グリーンツーリズムが心を癒す訳

グリーンツーリズムの発祥はヨーロッパだとされている。グリーンツーリズムとは、農業体験や自然体験を中心にする滞在型の旅行である。それは、18世紀のフランスの貴族社会に始まったらしい。貴族の城がある敷地内の一角に農家と農地を作り、貴族がその農家に寝泊まりして、農業を楽しんだのがグリーンツーリズムの始まりとされている説もある。貴族の間では、このグリーンツーリズムが大流行して、多くの貴族が体験していたと言われている。あのマリーアントワネット王妃さえも、グリーンツーリズムを体験していたというから驚きだ。

貴族の仕事は何もなくて、毎日舞踏会を開いて遊んでいたかというとそうではなかったようである。軍人として軍務に励んでいた貴族もいたし、医師や教授をしていた貴族も存在していたし、領地における農業経営をしていた貴族も少なくなかったと伝えられる。つまり、きちんと仕事をして給料を得たり農業経営などで収入を得ていたりしたらしい。かなり真面目に仕事をしないと、広大な領地や城と敷地を管理できなかったということである。さらに、貴族として公的行事への参加も要請されていて、相当に忙しかったらしい。

したがって多くの貴族が、かなりのプレッシャーにより押しつぶされそうになっていたと言われている。仕事と社会活動におけるストレスも、半端なかったということであろう。また、貴族にはノブレス・オブリージュというものがあった。ノブレス・オブリージュとは、貴族としての社会責任のことである。言い変えると、特権階級である貴族は、地域市民に対して社会貢献をするべきだという慣習があったのである。このノブレス・オブリージュの活動も、かなり負担であり、超多忙の生活を送ったことであろう。

こんなに多忙でストレスフルな生活は、貴族の心を疲れさせ折れさせてしまっていたのではないかと想像する。勿論、ストレス解消のために、スポーツや芸術活動は盛んだったと思われるが、残念ながらそれではストレスの完全解消は出来なかったのであろう。それで目を付けたのがグリーンツーリズムである。自分の城から出るのは危険なので、自分の城の敷地内に粗末な農家を建てたのである。その農家に宿泊して、農民のような質素な生活をしたと伝えられている。これでストレス解消をして、通常の業務を頑張れたと思われる。

農業がどうして貴族の心を癒してくれたのかというと、それは農業独自のヒーリング効果があるからに違いない。心を癒してくれるのは、農業しかなかったのである。農業というのは、人々が食べる物を生産する産業である。貴族がやっていたのは大規模生産農家ではなくて、自分の食べるものを細々と作ったものであろう。まさしく手作りで、愛情を込めながら農産物を生産していたと思われる。心を込めて美味しい野菜作りをしている間、嫌なことも何もかも忘れて農業に専念していたに違いない。つまり、野菜作りがマインドフルネスになっていたのである。

農業がマインドフルネスの効果があるのは、農産物生産の難しさにある。農業というのは、かなりの技術や経験を要する。その年により天候も違うし、微妙な土の中に住む微生物やPHなどの条件にも影響される。これらのことをすべて総合的に判断しながら農産物作りをするのだから、他の事を考える余地がないのである。ましてや、良い野菜が出来るかどうかをいつも気にすることになる。そして、自分の望む農産物が出来て、収穫した時の喜びは何にも替えることのできない大きな喜びである。さらに、自分で作った農産物を自分で味わうことは無上の喜びであり、至福の食卓であったことだろう。

