ゴルフで記憶力アップ

国立長寿医療研究センターでは、65歳以上の高齢者にゴルフを体験させたら、記憶力の向上につながったという発表をした。65歳以上の高齢者でゴルフ未経験者106人を選び、そのうち半数の人に週に1回以上のゴルフの練習かラウンドをしてもらった。残り半数の人はゴルフをしない普通の生活を続けた。その生活を半年間続けてもらい、事前と事後に記憶力のテストをしてもらったら、ゴルフをした人のほうが項目別検査で平均8~12%の向上が見られたというから驚きだ。

以前からゴルフをやると記憶力向上になるとか、認知症の予防に効果的だとは言われてきた。確かに、ゴルフをやる高齢者は元気な人が多いし、計算力や記憶力の良い人が多いように感じる。特に高齢になってからゴルフを始めるという人は、前向きな考え方の人が多いし、運動習慣を持っている人だからと思っていた。ところが、今回は統計学的というか、実際に実験によって検証されたというのだから、ゴルフが脳にかなり良い影響を与えるということが科学的に実証された形だ。

ゴルフ人口がかなり減少していて、どのようにしてゴルフ愛好者を増やすのか、ゴルフ協会は苦労しているという。それで、国立長寿医療研究センターに協力して、このような検証実験をして高齢者にもゴルフを楽しんでもらう努力をしたのだろうと思われる。本当は、若い人にゴルフを楽しんでもらいたいし、少年少女のゴルフ人口を増やすことをゴルフ協会は目論んでいる。今回は、高齢者を対象にした検証実験を実施したのだが、なかなか粋なことをゴルフ協会はしたものである。

他のスポーツでもある程度の記憶力向上や認知症予防効果があると思われる。しかし、ゴルフほどの効果はないかもしれない。何故ならば、ゴルフというスポーツは他のスポーツよりも遥かに頭(脳)を使う運動だからである。ゴルフは、1ラウンドするのに約4時間から5時間要する。その間、実際にショットやパットをする時間は、事前の準備も含めてわずか15分から20分だと言われている。それ以外の時間は移動や歩行をしていて、その間ずっと自分のショットやパットのことを考えているのである。

脳(頭)は使えば使うほど、脳の機能が高まってくると言われている。こんなにも頭脳を使うスポーツは、ゴルフの他にはないと思われる。他のスポーツで、こんなにもインターバル時間の長いスポーツはないからである。ゴルフはメンタルスポーツとも言われていて、心のあり様が即プレーに反映する。したがって、技能だけ磨いてもスコアーは良くならない。ゴルフには戦略性が必要であるし、メンタル面における自分との葛藤にも勝たなくてはならないのである。こんなにも複雑なスポーツは他にないと確信している。

さらに、ゴルフはアウトドアのスポーツであり、風や雨、気温などにも影響される。しかも、芝生の状態や樹々などの配置にも考慮と対応が必要である。刻々と変化する自然に、どう対応するかが問われているスポーツと言えよう。そして、自然のせいにすることが一切許されていないし、すべては自分の責任なのである。対戦型のスポーツであれば、相手の力量が上だったと言い訳できるが、結果は自分で正直に受け止めるしかないのである。そういう意味では、責任性、主体性、自発性、自主性に基づいたスポーツだと言える。仕事においてもアクティビティが要求されるが、まさしくゴルフというスポーツはそれが重要な要素なのである。他の要因に責任転嫁できず、すべて自分の責任にせざるを得ないのがゴルフなのである。

人間という生きものは、とかく責任逃れをしたり、困難なことから回避したり、誰かに依存したりするものである。ところが、ゴルフだけはそれらのことが一切許されないというルールの中で行うスポーツなのである。だから、人間性とか人間力が磨かれるスポーツであるとも言える。頭脳を使うことで、その能力向上が出来るということも解った。さらに、一緒にラウンドする人との洒落た会話も楽しむことで、社交性も向上する。ゴルフこそ、高齢者に相応しいスポーツだと言える。高齢者のうつ病予防にも効果があるし、メンタル障害になられた方の社会復帰訓練にもおおいに効果がある筈である。高齢期になって、意欲が湧かないという人にも好適なスポーツとして薦められる。

 

※イスキアの郷しらかわでは、不登校、ひきこもり、メンタルで休職や離職された方々が、グリーンツーリズム体験によって社会復帰を目指すことをサポートしています。利用者の農業体験、自然体験は勿論のこと、ゴルフの練習やラウンドの指導(無料)などもいたします。ゴルフ用具の無料貸し出しもしますので、是非お問い合わせください。

命よりも大切なもの

財務省の決裁文書改ざん問題で、国会が揉めている。こんな低レベルのことを、世界に誇る日本の優秀な官僚が実際に行ったという事が驚きであるが、一人の官僚が自殺してしまったという痛ましい事件に発展していることが注目される。このような官僚を巻き込んだ事件が起きると、一番弱い立場にある下働きの行政職員が犠牲になることが多い。民間人であっても、贈収賄・汚職事件で自殺してしまうケースも多々ある。何よりも尊い命を絶ってまでも、守るべき存在なんてあるのだろうか。

