メンタルを病んだ経験から

何度かメンタルを病んだ体験を持っている。一度目は、仕事上の問題と自分の価値観の低劣さから起きた気分障害である。課長職の昇格試験を受けた際、筆記試験はよく出来たという自信があった。第二次の面接試験があったが、どうせ形式的なものだろうと高をくくっていた。とこが、厳しい質問攻めにあって、まともな答を述べられなかったのである。きちんとした勉強をしていれば、何ともなく答えられた質問なのに、それがしどろもどろの答しか出来なかったのだから、相当に落ち込んでしまった。この団体職員として入職して以来、手前みそだが勤務評価も高く出世も誰よりも早くして、エリート意識が人一倍高かったので、自分自身がこんなにも無能だったと気付いて、自己否定感がマックスになってしまったのである。

 

結果として、課長職の昇格試験には合格したのであるが、自分の無能さや無学さを思い知らされたおかげで、自分自身が嫌になったのである。自分には組織に対する貢献価値はないし、生きる価値さえないと思い込んだのである。精神的な落ち込み度は、相当にひどいものがあり、無気力の状態になってしまった。なんとか出勤はしていて仕事はこなしていたが、働く意欲や積極性はまったく失ってしまっていた。毎夜、不眠にも悩まされた。寝付きはなんとかなったが、午前3時か4時になると目が覚めて、胃に重苦しい鈍痛が起きて、苦しんでいた。自分には生きる意味さえないと、かなり重いうつ状態に追い込まれてしまったのである。この状態は3ケ月くらい続いたが、これでは拙いと気付き、運動療法や自分自身による認知行動療法によって、幸運にも奇跡的な復活を遂げることができた。

 

2度目の気分障害は、その後10年くらい経過した時に起きた。その頃、NPO活動やボランティア活動など積極的に取り組んでいた。さらに、障がい者の方々やメンタルを病んだ方々、家族にひきこもりや不登校を抱えられた方々を支援していた。意欲的に、しかもやりがいを持ってNPO活動と市民活動に取り組んでいた時に、ラジオ番組であるエッセイの朗読をしていたのを聴いた。ボランティア活動なんて、所詮自己満足の世界であるという主張であった。その作者も、自分で身体障がい者へのボランティア活動を続けていたが、ある時自分のやっている活動は単なる自己満足の押し付けなのではないかと気付いたというのである。その言葉を聞いて、愕然とした。まるで、自分のことを言われたように感じたのである。そのことをきっかけに、ひどい気分障害に陥ってしまった。

 

3度目の気分障害も、同じような理由で起きた。やはり、偽善的な行為をしている自分が許せなかったのである。2度目と3度目の気分障害は、1ケ月もしないうちに幸いにも立ち直ることが出来た。これも医療機関にも行かず、カウンセラーのお世話にもならずに何とか復活できた。今まで経験してきた気分障害は、何かの大きなストレスやプレッシャーに押しつぶされたというよりは、自分自身に対する嫌悪感から起きたものである。強烈な自己否定感に襲われ、その自分に対する否定感情をもろに受け容れてしまったことによるものと思われる。メンタル不全は、他人からの強烈な自己否定でも起きるが、どちらかというと、自分自身によって自尊感情を損なった場合が多いような気がする。

 

3度の気分障害は、多くの学びを自分に与えてくれた。まずは、人間のメンタルは非常に脆いし弱いということである。いとも簡単に誰でも気分障害に陥るし、そのきっかけも他の人から見たらたいした重要でもないことでも起きるということにも気付いた。さらに、気分障害は重症でなければ、自分だけの上手な早めの処理対応によって上手く復活できるということである。重症化したうつ病やパニック障害、または双極性の障害のケースは、簡単には治らない。気分障害を放置しておいたりこじらせたりしないことが肝要だということである。だから、気分障害はなるべく早く処理したほうが良いという教訓になる。

 

さらに言えることは、人間として確固たる理念やミッションがないと、気分障害に陥りやすいということと、自己マスタリーを確立していないとやはりメンタルを損ないやすいということである。人間として、どのような価値観に基づいて生きるべきという宇宙の真理に基づいた信念を持ちえないと、迷いが生じるのである。または、マイナスの自己も含めたありのままの自分を認め受け容れ、まるごとの自己を慈しみ愛せないと、メンタル障害になりやすいという認識が必要なのである。ということは、真の自己を確立し、正しい価値観である思想哲学を獲得できたとしたら、気分障害にもなりにくいし、たとえ気分障害になったとしても容易に回復できるということだ。これが三度の気分障害を体験して、学んだ真実である。気分障害にならなければ、こんなにも素晴らしい価値観を学べなかったのだから、良い経験をさせてもらったものだと感謝している。