農業の基本は土作りにある。丹精を込めて肥沃な土壌づくりをするのだが、当然土に素手で触れることになり。土というのは、大地のエネルギーが豊富に蓄積されている。土に含まれるエネルギーが、愛情を込めて土をいじる人の体内に取り込まれるのは当然である。幼児が泥いじりや砂遊びが大好きなのは、同じ理由からである。したがって、土に触れることで、折れてしまった貴族の心が癒されたのである。また、農業は自分の力ではどうにもならないことがある。天候不順や天変地異が常に影響を受ける。特権階級の貴族は、権力や権威があるから、領民や使用人を自分の思いのままになる。しかし、農業によって意のままにならない難しさと、どうにもならないことがあるということを思い知らされる。これが人間を大きく成長させるし、自分で抱えているストレスが自分の起こしていることだと知り、これもストレスを乗り越えるヒントにもなるのだ。貴族が農業を愛した理由がここにある。

 

※イスキアの郷しらかわで、農業体験をしながら心を癒しませんか。それぞれの季節により、いろんな農業体験ができます。米作りや野菜の生産を土づくりから体験できます。自分で作った野菜を自分で料理して食べることは勿論、持ち帰りもできます。ヒーリング効果の高い農業を一緒にしてみませんか。有機栽培の研修も可能です。問い合わせフォームでお願いします。

依存症や中毒から抜け出すには

統合型リゾート(IR)整備推進法(カジノ法)が衆議院を通過した。参議院でも承認されるのは間違いないであろう。現在、ギャンブル依存症が益々増加しているのに、合法カジノが出来たら、さらにギャンブル依存症は増加してしまうだろう。日本の公営ギャンブルは、依存症を起こさせて人生の破綻を生みやすい。さらに、パチンコはもはやギャンブルの領域を遥かに超えて、賭博と化してしまっている。合法カジノはギャンブル依存症で苦しむ本人と、それらを支える家族を益々悲惨な状況に追い込むことであろう。

依存症はギャンブルだけではない。薬物依存や麻薬・覚醒剤依存もあるし、アルコール依存やニコチン依存も深刻である。買い物依存や過食・拒食への依存に苦しんでいる人がいる。シンナー中毒やカフェイン中毒もあるし、砂糖と炭酸飲料(ジャンクフード)依存やカップ麺の依存症は本人が気付いていないから離脱が難しい。ネット依存、PC依存、スマホ依存、ゲーム依存に若者が取り込まれている。暴力依存(ドメスティックバイオレンス)もあるし、セックス依存症などに苦しむ人が少なくない。宗教依存やスピリチュアル依存になっている女性も以外と多い。

一旦依存症になってしまうと、本人の生活だけでなく家族の生活も波乱を招くことが少なくない。睡眠障害や食の乱れも起きるし、生活リズムが崩れるだけでなく、ウソをつく傾向により家族との関係性も破綻する場合が多い。仕事や学校を休みがちになるし、借金を繰り返すことにもなり、人生が滅茶苦茶になってしまうこともある。依存症の人がどれくらいいるかというと、ニコチン依存症だけでも1,800万人もいると言われている。アルコール依存症だって相当いる筈だし、砂糖・炭酸飲料とカップ麺依存症はおそらく2,000万人は下らないと推測される。国民の殆どが何らかの依存症になっているのではなかろうか。

これらの依存症から離脱しようと努力している人は相当いるものの、依存症から抜け出すのは非常に難しい。依存症を軽く考えている人もいる。自分が依存症だと自覚している人さえ少なくない。依存症は精神的な障害だと捉えたほうが良いし、医学的心理学的ケアーを受けたほうが良いと主張する専門家が多い。依存症になるのは性格や人間性の影響もあるが、脳の神経伝達物質と神経伝達回路の異常によるものだというのが一般化している。だとすれば、どうしたって医療によるケアーも必要だということになる。しかし、薬物治療や心理療法を受けたとしても、依存症から離脱するケースが少ないのが実情である。

何故、医学的心理学的ケアーによる効果が少ないかというと、本人が心から治そうと決断していないことと、依存症から離脱する『目的』を持っていないからではなかろうか。依存症から完全に抜け出した人の話を聞いていると、実に興味深いことを言う。自分がまずは依存症であることを深く自覚し、家族や周りの人々に迷惑をかけていると認識したと述べる。そして、絶対に依存症から抜け出すことを決断し、周りの人々にも宣言(コミットメント)したという。そして、出来得る限りの努力を毎日続けたと言うのである。