巨悪に立ち向かうことが優先すべきだということは理解するが、一人の生命がないがしろにされてしまっているのに、その責任を追及しないマスメディアの姿勢も問題であろう。過去にも汚職事件などで、誰かを守るために犠牲になった方々がいて、追い込んでしまった責任を誰が取ったであろうか。守ってもらった人が、自分を守る必要はないよと言ってあげたりすれば、命は守られたであろう。亡くなった方の名誉を守るため、自分が悪かったと贖罪した人物はいなかったように記憶している。

今回の財務省の文書改ざん事件で自殺された方の名誉を回復させてあげたいと、自分が指示したことだと誰も言わないのは不思議であり、とても残念である。命は何よりも尊厳されるべきだということは理解している筈なのに、財務省官僚や政治家たちは口をつぐんでいる。命を軽視しているとしか思えない。亡くなった方の家族は、いたたまれないことであろう。この日本という国のかじ取りと航海を仕切っている政治家と官僚は、命よりも大切なものがあると思い込んでいるのかもしれない。

命よりも大切なものとは何であろうか。たぶん、日本を牛耳っている政治家とキャリア官僚たちは、国全体の利益とか国体の維持と考えている節がある。全体の利益ためには、個別の利益がある程度制限されることがあり得るのは理解している。しかし、人命までも奪ってまで守る利益なんて、本当にあるのだろうか。太平洋戦争時、特攻隊は国のために自分の命を犠牲にした。あの時に特攻隊を指示した高級軍人たちは、危険な戦場には出ることなく、のうのうと生き残った。あの当時の考え方が、今でも残っているとしたら、実に情けないし許せないと思うのは私だけではあるまい。

命よりも大切なものがある筈がない。人間としての尊厳、名誉、哲学、生き方を守る為に、自分の命を犠牲にしてでも守らなければならないという人がいるかもしれない。それは完全な間違いだという事を、親たちは子どもたちに教えてきただろうか。学校においても、命の大切さを教える教育はしていると思うが、子どもたちの心に響く言葉で教師たちは伝えてきたであろうか。どうも、このような命を尊ぶ教育が不十分だったのではなかったと思えて仕方ない。だから、汚職事件の犠牲者だけでなく、日本では自殺者が多いのではなかろうか。

命よりも価値があると言い張る人間がいる。それは、自分の命が脅かされることがない人間が言っているケースが多い。自分で命を絶つしかないと思う立場に追い込まれてしまったことがない人であり、テロや紛争が日常的に起きている地域に住んだことがない人であろう。自分の命が危機的な状況に追い込まれて、明日の命が解らないというような日々を過ごした経験があれば、絶対に命を軽視するような発言はしないものである。命よりも大事なものなんてないと、言い切ることであろう。

何故、そう言えるかというと、人間は生きていることでしか成し遂げられないことがあることを実感しているからである。死んでしまったら、家族、会社、地域、国家というコミュニティに対して貢献できないのである。どんな状況にあったとしても、人間は存在そのものが社会貢献をしているのである。死んで貢献することがあるという人もいるが、それは詭弁である。守護霊になって、家族を守るという人がいるかもしれないが、絶対にそんなことはない。自殺者が他の人たちに影響を与えて、後追い自殺をする人が多数いるのを見れば明らかである。命よりも大切なものなんて存在しない。だから、どんなに追い込まれても、自殺は絶対にしてはならないのである。生きていれば、今抱えている問題は必ず解決できるし、多くの人々の幸福や豊かさに貢献できるのである。

 

※学校や職場、または家族のことで悩んでいて、死んでしまいたいと思っている方がいらしたら、まずはイスキアの郷しらかわにご相談ください。匿名でもいいですし、事情などを詳しく問いただしたりすることはありません。言いたいことだけをおっしゃってください。問い合わせのメールだけのやりとりでもいいですし、個人アドレスでなくてもいいですから、まずはご連絡ください。問い合わせフォームからお願いします。

食べ放題や超激辛料理は危険!

TVでは、連日食レポ番組の放映が垂れ流しされている。その番組の多くは、高視聴率を狙ったせいなのか、とてつもない激辛を扱ったものや食べ放題、超大盛り料理を取り上げた番組が多いのに驚く。昔は、バイキング料理としての食べ放題の食堂やホテルがあったが、それはごく一部であった。ところが、最近は多くの食堂・レストランが食べ放題とか御替わり自由というようなプランが多くなってしまった。居酒屋でも飲み放題というプランのお店が激増している。

このように食べ放題や飲み放題のお店が増えたことも問題であるが、激辛料理を売りにしたお店が増えたということも驚くべきことである。しかもそれが人気を呼んでいて、繁盛しているのだから不思議なことだ。我々のような高齢者は、現在のような味覚の変化にはついていけないと言えばそれまでであるが、果たしてこれでいいのだろうか。料理の量や過激な味を前面に出したお店ばかりが増えては、日本の食文化が廃れてしまうのではないかとの危惧を抱いてしまう。

それにしても、コンビニの弁当やおむすび、総菜などが大量に売れているというのが不思議である。また、ファーストフード店は若者だけでなく中高年者も多くが利用している。コンビニの弁当やファーストフード店の料理を美味しいと感じる日本人の味覚は、間違いなく異常を来しているとしか思えない。化学調味料満載で、しかも異常に濃い味の料理を美味しいと、毎日のように喜んで食しているのは正常な味覚とは言えない。