自ら命を絶つ前に

大手広告会社の期待の新人社員が自らの命を絶ってしまい、労災認定がされたというショッキングなニュースが流れました。さらに、大企業の薬品会社の新入社員がやはり自殺をして、労災と認定されたという報道がありました。これらの報道は、労災認定をされたということでマスコミが取り上げただけであり、労災認定をされない仕事が原因の自殺は、他にも相当にあると推測されます。なにしろ、統計上明らかになっているだけで、年間3万人近くの方々が自ら命を絶ってしまうこの日本です。おそらくは、仕事上のストレスや疲れから自殺に追い込まれてしまっている方は相当に多い筈です。それにしても、こんなにも豊かで便利な世の中になったにも関わらず、生きにくい社会になっているというのは、理解できないことでもあります。

 

今、職場で心身共に疲れ切ってしまい、他には解決の方法が見つからず、死んでしまうしかこの現状から解放されないと思っていらっしゃる方がいらしたら、ちょっと待ってほしいものです。または、職場での執拗なパワハラやセクハラを受けて、会社は何も対応策をしてくれず、家族との板挟みで会社を辞める訳にも行かず、死んでしまうしかないと思っていらっしゃる方がこの日記を読んでいましたら、早まらないでほしいのです。このような八方塞がりの状況に追い込まれた方々にしてみれば、他には方法がないと思っていらっしゃることでしょう。確かに、もう誰も助けてくれないし解決策は他にないと思うのも当然かもしれません。

 

しかし、もし自殺という道を決断したとしても、あとせめて1週間から10日くらい先延ばし出来ないでしょうか。そして、「イスキアの郷しらかわ」で数日間過ごしてほしいと思います。または、会社を休めないなら土日の2日間でもよいから、しばしの休息を「イスキアの郷しらかわ」で過ごしてみてはどうでしょうか。勿論、しばしの休息で仕事の状況が変化する訳ではありません。しかし、少なくても自分をもう一度見つめ直す時間は必要ですし、何か心境の変化が見られるかもしれません。『四季彩菜工房』という農家民宿で、心尽くしの料理や心優しいもてなしを受けることで、心が癒されるに違いありません。または、辛くて苦しい出来事をありのままに受け容れてくれる相談をしているうちに、何かしらの解決策が見いだせるかもしれないのです。

 

最先端の心理学においては、マインドフルネスという方法が推奨されています。マインドフルネスというのは、ストレスコーピング(解消策)の有効な方法の一つです。ストレスを解決するには大きく分けて2つの方法があります。ひとつは問題焦点型のストレスコーピングで、ストレスの原因をダイレクトに解決するという解消法です。もう一つは情動焦点型のストレスコーピングで、問題そのものは解決できないものの、そのストレスに対する自分の認識や考え方を変えて、ストレスをストレスとして認知しないようにする方法であります。または、ストレスの対する耐性や柔軟な思考が出来るようにするという解消法です。その情動焦点型のストレスコーピングの有効な一つの方策がマインドフルネスです。

 

日本では、古来よりこのマインドフルネスという考え方や方策が実践されてきました。仏教では『唯識』という考え方です。瞑想、座禅、写経、読経、滝行や山岳修行などの苦行難行として実践されてきた歴史があります。マインドフルネスとは、ストレスから完全に開放されるような「何か」に心を奪われることにより、マイナスの思考を停止または手放すことで、本当の自分を取り戻すという方法です。人間は一旦強大なストレスに支配されてしまいますと、そのストレスを考えないようにすることが出来ず、四六時中そのことだけを考えてしまいます。それでは、不眠に追い込まれたりうつ状態になったりして、正しい考え方が出来なくなってしまうのです。これでは、解決策は思いつかなくなるばかりか、生きる気力も失ってしまいます。

 