これだけでは足りないとも言える。さらに、何の為に依存症を離脱するのかの目的を持つことが必要だし、その目的に適った到達目標を設定することが肝要だと言える。さらに言えば、目的を持つには正しくて高潔な価値観が必要でもある。言い換えると、生きるためのしっかりした哲学である。正しくて高い価値観や哲学を持たないと、目的を持つことは出来ないのである。依存症によって、自分の人生を駄目にしてきただけでなく、家族を含めた周りの人々に迷惑をかけてきたのは、自分にしっかりした正しい価値観がなかったからだと認識するべきだろう。

依存症になる人は、おしなべて生きる目的を見失っている。実に低劣な目標は持っているが、人生の高邁な目的がないのである。人間という生きものは、高潔で正しい価値観や哲学を持たないと、挫折を繰り返してしまう。人間は、自分だけの損得や利益で生きると周りから信頼されない尊敬されない。家族を含めた周りの人々との関係性も希薄化しやすい。つまり、個別最適は関係性も悪化させるのである。人間は全体最適を目的にして生きなければならないし、関係性を重視した生き方が求められる。このような生き方をすれば、幸福な生き方が出来るし、依存症にはならないのである。とすれば、依存症から完全に抜け出すには、この全体最適と関係性の哲学と価値観を学び習得すればよいと言える。

 

※イスキアの郷しらかわは、各種依存症に苦しんでいらっしゃる方とその家族の支援をしています。何故、依存症になるのか?依存症になる背景、依存症になるシステムとプロセス、そして依存症からの離脱をする助言をしています。依存症から抜け出すには自然体験や農業体験も必要ですし、食事や生活習慣の改善も求められます。そして、価値観や哲学の学習が肝要です。まずは「問い合わせフォーム」から質問してみてください。

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダーという言葉がある。『沈黙の春』という環境問題を世界で最初に提言した本を著したレイチェル・カーソンが提唱した言葉だ。同名で本にもなっているし、ドキュメンタリー映画もある。日本語に訳すると、「驚きの感性」となる。何のことだか解りにくいが、自然体験においては基本となる感性である。自然を深く観察していると、驚くような景観、植物、動物などの目を見張るような美しさに出会うことがある。その際に、センス・オブ・ワンダーがないと何も感じないし、素通りしてしまうというのである。

センス・オブ・ワンダーというのは、自然体験をする際にはなくてはならない大切な感性だと彼女は言っている。何故ならば、同じ美しい花を見ても豊かな感性を持つ人と持たない人では感じ方が違うからである。登山道の傍らに咲いている可愛らしい花を見ても、感性を持たない人は見過ごしてしまう。豊かな感性を持つ人は、誰も気づかないような小さな花を見つけて心が動き、じっと見つめてその美しさを愛でる。名前も知らない路傍の花にも感動するような感受性が必要であると言っている。

レイチェル・カーソンという女性は、沈黙の春という著書で農薬使用の危険性について述べている。農薬というのは、自然界の動植物を壊滅させてしまうリスクを持つ。農薬によって小鳥たちが死滅してしまい、春がやってきても小鳥のさえずりが聞こえなくなり、もはやサイレントスプリング(沈黙の春)になってしまったと嘆いている。彼女の農薬の過剰使用についての提言は、多くの環境保護活動家を生み出した。世界の環境保護活動は、彼女の著作から始まったと言っても過言ではない。

そんなレイチェル・カーソンは、自然をこよなく愛していた。彼女は自然が豊かな場所に家を持って、家の回りの野原をいつも散策していたらしい。彼女は結婚もせず、子どもがいなかったという。時折、甥が訪ねてきて、彼と一緒に自然の中を散策していた。自然の中に咲いている花々やさえずる小鳥たちの美しさを、甥と共に楽しんでいたのである。その際に、センス・オブ・ワンダーという驚きの感性こそが必要だと言うのである。それを持っていないと、美しいものを美しいと感じないからだという。