だから、食べ放題の料理を美味しいと感じ、超激辛の料理を平気で食べることが出来るのであろう。日本料理というのは、素材そのものの持つ味を生かすために、繊細な出汁を利用して、薄味でも美味しいと感じるように、料理人が技術の粋を尽くして調理したものだ。そういう料理を美味しいと感じられるような味覚を、日本人は育んできたのである。これが和食文化の神髄である。世界でも比類なき食文化だと認められ、世界遺産として認められたのである。このような食文化を台無しにしてしまうような料理が人気を博しているということが実に情けない。

日本人の味覚が衰えてしまい、伝統的な和食文化が廃れてしまいはしないだろうか。素晴らしい和食文化と対極にある、食べ放題や激辛などの料理がもてはやされているというのは、どうにも我慢がならないのは私だけではあるまい。今の若者の味覚異常を苦々しく思っている良識ある人も少なくないに違いない。食というのは健康に直結していると言っても過言ではない。売れるから、儲かるからと、健康に悪影響を与えるような食事を平気で提供するというのは、ある意味では未必の傷害罪、または殺人罪と言えなくもないであろう。

食べ放題や超大盛りの食事を続けたら、生活習慣病まっしぐらである。昔から腹八分と言われてきたではないか。食べ過ぎが肥満やメタボを生んで、それが引き金になって高脂血症や糖尿病になり、重篤な脳疾患や心臓疾患を発症して寝たきりになるという流れだ。これでは、医療保険、介護保険、年金制度が破綻するのは当然である。慎ましく健康的な生活スタイルを続けてきた人が、そういう自堕落な人間の尻ぬぐいをさせられるなんて、とんでもないことなのである。食べ放題や超大盛りを食べることは自殺行為でもあり、このような食事を提供する人は自殺ほう助罪になると言っても過言ではない。

また、超激辛料理の危険性は言うまでもない。胃腸に刺激を与え過ぎて炎症を起こすだけではなく、重大な影響を身体に与えてしまうのだ。辛過ぎるものを食べると、人間は一時的に体温が上昇し汗をかく。ダイエットに良いとされるのは、そのせいだろう。ところが、自律神経が一時的に副交感神経を働かすが、その反動でその後交感神経が過剰になり、逆に体温を極端に低下させてしまうのである。このようなことを何度も繰り返すと、自律神経が破綻してしまうのは当然である。自律神経のバランスが崩れてしまい、やがては重篤な疾患へと進行してしまう。腸内環境も悪化する。超激辛料理も自殺行為と言えよう。飲食店を経営する人は、人々に『健康』を提供しているんだという自覚を忘れないでもらいたい。

恩返しと呼ばれる出藍の誉れ

あの天才と呼ばれる藤井六段が、師匠の杉本七段に勝利したニュースが流れている。将棋界では、師匠と公式戦で対戦して勝利することを『恩返し』と呼ぶらしい。藤井六段の活躍も素晴らしいが、杉本七段の態度も立派であると賞賛されている。師よりも弟子が優れることを、出藍の誉れと呼ぶ。『青は藍よりとりて藍よりも青く、氷は水よりつくりて水よりも冷たし』と荀子が弟子に諭す際に言った言葉らしい。杉本七段は出藍の誉れを実践したのだから、師匠として素晴らしい足跡を残したと言えるだろう。

学校の教育現場で、杉本七段のような先生ばかりであったなら、不適切指導なんてことは起きる筈がない。ところが、出藍の誉れという精神を限りなく発揮して、子どもたちを育成している教師がどれほど居るだろうかと疑ってしまうような出来事が起き続けている。どちらかというと、自分たちの保身や評価を気にして、子どもたちを犠牲にしている先生が多いのではないだろうか。指導死なんて不幸な事件が起きるということが信じられないことであるが、教師による言葉の暴力だけでなく体罰もなくならない学校現場が実在する。

スポーツ界でも、出藍の誉れが起きているケースもあるが、逆の例も少なくない。例えば、相撲界である。関取が付き人に対して暴力を奮う行為が起きているし、師匠である親方が弟子に対していじめのような行為をしているのも事実である。相撲界というのは、絶対的な縦社会であることから、権力を持つ者が持たない者に対して暴力や暴言を奮うのが日常茶飯事になっているのであろう。出藍の誉れという精神が発揮されているとは思えないような社会らしい。

出藍の誉れという精神がまったく発揮されなくなってしまったのは、企業内における上司と部下の関係であろう。国や県、市町村の行政現場でも出藍の誉れが起きにくい職場になってしまっている。職場というのは、上司が部下を指導教育する場でもある。仕事を問題なく遂行するためには、部下を一人前にする為に教え育てなければならない。優秀な部下を育てることは、上司の大事な務めである。ところが、部下をある程度のレベルまでは育てられる上司がいるものの、自分を遥かに凌駕するような部下を育てられる上司は皆無に近い。何故、そんなことになっているのだろうか。

企業内における競争意識は、非常に高い。若者たちに出世欲はあまりないと言われているが、中年を過ぎた頃から出世競争に否が応でもさらされてしまう。会社に勤務しているなら、少なくても役員にはなりたいと思う人が多いことであろう。しかし、役員にまで昇進する人はごく少数の選ばれた社員たちである。当然、業績を残そうと必死になる。同僚たちは競争相手だし、下手すると部下が自分を飛び越えて上司になるかもしれない、弱肉強食の社会である。自分で苦労して仕入れた情報や大切なノウハウをすべて部下にすべて教えてしまったら、自分を乗り越えてしまい、自分が取り残されてしまう恐れがある。出藍の誉れと呼ばれるような、自分よりも優れた部下を育成することを無意識で避けてしまうのは当然であろう。