マインドフルネスをするには、ストレスの原因になっている場所からなるべく離れて、非日常の世界に身を置くことが、まずは求められます。何もかも忘れてしまうには、自然豊かな処で、農業体験や自然体験に勤しむことが有効です。また、自分をまるごと受け容れてくれて許し肯定してくれる環境も必要です。それが、まさしく「イスキアの郷しらかわ」です。一旦思考を停止させて、自分自身をまずは取り戻すことが出来る場所、「イスキアの郷しらかわ」で、しばらく過ごすことでマインドフルネスが実践できます。仕事を休めない方は、週末だけでも何回か訪れてみてはいかがでしょうか。休職をしているなら、数日滞在することで、デトックスが可能になります。自ら命を絶つのは、今一度考え直してみてください。イスキアの郷しらかわで過ごしてみてください。自分の本当の「出口」(グリーンエグジット)がきっと見つけられます。

自己責任論の危うさ

元復興大臣が、自主避難者は自己責任だと言い切っていたが、同じように本音では自己責任だと思っている政治家や官僚たちが実に多い。批判されることを恐れて、口に出してこそいないが、貧困や格差問題も、自己責任だと思っている政治家や官僚、そして富裕層の人々は少なくない。子どもの貧困問題や高齢者の医療・介護問題だって、根本的には自己責任だと考える人は多いに違いない。アリとキリギリスというイソップ寓話を引き合いに出して、生活保護を受給している家庭や国民年金しか受給出来ていない貧困家庭を批判的に見ている富裕層は少なくない。そして、そうなったのは自己責任だから自業自得だろうと思っているのではないだろうか。

 

確かに、そういう見方も出来ない訳ではない。しかし、自己責任という言葉だけで社会的弱者を切り捨てることは出来ないのではあるまいか。何故なら、そのような社会的弱者を作り出したのは、政治や行政にも責任の一旦があるからだ。高福祉社会においては、なまじっか働いて苦労するよりも、国や市町村などによる福祉サービスを受けたほうが経済的には豊かな生活を送れるケースが少なくない。国民年金から2ケ月に1度10万円ほどの年金額が支給されるより、生活保護費を毎月10万円以上支給されたほうが、遥かに豊かな生活が出来る。働けるのに働かないという選択をする国民がいるのも確かである。しかし、それがすべてではないし、働こうとしない国民を作り出してしまった政治と行政の無策にも責任があると思うのである。

 

政治は、世の中に貧困を作り出すようなことをすべきではない。それも、貧困が多世代に渡って連鎖するような社会を作るのは、失政だと言っても過言ではない。江戸時代以前に、過酷な自然災害や飢饉などで人々が飢え、社会不安に陥ったケースが少なくない。ある意味仕方がないという側面もあるが、そういう世情不安が起きるような例でも、政治がしっかりしていれば、何とか乗り切れたという歴史がある。ところが、政治や行政が失敗を繰り返すと、貧困が蔓延化してしまい、一揆やクーデターが起きてしまった歴史がある。世界の歴史を見ても、貧困化が一定の率を越えてしまったときは、革命やクーデターが起きているのである。それは、政治の無策によるものと言っても過言ではない。

 

時の政治家や為政者は、貧困や格差が起きたことに対する自分の責任を回避して、市場経済のせいにしたり市民の無能や無教養が原因だとしたりするが、その主張が的を射てないのは明白である。つまり、自己責任論を展開するのは、政治家や官僚が自分の無能さを社会に対して自ら宣言していると言っても過言ではない。政治の重要な役割のひとつが、社会的弱者を生み出さないようにするのは当然だ。頑張った人が報われるべき社会にすべきだとしても、所得の再分配や富の再配分という機能を政治が果たさないといけない。貧困や格差は、本人の怠惰な性格や生き方、または本人の間違った価値観にあるとする考え方もあろう。しかし、そういった思想哲学の低劣化は、公的教育の貧困さに原因があると言えまいか。

 

江戸時代において、貧困や格差がまるっきりなかったとは言えないが、幸福度という尺度から見たら、その格差は社会的に許せる範囲だったように思える。何故、江戸時代はそんな社会が築けたのかというと、『システム思考』という考え方が浸透していたからではあるまいか。個別最適を目指すのではなく、常に全体最適を目的にしていたのである。当然、全体最適を目指すからには、お互いの関係性をとても大切にしていた。そして、弱者や敗者に対する思いやりというか慈悲の心を最重要視していたのである。特に、社会的強者である武士は、常に弱者に対する配慮を重んじる教育を幼少期から受けていた。つまり、惻隠の情という教育を徹底していたのである。現代における政治家と官僚の役割を果たしていた武士こそ、社会的弱者に対する配慮が必要なのだと教えられたのである。