美しいものを美しいと感じることがなければ、逆に醜いものや汚いものを見分けることも出来なくなる。ということは、大人になってから醜いものや汚いものを判別できなくなるから、そのような詰まらないものに心を奪われてしまう危険性を持つのである。レイチェル・カーソンは、大人になって過剰な欲望や本能に心を惑わされ、人間として生きるべき本質から遠ざかってしまうのは、このセンス・オブ・ワンダーが育っていないからだと言い切っている。心が疲れて折れてしまい、生きる気力を失ってしまうのも、この驚きの感性が乏しいからだと言うのである。

このセンス・オブ・ワンダーが子どもの心に芽生えるには、ただ自然体験をすればよい訳ではないと説いている。その自然体験に際して、傍らにこのセンス・オブ・ワンダーを発揮できる大人が必要だと言うのである。自然体験をする子どもたちの傍に付いていて、路傍の何気ない花の美しさに驚き、心から感動することが肝要らしい。その際、花の美しさをどのように表現するのかも大事である。ただ単に美しいと言うのではなく、何故美しいと感じるのか、美しさをどのように表現するのかが大切だと説いている。傍らにいる大人が、心が打ち震えるほどの感動をして、それが身体いっぱいに溢れるほどの表現をして、子どもの心にも響かせなくてはならないのである。

登山ガイドや自然ガイドをしている人は沢山いる。しかし、このセンス・オブ・ワンダーをこよなく発揮している人はどれだけいるだろうか。子どもたちに、センス・オブ・ワンダーの感性を育むことが出来るガイドは、そんなに多くはない筈である。まずは、自分が自然に接した時にどれほどの感動が出来るのかということと、それを子どもの心に大きく響くような豊かな表現を出来るかどうかが重要である。子どもに単に美しさを伝えるだけでなく、それが何故美しいのか、美しい心というのはどういうものかを豊かな表現力で、しかも物語性を持たせながら伝える必要があるのだ。このレベルまで子どもたちの感性を育める自然ガイドを、選びたいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、センス・オブ・ワンダーを育める自然ガイドと登山ガイドをさせてもらっています。子どものうちであればこの驚きの感性を育成しやすいのですが、若者になってからでもこの感受性を豊かに育むことも可能です。心が疲れて折れてしまわれた方は、このセンス・オブ・ワンダーを取り戻すために、いらしてみてください。自然体験をご一緒しましょう。経験豊かな自然・登山ガイドのプロが案内します。

 

波長や波動の合わない人

職場においては、不思議と波長や波動の合わない同僚や上司と巡り合ってしまうものである。仕事のパートナーは自分では選べない。会社や組織の命じられるままに、部門や部署に所属させられて、そこでいろんな上司や同僚、または部下と出会うことになる。うまが合う相手ならいいが、どういう訳か不調和をもたらすような仕事のパートナーに巡り合ってしまうのである。波長が合わないというのか、不調和の波動を感じてしまい、何となく職場が気まずくなってしまうことが多い。

このように、波長や波動が合わないのは何故かと言うと、やはり自分の持っているメンタルモデルと相手の持つそれが違っているからではないかと思われる。メンタルモデルの違いが波動にも影響するのだと思われる。波長や波動の違いを感じてしまう人は、非常に清らかで豊かな感受性を持っている。だからこそ、相手の持っている波動が乱れていることを感じてしまうのかもしれない。波動や波長が、どちらかというと穢れていると言っても過言ではない。そのように乱れ穢れた波長や波動を感じてしまうが故に、その波動に対して違和感を持つのではないかと見られる。