企業内や行政の職場において、行き過ぎた競争意識が大きいが故に出藍の誉れが起きず、上司を凌駕するような部下が出現しなかったらどうなるか。年々、社員や職員は能力のレベル低下が起きてしまい、企業業績も低下し続けることになる。企業の生産性の低下が問題になっているが、これもひとつの要因であろう。企業の存続にも影響する大問題なのである。競争主義を導入すると、企業内におけるノウハウや情報の共有が阻害されるだけでなく、優秀な社員の育成が出来なくなり企業業績が低迷するのである。富士通やシャープ、東芝のケースを見れば良く理解できるであろう。

企業内における評価にも問題がある。上司やリーダーの評価基準として、本来は自分よりも優秀な部下を育成したことを何よりも高く評価するべきである。残念ながら、このような評価基準を一番大切なものとして設定している企業や行政の職場は皆無である。経営者たる者、出藍の誉れの精神を最大の企業文化として取り入れるべきである。そして、全体最適の価値観を共有して、個別最適を恥じるような企業文化を醸成すべきと考える。そうすれば、出藍の誉れの精神をいかんなく発揮できる職場になるに違いない。これが、企業を永遠に発展継続させる秘訣である。

子どもが腰痛を訴えたら

子どもが腰痛を訴えて、その痛みが一時的なものなら心配ないが、長い期間に渡り痛みが続いたら、注意が必要である。何故なら、その腰痛は子どものストレスや過度のプレッシャーにより起きている可能性が高いからである。しかも、その腰痛を放置しておくと、メンタルの障害を起こしてしまう怖れがあるし、やがて不登校やひきこもりになるケースもあると思われるからである。

腰痛を訴える子どもに共通した特徴がある。まずは非常に真面目であり、優しくて思いやりのある子である。そして、何があっても安易に助けを求めず、我慢強い性格を持つ。だから、学校で嫌なことがあったりいじめにあったりしても、誰にも言わずにじっと耐えることが多い。または、他の子どもが学校で嫌がらせやいじめを受けているのを見ると、それを助けてあげられない自分を責めるのである。このように、良い子が多いという特徴がある。

このような良い子は、自分の心の中にある感情を吐き出すのが苦手であり、心の奥底に仕舞い込んでしまい、ないことにしてしまうことが多い。そういう感情の中でも、嫉み、妬み、憎しみ、怒りのようなマイナスの感情を外に出してしまうと、回りから嫌われたり軽蔑されたりするので、じっと我慢するのである。その際に、マイナスの感情を忘れるために、無意識の脳がわざと腰痛を起こしてしまうのである。そうすれば、腰痛に集中して、マイナスの感情を一時的に保留することができるのである。

学友、先生、親、兄弟などに対するマイナスの感情を爆発させて関係性を損なわないように、痛みを起こすというのは、子どもだけではなく大人にも起こることである。この痛みによる防御システムは、脳の誤作動とも言えなくもない。痛みの発症システムは、簡単に言うと脳が自律神経の交感神経を刺激して、血管の収縮をさせて血流障害を起こすのである。そうすると、痛みの原因物質であるブラジキニン、ヒスタミン、セロトニン、プロスタグランジンなどが血管内に溜まって痛みを起こすのではないかと考えられている。

子どもが腰痛を訴えたら、親に対するSOSだと思った方がよい。妻が腰痛を訴えたとしたら、夫に対するSOSだと思ってほしい。子どもたちは、苦しんでいるんだよ、辛いんだよと無言の助けを求めていると思って対応することが求められよう。妻たちは、自分のことをもっと解って欲しい、苦しみや悲しみ、そして怒りを我慢しているんだよと訴えていることを、夫たちは解ってあげなくてはならない。

子どもたちは、なかなか自分の悩みを打ち明けようとはしない。だからこそ、親や支援者は子どもたちの気持ちに共感し、けっして否定せずまるごと受け止め、子どもの気持ちになりきって、そっと寄り添うことから始めなければならない。最初から解決策を押し付けるようなことをしてはならない。まずは、子どもが抱えている問題を自分のことのように受け止めて、子どもと同じような感情を持つことが大切である。そして、何度も質問を繰り返しながら、自分の考えを押し付けることなく、安心して感情を表出させるように優しく支援する態度が求められる。そうすれば、少しずつ子どもは、自分自身で自分の感情との折り合いのつけ方を気付くのである。

子どもは親が大好きである。だからこそ、親に心配をかけたくないし、親に嫌な思いをさせたくないのである。自分さえ我慢すれば、無理すればうまく行くと思いがちになる。それも、良い子であればなおさらである。そういう子どもであればこそ、親は真の味方になる必要がある。良い子でなくてもいいんだよ、無理しなくてもいいんだよ、どんな子どもであっても、あなたの味方であり見捨てるようなことは絶対にないと、明らかに子どもが確信できる態度と言葉で支援すべきである。そうすれば、子どもは安心して悩みを吐露するだろうし、親を信頼して問題解決を任せてくれるに違いない。たとえ問題を解決できなくても、真の味方と理解者が一人でも現れたなら、腰痛は見事に解消することであろう。

子どもの腰痛は危険!