 

現代の政治家や官僚に、惻隠の情があるかというと、彼らの言動からはあまり感じられないのである。どちらかというと、社会的強者に対する配慮のほうが優先していて、弱者を思いやる政策は不足している。アベノミクスは強者のための経済政策であり、富裕者が益々豊かになる政策である。トリクルダウンが起こり、貧困者にも富のおこぼれが起きると主張しているが、実際には起きていないし、円安は貧困者や年金生活者の生活を圧迫している。自己責任論が彼らの根底にある価値観であるから、惻隠の情があるとはまるっきり思えない。富や所得の再分配のための政策は後回しになっているし、格差は益々広がっているのが実情である。政治家や官僚は、自己責任論をひとまず封印して、江戸時代の武士を見習い、惻隠の情を根本的な価値観にした政策を進めてほしいものである。

怒りの感情を上手に処理する

この世は、とても生きずらい。自分が思っているような理想社会には、ほど遠い。自分を傷つけたり無視したりする人がいる。または、自分を支配し制御しようとする人も多い。どうして、こんなにも人が人をコントロールしたがるのであろうか。それにしても、怒りや憎しみの感情を起こさせる人のなんと多いことだろうか。身勝手で自分のことしか考えない自己中心的な人は、平気で人を傷つけるようなことをする。パワハラやセクハラ、モラハラをしてくるし、わざと人が困るようなことを何度もしてくる。怒りの感情がふつふつと込み上げてくる。しかし、この怒りを当人に返すと、その何倍にも還ってくるし、逆切れするかもしれないので我慢するしかない。生きずらい世の中である。怒りを抑えるしか方法がないのだろうか。

怒りという感情は持ってはいけないと言われている。仏教の教えでは、「憤りの心は燎原の火の如し」と言って、けっして持ってはならないものだと説く。つまり、憤りの心を心の中に燃え盛らせると、燎原(原っぱ)に火をつけたと同じで何もかも焼き尽くすし、その火は自分をも焼き尽くすという。これは脳科学的にも証明されている。怒りの感情は、脳の偏桃体を刺激する。そうすると、偏桃体から副腎にコルチゾールを分泌させるように命令が行く。怒りの感情が起きると、戦闘態勢に入りなさいと脳が指示するのである。コルチゾールという副腎皮質ホルモンは、血圧を上げて脈拍数を増やす。コルチゾールは、脳の海馬に伝わり、記憶系を麻痺させる。恐怖や不安感を失くすようにするためではないかと思われる。脳と身体を臨戦態勢にすることで、体調の変調までさせてしまうのである。

さらに、コルチゾールが海馬を刺激し続けると、海馬が委縮してしまうことが分かっている。海馬というのは、記憶を司る大事な場所。海馬が委縮すると、記憶障害が起きるし、ひどくなると認知症にもなってしまう。コルチゾールによって血圧が上がり脈拍数を上げて、血糖値も上げてしまうと、生活習慣病になってしまう。脳血管障害や心筋梗塞を起こすこともあろう。怒りの感情というのが、どれほど自分の身体を傷つけるということが解る。怒りはメンタルの病気を起こすこともあるし、生活習慣病の元になると言っても過言ではない。怒りは一刻も早く手放さないと、自分の身を焼き尽くすのである。

とは言いながら、怒りを爆発させると人間関係を損なうから解放できないし、我慢するのもよくないとなったら、どうすればいいのだろうか。怒りを手放すにはどうすればいいのかというと、脳内の怒りの感情を上手に処理するしかないのである。怒りの感情は右脳に記憶される。そして、右脳にある怒りの記憶は、忘れようとしても忘れることが出来ないし、時々怒りの記憶が蘇り自分を傷つける。だから右脳から左脳に怒りの記憶を移し替えるのである。そうすれば、第三者的に客観的に怒りの記憶を眺められる。ああ、あの時私は怒りの感情があったんだと、過去のこととして冷静に自分の怒りの記憶を見れるようになる。そうすれば、怒りは偏桃体を刺激しないし、コルチゾールも出ないから海馬を委縮させない。