勿論、メンタルモデルが違うのであるのだから、言動も噛み合わないことが多い。毎日の業務遂行における嫌な言動の積み重ねが、相手との関係性を希薄化することも少なくない。どうしても許せないというか、到底受け容れられない言動が目立ち、相手が傍に来ただけで嫌悪感を持つことが多い。一度そうなってしまうと、何も言わなくても、何も行動しなくても同じ空間に居るというだけで、自分の気分が低下して元気さえもなくなってしまうことになる。同じ部屋の空気を吸うだけでも、何となく気持ちが落ち込む。

職場内にそんな同僚・上司・部下がいると、仕事がまったく楽しくないし、ましてや殆どの時間が内勤であれば、いつも一緒なので最悪である。こういう波長・波動の合わない人と仕事をする時には、どうすればいいのだろうか。まず考えられるのは、なるべくこのような人と関わり合うのを避けることである。しかし、それも限界があろう。直属の上司であれば、報告・連絡・相談は必要だし、決裁を仰がなければならない。同僚・部下でも同じチームならば、会議・打ち合わせは必要なので、避けられない。

こういう時に、相談に乗って親身になり気遣ってくれる友達や家族がいるならば、救われるかもしれない。配偶者や親しい友達だから、一応心配をしてくれるし、励ましてはくれる。しかし、その励まし方こそが問題なのである。そんなことはないよ、思い過ごしだし、心配ないよと言う人が多い。有難い言葉なのだが、勘違いじゃないのかとか、神経質になり過ぎると言われるのは、結局は自分の感覚や性格を否定されたことになり、余計に落ち込んでしまうのである。まずは、否定せずにまるごと受け止めてほしいのである。それは辛いよね、苦しいよね、居たたまれないでしょうと言ってほしいのである。解決策や解消する方法を求めているのではなくて、共感してほしいのである。

聞いた友達が自分の心と同じように感じてくれて悲しんでくれるならば、安心するし心強い味方になってくれる。そうすれば、自分で解決策も見つけることが出来よう。それを、思い過ごしだから大丈夫だよと片付けられたら、悩みは消えない。自分のことのように共感して、同じように悩んでくれる友達か支援者に支えられることで、自分自身で解決に向かうことが出来るのである。そして、何度も相談をしてその都度に受け容れてもらえれば、自分の嫌な感情の記憶を、少しずつ客観的に、そして俯瞰的に観察できるようになり、折り合いをつけて乗り越えることが出来るのである。

もうひとつ乗り越える方法としては、マインドフルネスという方法がある。職場での嫌な記憶は、自宅に居ても時々思い出してしまうし、忘れようとか仕舞い込もうとしても、時々心を支配してしまう。別の何か楽しいことや集中することをして、心を他のことでいっぱいにして、嫌なことを追い出してしまうことをマインドフルネスと呼ぶ。瞑想、座禅、写経、読経、ヨガ、フィットネス、ズンバ、難しいスポーツ、厳しい登山、ボルダリングなどはマインドフルネスに最適である。どちらかというと、若い人は静的マインドフルネスよりも動的なマインドフルネスが合っていよう。マインドフルネスにより、嫌な記憶による思考を停止させれば、自分で解決策をふと思いつくものである。なにしろ、間違っているのは自分ではなくて、仕事のパートナーのメンタルモデルとその波動が乱れ穢れているのだから、自分はそれを静観しているだけでいいと悟ることになるに違いない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、波長や波動の合わない人と仕事をする時の乗り越え方や解決の仕方について、研修を行っています。乱れている波長や波動に振り回さられたり影響を受けたりして困っている人がいましたら、相談に応じます。自分が悪い波長や波動に惑わされず、確固たる信念を持って生きるにはどうしたら良いかの支援をさせてもらいます。問い合わせのフォームから相談を申し込んでください。