腰痛を訴える子どもが増えているという。腰痛と言えば、本来は中高年の男女が悩む症状なのであるが、それがどうやら子どもたちにも急増してしまっているらしい。若い筋肉と骨格を持っている子どもが、腰痛を患うことは本来あり得ないことである。しかし、実際に腰痛を子どもたちが訴えている。腰痛を主訴に整形外科を受診している子どもが大勢いるというから驚きである。それも、腰痛だけでなく首の痛みや肩こりまで訴える子どもが多いというのは、まるで高齢者のようではないか。

医療の専門家によると、子どもたちの腰痛や肩こりの原因は、重すぎるランドセルによる筋肉痛ではないかという分析をしている。昔のランドセルと違って、一回り大きくなって豪華になったお陰で重量も増しているという。そこに、教科書や副読本の記載内容増えて、重くなっているらしい。そこに、塾の参考書も入っているというのである。重くなり過ぎたランドセルを背負って、学校から塾にまで遠回りして帰るので、筋肉痛が酷くなっているというのである。

果たして、それが腰痛のすべての原因なのであろうか。腰痛が起きている原因は、骨とか神経系ではないというのは、確かだそうである。あくまでも、筋肉内に起きているというのは間違いなさそうである。疲れによって筋肉に痛みが起きるメカニズムというのは、こういうプロセスを辿ると見られている。まずは筋肉が疲労してくると、血管内に疲労物質の乳酸が溜まる。さらに筋肉が疲れてくると、筋肉が収縮する。そうすると、血管が圧迫されて細くなる。血管内の血液の流れが悪くなり、乳酸が流れにくくなり痛みを発するらしいのである。

ところが、この乳酸原因説は現在否定されつつあるというのである。運動後、乳酸が多くなると言われていたが、実際に乳酸値を測定するとあまり増えていないことが解ったのである。最近では、筋肉痛の原因は筋繊維の炎症によるものだという説が有力である。筋肉を使い過ぎると、筋肉繊維の細かい部分が傷ついてしまい、その傷を治す時に炎症が起きて痛みが発するという説が有力になった。傷を治す際に、ブラジキニン、ヒスタミン、セロトニン、プロスタグランジンなどが筋肉内の血管に多く生まれて痛みが出るらしい。

子どもの腰痛は、この菌繊維の炎症によるものであろうか。どうも、この菌繊維の炎症による筋肉痛とは違うような気がするのである。腰痛が起きる他の原因というと、繊維筋痛症がある。これは脳の誤作動によるものだと言われている。他にはTMS(緊張性筋炎症候群)というものがある。これは、怒りとか憎しみを無意識下で脳が忘れさせようとして起きる痛みである。子どもの腰痛の本当の原因は、もしかすると脳による誤作動か無意識下で起こしている筋繊維の炎症かもしれない。これらの要因は、ストレスやプレッシャーからである。子どもたちの脳に大変なことが起きているのかもしれない。

今までの多くの方々の心と身体の悩み相談を受けていて、メンタルや深刻な身体の疾病についての経験談を聞かせてもらった。その中で殆どの人に共通しているのが、重大な疾病やメンタル障害を起こす前に辛い腰痛の症状があったという点である。不思議なことに、多くの人々が腰痛や肩こりに長い期間悩まされてきて、最期にはメンタル障害や重篤な疾患に追い込まれているのである。そして、家庭や職場で多大なストレスやプレッシャーに悩まされていたというのも共通している。特に、深刻な人間関係に悩んでいて、自分の努力ではどうしようもない状態に追い込まれていたというのである。

もしかすると、子どもたちの腰痛の身体的な原因ではなくて、多大なストレスやプレッシャーによるものではないのではなかろうか。中学生受験や学業成績に対する親からの過剰なプレッシャー、回りの教師や学友からのいじめや嫌がらせによるストレス、家族との軋轢などが複雑に絡みあって、子どもたちの脳に無意識に誤作動などを起こさせて、痛みを発症しているとすれば大変なことである。近い将来、メンタル障害や重篤な身体的疾患を起こしはしないだろうか。または不登校やひきこもりを起こす前の症状ではなかろうか。深刻な腰痛や肩こりを起こしている子どもたちに対して、適切なカウンセリングが必要ではないかと思われる。単なる腰痛だからと、投薬治療を選択してほしくないものである。腰痛はメンタル障害のサインだと心得たい。

高齢者の味覚異常が危険!