それでは、怒りの記憶をどのようにして右脳から左脳に移し替えればいいのだろうか。移し替えのコツは、カウンセリングである。右脳にある怒りの感情を誰かに話して、その話を傾聴してもらい否定せず共感してもらうのである。そういうことを何回か繰り返すと、怒りの記憶を右脳から左脳に移し替えられる。日記やブログでもいいが、その際否定されたり馬鹿にされたりすると効果がない。優秀なカウンセラーは、自分のことのように相手の話を聞く。けっして否定したり無視したりせず、相手の身になったように共感するのが、本当のカウンセラーである。『イスキアの郷しらかわ』では、まずはこのようなカウンセリングをしたい。怒りの感情の処理を手伝いするので是非利用してほしい。

 

運命か、それとも自由意志か

我々人間は、運命によって支配されているのであろうか。それとも、自分の運命は自由意志によって、どのようにでも変えられるのであろうか。2000年以上も今まで議論をされ続けてきた問題であるが、結論はまだ出ていない。今までは、観念論や宗教哲学等として考察されてきたのであるが、最近は最先端の科学的手法によって、その真偽が明らかにされようとしている。面白い結論が導かれようとしていることが、実に興味深い。

物理学者、量子力学者、神経学者、脳科学者たちは、運命か自由意志かの検証を続けている。ノーベル物理学賞を受賞したトホーフト博士らは、量子力学や素粒子の観点や神経学の実験などから、実に様々な仮説を唱えている。一部の科学者は、人間は自由意志を使って自分の行動をコントロールしているように見えるが、無意識の意識が行動を起こす10秒前に働いていて、意識している意識に影響を与えているこという実験結果を示し、やはり人間は何らかの見えないものに操られているのではないかと結論付けている。運命に支配されているというのである。

一方、ある量子物理学の博士たちは、素粒子の不確定性原理を用いて、量子力学のあいまいさによって、ある程度人間の意識が物体に影響を及ぼすことが出来ると説いている。つまり、100%ではないにしても、ある程度の部分は人間の意識で運命をも変えられるのではないかという仮説を主張しているのである。いずれにしても、どちらの仮説も、完全に実証されている訳ではない。どちらを信じるかは、本人の選択によるであろう。

ところで、カリフォルニア大学のジョナサン・スクーラー氏は、実に面白い実験を実施した。学生を被験者にして、まず2つのグループに分けた。一方は、人間は運命に支配されているので自由意志で運命を変えることは出来ないというメッセージを長い時間受けたグループである。もうひとつのグループでは、自由意志で人間の人生はどうにでも変えられるし、運命さえも自分の意思により変えることが出来るというメッセージを長い時間見せられたのである。そして、あるダミーの問題を解くように指示を受け、採点の時間がなくなったので自己採点をするようにとの指示を学生たちは受けた。しかも、その問題は超難問であり、殆どの学生が2問くらいしか正解出来ない問題であるし、正解ひとつに付き1ドルを用意した小瓶の中から自由に取ってよいとしたのである。

そうしたら、実に面白い実験結果になったという。自由意志で運命さえも変えられるというメッセージを受け続けた学生は、殆ど誤魔化しをしなかったという。ところが、人間は運命によって支配されているから自由意志は働かないというメッセージを見続けた学生は、正解以上の1ドルコインを手にしてしまったという。つまり、人間は運命に縛られていると思い込んでしまった学生は不正を働き、人間は自由意志によって行動するとした学生は、正義感や倫理観が高くなり不正を働かなかったということらしい。

何故、そんなことになってしまったのかというと、どうせ自分は運命によって支配をされているのだからということで、正しく生きるべきだという倫理観が低下してしまったらしい。または、元々あった欲望の暴走が、運命によって支配されているということを言い訳にして止められなかったという見方をしている。いずれにしても、人間とは自由意志で生きていると思っているほうが、倫理観が高まるし、運命に支配されているから自由意志は働かないという考え方は、人間の道徳観念を著しく低下させるということである。我々はどんな価値観を持って生きるべきかということを如実に示していると言えよう。子どもたちの教育にも、生かしていきたいものである。

 