ネットで批判コメントする愚か者

ネット上でアップしたブログに対して、困ったコメントを書く人がいる。先日も、労働に対する価値観について記したら、実に汚い言葉でののしられてしまった。内容からしても、けっして怒るようなことを書いた訳ではないのに、かなり激怒させてしまったみたいで、老害だと批判されてしまった。若い人の労働観はあまりにも自己中で身勝手であり、自分の損得や利害を重視した働き方は、自分自身の人間としての大切な理念を見失ってしまい、挫折してしまう危険があると提言したのだが、それが気に入らなかったようである。

自分の考え方や価値観と違うブログや書き込みを見つけると、ついつい批判をしたがるのは人間の性かもしれない。しかし、ブログというのはあくまでも私的日記である。その人の考えや思いをつれづれに綴るのであって、お金をもらっている訳でもないし、有料で閲覧させている訳ではない。読者に対して教訓を垂れている気持ちもないし、自分の考えを押し付けているのでもない。自分の考えや思いはこうなのだと、ひとつの提案として述べているだけなのである。

それなのに、自分の考えに合わないからと、攻撃してくる輩がいるのだ。もし、自分の考え方と違うならば、自分自身のSNSでブログやツィートすればよいのであって、他人のブログにコメントを残すのは、完全なネットマナー違反である。例えば、明らかなコンプライアンス違反や犯罪行為になることを書いていて、読者や社会に悪い影響を与える危険性があるというならば、注意を喚起するコメントを載せるのも許される。しかし、明らかに間違っていることを書いてあるにしても、他人を傷つけたり社会に悪影響を与えたりしなければ、スルーするのが大人の対応というものだ。

ネットの世界で、どうしてこんなにも批判的かつ攻撃的な人間が多いかと言うと、自己の確立をしていない人間が増えているからであろう。自分の悪いことや恥ずかしいことも含めてすべてを認め受け容れることが出来たなら、真の自己肯定感を持てる。しかし、中途半端な自己肯定感があるため、自分と違う他人のことが許せずについつい批判し攻撃するのだ。根底には、大きな自己否定感が存在し、マイナスの自己を認めたがらず、他人のマイナスの自己を許せないのである。つまり、多様性を受け容れられないのである。

学校や職場でいじめやパワハラが横行しているのは、同じく多様性を認めることが出来ないからである。人間は違っていて当たり前である。姿と形も違うし、感情の表し方も異なるし、考え方や価値観もその人特有のものであり、違いがあるのは当然である。このような多様性があるからこそ、人間は進化してきたのだし、社会の発展が実現したのである。この多様性を認めず、自分の考え方や生き方だけが正しいと思うのは、傲慢であろう。自分が正しく、他人の考えや生き方の価値を認めないというのは、人間としての謙虚さや柔軟性を喪失して、自己成長を阻害してしまう。

自分の価値観、それも劣悪で低い価値観に捉われてしまうと、そこから抜け出すのが難しい。だから、自分の認知や考え方と違う意見や提言に接すると、謙虚に受容出来ないし寛容になれない。正しく高い価値観を持つ人は、他人の違いを受け容れられるし許せる。学校や職場においていじめやパワハラをするような人は、間違いなく正しく高邁な価値観や哲学を持たない人である。こういう人がネット上でキレたようなコメントで、他人を批判するのである。しかも、自分の誤謬に気付かないから、いつまでもこんな愚かな行動を続けて、他人を傷付けるのである。

ネットで批判され攻撃された善良な人は、あまりにも怖い批判コメントなので、怖くなってしまいブログをアップできなくなることが多い。自分のブログが炎上してしまうのではないかと、恐怖心で身がすくむ。そんな怖れは無用である。そんな批判コメントは受け付けなければ良いのである。承認制にして、リコメせずに即削除することである。こんなマナー違反の人間のコメントは無視するに限る。丁寧に反論するのは、無駄なのである。劣悪なメンタルモデルに支配された人間は、他人の意見に耳を貸さないから、反論しても、一切聞き入れない。時間が浪費されるだけだと心得よう。とんでもない批判コメントがない、共感のネット社会にしたいものである。