若者の味覚異常や味覚障害が深刻だと、以前ブログにも書いたが、今度は高齢者の味覚異常が増えているということが報道されていた。高齢者は、味を感じる味蕾(みらい)という部分の味覚細胞が減少することもあり、どうしても濃い味でないと感じにくいという。乳幼児期の味蕾数と比較すると、高齢者はなんと3分の1になってしまうらしい。したがって、高齢になればなるほど味覚を感じる細胞が減少するので、少しずつ濃い味の食事を求め、やがては味覚異常にまで発展してしまうというのである。

確かに、年老いた人たちの作った料理を食べてみると、味が濃いものが多いことに気付く。森のイスキアの佐藤初女さんの料理を食べた時に、異常に塩味が強いのに驚いた経験がある。青森県は、元々塩味の強い料理を作る傾向があると言われているが、こんなにも塩辛いものを食べるんだとびっくりした。高齢になり味蕾の数が少ないと、各種の味を感じにくくなることから、調味料を多量に使用するのではないかと思われる。これでは、高血圧症や糖尿病などの生活習慣病を益々発症させてしまうのも当然であろう。

高齢者の味覚異常は、味蕾の数だけがその原因ではないらしい。高齢者は高血圧症、糖尿病、高脂血症などの生活習慣病の薬を飲んでいる。その副作用もあるというから恐い。味覚細胞が、そのような薬の副作用によって正常に働かなると言うのである。高齢者の殆どの人は生活習慣病で投薬治療を受けている。となると、味蕾の数が減るだけでなく、投薬によって味覚細胞の働きも低下するという、二重の影響があるのだから、味覚異常が重症になるのは当然であろう。

味覚異常は、自分自身では気付かないから困る。ましてや、独り暮らしの老人家庭ならなおさらであり、老夫婦二人だけの家庭も増えているから、味覚異常だと気付くことはないであろう。どんどん味の濃い料理になるし、そうすると食事があまり美味しいと感じられなくなる。当然、食欲も落ちてしまい、簡単な食事になってしまう。複雑な料理を作る気力も失せてしまい、インスタント食品やスーパーやコンビニの惣菜で、簡単に済まそうと思ってしまう。それらの食品に調味料をさらに追加して食べてしまうのだから、益々味覚異常が強化されるというスパイラルに陥ってしまう。

味覚異常の原因は、味蕾の数が減少すること、薬の副作用だけではない。食生活の乱れも、味覚異常を生む原因になる。最近の食生活で、どうしても不足するのが亜鉛である。亜鉛が不足すると、味覚細胞が正常に働かなくなってしまう。昔の食生活では、亜鉛が豊富であったと言われる。ところが、最近の野菜やお茶などに亜鉛があまり含まれていないらしい。それは、農薬や化学肥料を大量に使用している影響であろう。農地が痩せてしまい、亜鉛などの微量元素が極端に少なくなり、野菜やお茶に亜鉛があまり含有されてないというのである。

さらに、加工食品や総菜などに含まれている食品添加物も微量元素の吸収を阻害すると言われている。化学調味料や合成保存料などの食品添加物に含まれているフィチン酸やポリリン酸は、亜鉛の吸収を妨げるだけでなく亜鉛の排泄を促してしまうというのである。実に怖いことである。このように二重三重にも渡り、高齢者が味覚異常を起こしてしまう原因が、現代には多く存在するということだ。どうしたって、高齢者が味覚異常になるシステムが、現代では完全に出来あがっていると言えよう。だからこそ、我々高齢者は食生活に充分に留意すべきだという結論になる。

味覚異常を予防するには、天然のだしを用いて、オーガニックの食材を用いて丁寧に料理をすることが求められる。化学調味料や合成保存料、または着色料、発色剤、殺菌剤などの食品添加物が含まれている惣菜やコンビニ弁当などを避けるべきであろう。農薬や化学肥料を多量に使用した農産物も避けたい。さらには、毎日の食生活において、なるべく薄味の料理でも美味しく感じるような工夫も必要である。天然だしや天然水を使用して料理をすると、薄味でも美味しいと感じやすい。また、亜鉛が多く含まれる山菜、例えばコゴミ(クサソテツ)などを食べるのも効果がある。味覚異常を予防して生活習慣病を防ぎ、健康生活を継続していきたいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、無農薬で有機栽培の食材を用いて、丁寧に天然素材で調理します。したがって、3日~4日滞在すると、身体の中に溜まっている化学添加物や重金属などの毒素がデトックスできます。そのうえで、亜鉛、マグネシウム、カルシウム、鉄分などの微量元素が豊富に含まれた料理を食べることで、味覚異常が緩和されます。一度、正しい味覚に戻すことで、自分の味覚異常に気付くことができます。自分がもしかすると味覚異常かもしれないと思われる方は、是非ご利用ください。

行政とNPOの協働における課題

行政とNPO法人による協働事業は、全国でかなり実施されていて、多大な実績を上げている。とは言いながら、本来のあるべき協働になっているのかというと、かなり疑問に思えるような協働になっていると言えよう。どうしてかというと、協働というのは対等の立場が前提になるが、実際は行政側が主導権を持っていて、NPO法人側は行政の言いなりになっているからである。つまり、行政の完全な「下請け」のようになっていると言えよう。

業務委託契約において、受託者と委託者は本来対等の立場であるべきだ。しかし、例外はあるものの、殆どの委託業務は行政側の権限が強過ぎて、NPO側では行政の指示通りに動くようになってしまっている。何故、そんなことになっているかというと、お金を出すのが行政側であり、そのお金がないとNPO側で活動出来ないという事情があるからであろう。だから、どんな無理難題を押し付けられても、NOと言えない構図になってしまうのである。いや、そんなことはないと行政側では言うかもしれないが、現実は行政の言いなりになっていると言っても過言ではない。

