呼ばれる心理学的治療法である。この治療方法は、コミュニケーション能力が卓越していて、人間性が高くて粘り強く我慢強く、人間的魅力がある治療者でないと成功しない。しかも、温かい物語を紡ぐ優秀なストーリーテラーでなければならない。だから、この治療方法は誰でも出来る訳ではない。この治療方法は、他のメンタル障害にも効果がある。しかし、残念ながらこの治療法を巧みに扱える治療者が極めて少ないのが現状である。

※イスキアの郷しらかわでは、このナラティブアプローチを駆使できる精神保健福祉士の専門家を紹介することができます。なお、このナラティブアプローチという心理療法について詳しく知りたいという方には、解りやすいように説明いたします。ご子息がこの視線恐怖症で悩んでいらっしゃる保護者へのご説明をさせて頂く用意があります。まずは問い合わせフォームから相談してみてください。

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