スピリチュアル依存症

スピリチュアルという言葉が独り歩きしている。しかも、そのスピリチュアルという言葉が心地よく聞こえるのか、それにどっぷりと浸かっている人たちが増えている。そして、このスピリチュアルに心奪われ人は、ウィルスに感染しているかのように、急激に広がりを見せている。以前は、魂だの霊だのと言う人は、どうしても胡散臭く見られていたのに、スピリチュアルという洒落た語感が功を奏したのか、同じことを言っても受け入れられることが多くなった気がする。しかし、それによりとんでもない悪影響を与えつつあるのも事実である。つまり、自分に不遇な境遇が現れると、自分のせいではなくてすべてスピリチュアルな要因にあると思い込んでしまうのである。そして、そのスピリチュアルにすっかり依存してしまって、頑固な態度で聞く耳を持たなくなっている人々が急増しているのである。

この言わばスピリチュアル依存症と呼べるような人々は、一旦信じ込まされてしまうと、他の人の忠告に耳を貸さず、頑なに思い込む傾向にある。何故かというと、自分の不遇がこのスピリチュアルなものに原因があると言われたほうが、心が休まるからである。自分に与えられた苦難や困難が、自分の生き方に問題があったからだと指摘されるよりも、前世からの課題や試練によってもたらされたものだと言われたほうが、耳に心地よいのは当然だ。このようなアドバイスをするスピリチュアルカウンセラーは、自分でも無意識のうちに、このような助言を無責任にしてしまう。具合の悪いことに、自分でもそのように信じ切っているものだから、クライアントに対して自信満々の態度で伝える。それも、様々な小道具や音楽・アロマ等を利用するものだから、深く潜在意識に届く。したがって、疑いもせずすっかり信じ込んでしまうのだ。

このスピリチュアルという呼び方も拙い気がする。スピリチュアルカウンセラーとかスピリチュアル占いとかいうと、怪しげな感じがしない。霊魂カウンセラーなんて呼んだら、いかにも怪訝そうな気がするだろう。このソフトなイメージによって、多くの人が惑わされている。勿論、スピリチュアリティそのものがこの世に存在しないし、そんなのはすべてまやかしである、などという乱暴なことを言うつもりもない。科学的には証明出来なくても、集合無意識ということや、過去世の記憶を持って生まれてくる人間の仕組みを信じていない訳ではない。だとしても、今のスピリチュアルブームは異常であり、誤解している人が多いし、あまりにも依存し過ぎているのは問題と言える。

スピリチュアルブームの火付け役の一人である、元福島大学の教授だった飯田史彦氏は、社会に対して警鐘を鳴らしている。自分の性格・人格・人間性に問題があり様々な苦難困難と巡り合うケースで、真にスピリチュアリティに原因があるケースは、僅か10%以下であると言い切っている。彼はスピリチュアリティにおける特殊な能力を持ち、ボランティアでかなりのクライアントを救っている。その解決事例を通してそのように断言している。彼は、このカウンセリングにおいて一切料金を取っていない。ところが、スピリチュアルを利用してヒーリングをしている人々は、結構法外な料金を請求している。それで商いをして生計を立てているのである。つまり、クライアントを多く取りたいし、逃がしたくないのである。本人には悪気はなくても、こういう人は信用出来ない。

スピリチュアルを商売にしている人々がすべてまやかしであるなどということを言うつもりもない。しかし、すべてのクライアントに対して、これはスピリチュアリティに問題があって、前世の誰それがいたずらをしていると答えているようなカウンセラーは、信用出来ない気がするのである。そして、スピリチュアル依存症の人々を利用してお金を巻き上げるなんて、許せない所業である。自分のつらい境遇すべてに対して、スピリチュアリティを原因にしてしまったら、謙虚に自己を反省しないし、自己成長や自己の確立を遅らせてしまう。自分に起きている苦難困難が、すべてスピリチュアリティに問題があって起きている訳ではないということを認識してほしい。自分の目の前の試練から、スピリチュアリティに逃げないでほしい。そうしないと、本当の解決はやって来ない。スピリチュアル依存症から勇気を持って撤退してほしいものであり、今の自分自身を素直に見つめてほしいと思う。

ブログの投稿について

これから、徐々にブログを投稿していきたいと思います。心理学、哲学、形而上学、複雑系科学、精神医学、映画、読書、自然、登山、神社仏閣、あらゆる分野で有用な情報を含んだ随筆系の日記を書いていきたいと思います。皆さまにとって少しでもお役に立てるようなブログを投稿したいと考えています。