NPO法人側にも、問題があると思われる。委託業務が受けられるかどうかがNPOの存続にも影響してくるから、行政側の無理難題にも対応せざるを得ない。これは出来かねるとして断るとか、自分達の主張を通すということが出来ないのである。NPO側の事情として、業務執行において行政マンと対等に交渉できる人材がいないのである。行政マンに対して、圧倒的な能力を発揮して、正しいことを正しいと主張できる人材がいないと言えよう。だから、行政マンはNPO法人の役職員を尊敬しないばかりか、どちらかといと内心では見くびっているのである。

こんな現状で、どうして対等な立場で協働が出来ようか。本来のあるべき協働が進んでいないから、社会はいつまで経っても変わらないのである。NPO側では、理念があるから、その理念に沿った社会を実現したいと協働を進めて努力する。一方、行政側ではあくまでも法律や条例に基づいて業務を遂行させたいから、今までの枠からはみ出させたくない。社会変革を目指したいNPO側では、今までのしばりから脱却したい。当然、グレーゾーンが生じるのであるが、行政側では保身のために、それは絶対に認めたくないのである。

このような態度を行政側が取るのは、とんでもないNPO法人が過去に存在していたからでもある。きちんと委託業務を実行しないばかりか、いい加減な経理処理するとか不正な支出をしてしまったという歴史があるからだ。このようなコンプライアンスを無視するようなNPO法人があったから、行政側としては神経質になり、グレーゾーンを認めたくないのであろう。会計検査院に指摘されないようにと、会計処理だけでなく業務実行についても、決められたことしか認めたくないし、余計なことをして欲しくないのである。

行政とNPOとの協働は、業務執行をなるべくNPO側に任せるというのが基本になるし、しかも行政側としては、業務執行がスムーズに行くように、各種関係機関への根回し等のサポートに徹するのが必要である。しかも、NPO法人の良い処を引き出せるように、アドバイスしたり何らかのヒントを与えたりすることも行政の役割である。金だけ出して口を出さないというのは、協働とは呼ばない。委託業務の執行について、良好なコミュニケーションを取り合いながら、より良い成果を上げる為にお互いが最大限の努力をするのが、本来の協働であろう。

NPOは固定観念や既成概念にとらわれず、大胆な発想と柔軟な思考を駆使して、行政では思いもつかないようなアプローチをすると共に、結果を怖れない大胆なチャレンジをすることが求められる。行政はなるべくブレーキをかけることなく、それをそっと見守って欲しいものである。法律や条例に違反する行為でなければ、業務の執行を縛ることはなるべく避けてほしいものである。そうすれば、大きな協働の成果が生まれるに違いない。そして出来得るならば、協働としての委託事業が終わっても、NP0が自力で継続していけるようなビジネスモデルとして確立してほしい。それが、本来協働の目指すところであろう。

被害者意識を解放して復興を

3.11から今日で早7年。未曾有の災害による爪痕はまだ深く残っている。原発事故の被害は想像以上であることから、福島県内各地の復旧さえままならない実情がある。したがって、復旧さえできていない現状で、復興なんてまだまだと思っている県民も多い。ましてや、原発事故による汚染除去もまだ完了せず、風評被害は根強く残っていることもあり、復興なんて無理だと諦めている県民も少なくない。

震災避難者は全体で7万人を超えて、県外避難者も5万人もいるというから、原発事故による心的な被害は想像以上に大きいのであろう。そういう状況で復興しようという掛け声ばかりで、遅々として復興が進まないのは、強烈な被害者意識が強いからではあるまいか。こんなことを記してしまうと、避難者の方々からお叱りを受けることになるかもしれないが、被害者意識を持ち続ける限り、復興は進まないように思うのである。

災害復興とは、災害による被害をすべて復旧してうえで成り立つものであるという主張は間違っていない。しかし、これから20年くらい風評被害は完全になくならないし、原発の事故処理は、あと30年以上はかかるであろう。だから、あと30年以上も復興が実現しないという結論になりはしまいか。つまり、早く復興をしようとすれば、完全復旧を待ってはいられないのである。ましてや、被害者意識から解放されないと、いつまでも前には進めないような気がするのである。

原発事故が起きた責任は、原発立地の住民には一切ない。東電と原発政策を推進してきた政府に、原発事故発生の責任がある。しかし、原発の恩恵を受けていたのは関東地区の住民だけではない筈である。原発立地の住民も、いろんな原発立地の課税収入による公共インフラの充実をさせてもらったし、関連産業の就職などで経済的な恩恵も受けていた。原発推進をしていた政府自民党を政権与党として選んだのは自分自身である。ましてや、原発を推進してきた首長を選んだのも自分達なのである。

だとすれば、原発による災害や風評被害をすべてマイナスの要素として捉え、だから復興は無理だと諦めてしまうことは、自分自身を否定することに繋がりはしないだろうか。それよりも、この原発事故と風評被害から目を背けずに、まずは認め受け容れて、このマイナスをプラスに転換することを真剣に考えるべき時期に来ていると考えようではないか。悩み苦しんだ7年という月日を無駄にしないように、そのことを糧にして真の復興に突き進むことを、今日この日に共に決意したいものである。

風評被害は、まだまだ根強い。イスキアの郷しらかわで宿泊する農家民宿「四季彩菜工房」には、原発事故以前は年間400人から500人のお客様がお泊りにいらしていた。それが、風評被害によって年間20人から30人に激減してしまった。経営的には大打撃である。この状況を嘆くだけでなく、イスキアの郷しらかわとして活用させるという、マイナスをプラスに大転換させる意識改革を、農家民宿経営者と共に実施したのである。まだ利用者はそんなに増えてはいないが、おかげで少しずつ問い合わせや見学者が増加しつつある。被害者意識に縛られていては、出来なかった意識改革と価値観の大転換である。

福島県内で復興を見事に成し遂げている企業をみてみると、実に興味深い共通点がある。それは、原発事故による風評被害による損失補填を申請し続けている企業は遅々として復興が進まず、いち早く損失補填申請をすることを止めて、自力再建を決断した企業は復興を成し遂げているということだ。社員が一丸となり、被害者意識を捨てて努力した企業は、震災よりも多くの収入を上げているのである。個人でも、被害者意識を捨てて新たな道を切り拓いた人は、見事に復興しているのである。そして実に生き生きとして人生を送っていらっしゃる。もう原発事故から7年である。誰かを恨んだり憎んだりすることはもう止めて、自分の本当の自立を共に目指そうではないか。

 

巣立ちの息子に伝える父の言葉

今の時期になると、三人の息子が大学入学のために独り暮らしを始める際に、こんな言葉を必ず伝えていたことを思い出す。三人の息子は、それぞれ県外の大学に入学したので、アパートに入居するために、3月のこの時期に引っ越し準備をしていた。その息子に対して大事な話があると、二人きりでお互いに正座して、じっくり話をした。それは、一人の男として人間として生きていくうえで必用不可欠なことであり、息子に対して父親しか言えないことでもあった。

その話とは、女性に対する思いやりであり、女性の人権を尊重するということでもあった。身体的にも脆弱で精神的にも傷つきやすい女性に対して、男たるものはその弱さや傷つきやすさをまずは深く認識すべきだということを伝えた。そのうえで、女性の身体を傷つけたり精神的な迫害をしたりしてはならいないということを肝に銘じておくようにと言い含めた。さらには、女性の尊厳を傷つけてしまうようなことも、絶対に避けるべきだということも伝えたのである。

例えば、単なる欲望の捌け口として、女性を利用しようとしてはならないし、相手の望まない性交渉を強要してはならないこと。性行為は、お互いの同意が必要であることは勿論のこと、根底に愛情が伴わないような衝動的性交渉は避けるべきこと。ましてや、性行動には妊娠という結果がついてくるので、お互いに経済的な自立基盤がない時期に、結婚するという覚悟がなければなるべく性行為はすべきでないということ。万が一妊娠させてしまうと、学生の身分では堕胎せざるをえず、そうすれば2度と妊娠が出来なくなるような心身のダメージを女性に与えてしまうから、絶対に避けなければならないことを伝えた。

さらには、男たるものどうしても愛欲や性欲に流されてしまうこと。だからこそ、そのような欲望にも毅然として立ち向かい、欲望に負けない精神性を持つことも伝えた。例えば、お酒を飲んだ時などは、ブレーキが利かなくなることが多い。だからこそ、自分を制することができるレベルまでしか酔わないような飲酒をしなさいと言い聞かせた。飲んだ時に歓楽街を歩いていると、いろんな誘いをかけられる。くれぐれも呼び込みを使って誘い込むような飲食店には、危ない目に遭うから絶対に付いて行かないようにと釘を刺した。

世の中には、女性の身体を売り物にした商売が存在する。例えば、下着姿や裸を売りにしたようなキャバレーやパブがある。飲みに来たお客に売春をさせる店もある。ソープランドと呼ばれる場所もある。このようなお店に行くことは、絶対に勧められない。何故ならば、お金で女性の身体を自由するということは、本人も納得しているし収入を得る為とは言え、女性の尊厳を傷つける行為であるからである。女性がお金の為に自分の身を売る行為は、自らの尊厳を傷つけてしまい、自己否定感情を強化させてしまうから不幸な人生を歩むことになりやすい。それを利用する男性がいるから、このような商売が成り立っていることを認識すべきだと付け加えた。

このように、独り暮らしをする息子らに対して、言いにくいことをしっかりと伝えたのである。看護師をしているwifeは、仕事柄多くの不幸な女性を見てきた。そういうこともあって、自分の息子が女性の心身を傷つけてしまうようなことをしてほしくなかったと思われる。だから、女性の親としては言いにくいことを、男の私に言わせたのだろうと思われる。娘を持てなかった私たち夫婦だからこそ、娘さんを大事に育ててきた親御さんのことを思うと、このようなことを息子に伝えざるを得なかったと言えよう。

武士道においては、惻隠の情(惻隠の心)を大事にしなさいと教えている。会津藩では、什の掟というものがあり、その中で『弱きものをいぢめてはなりませぬ』と戒めている。つまり、社会的弱者に対しては、強者たるものはいじめたり傷つけたりしてはならないということである。「強きをくじき弱きを助ける」をモットーにして生きるべきだと思っている。息子たちにも小さい頃から、惻隠の情としての弱きものに対する慈悲の心を持つことを、教えてきたつもりである。身体的には男性よりも圧倒的に弱い女性を、外敵や攻撃する者から身を挺してでも守るのが男性である。そのことをしっかりと伝えてから、独り暮らしをさせてきた。今でも、その戒めを守ってくれているものと信じている。