女人禁制と不易流行

大相撲の春巡業で救命措置の為に女性看護師が土俵に上がり、土俵から降りるようにとアナウンスされたということが報道された。今でも、大相撲の土俵には女性が立ち入れないというしきたりが存在する。大相撲は神様に豊作を祈願した神事であることから、女性が土俵に上がると、神様が嫉妬するからという理由から土俵に上がれないとされている。確かに、伝統を守るという意味では大切なしきたりかもしれないが、大峰山への女人禁制も含めて、検討すべき時期にきているのではなかろうか。

日本百名山の中で、奈良県の大峰山だけが今でも女人禁制となっている。信仰の山であることから、女人の登山を禁止していると言われている。しかし、大峰山全体が女人禁制なのではなくて、山上ケ岳という山だけが女人が立ち入れなくなっている。大峰山域の稲村ケ岳は女人でも登れる信仰の山として立ち入りが許されている。また、大峰山域の最高峰である八経ヶ岳は女性でも登山が許されている。山上ケ岳の登山口には、女人結界の門があって、立ち入れないことになっている。

時代が変わっても絶対に変えてはならないことと、時代に即して変えなくてはならないことがある。それを、四文字熟語で不易流行と言う。この不易流行という言葉は、松尾芭蕉が奥の細道を旅する際に確立した、俳諧における大切な理念の一つらしい。この言葉は、大事なことを私たちに教えてくれている。自分の生き方を決める時にも、伝統や慣習を重視すべきか、それらを思い切って変えていくべきなのかを示唆してくれる。常に新しいことを取り入れることこそが、大切な基本原則を守り育てることになるとも言える。

絶対に変えてはいけないということが、女人禁制ということなのかを熟慮する時代になっているような気がするのは、私だけではあるまい。連日の報道番組でも、大相撲の土俵が女人禁制であるべきなのかどうかの論議が活発に行われている。外国の人から見ると、女人禁制というのはかなり奇異に映るらしい。男女共同参画社会を目指していて、男女平等を謳っている現代社会において、いまだに女人禁制が守られているというのは、実に不思議なことである。

大相撲の土俵に上がれないのは、女性が穢れているからという意味もあろう。大相撲は神事であり、土俵という聖域には穢れのある女性を上がれなくしたと思われる。もっともらしく、神が嫉妬するという理由付けは、後に作られたのではなかろうか。大峰山が女人禁制になった理由は、厳しくて危険な登山道なので、足腰も弱く危なげな女性が登って怪我をしてはいけないと登らせなかったと言われている。また、男の修験者が女性を見て心が乱れて修行の邪魔になるのを防いだ為とも言われている。

女性が穢れているという理由は、女性特有の生理と出産における出血に由来しているようである。日本では昔から血液は穢れているという認識があったらしい。女性のお腹から産道を通って、血液にまみれて生まれて来る男の子も、そういう意味では穢れていると言えるだろう。それなのに、女性だけが穢れているとされるのは、納得できないことである。ましてや、修行の場に女性がいるとその妨げになるという理由は、益々不可解である。修行するのは、この社会において様々な欲望を乗り越える人間力を身に付ける為であろう。修験者が女性に心を奪われて、修行出来ないというならば、そんな低レベルの人間では元々修行すること自体が無駄な事と言えよう。

世の中には、いろんな慣習や伝統文化があるし、古くからのしきたりも多い。そういうものは、すべて意味があって造られてきたものである。女人禁制もいろんな意味があって、作られてきたものである。それも、神や仏そのものが作ったものではなく、人間が作ってきたものである。特に、男性たちが権力や権威を守り、自分達の権益を確保するために作られた伝統的な慣習が多い。女人禁制もまた、男性が自分たちの優位性を示すためのものであるならば、けっして看過できないものである。不易流行という言葉を深く噛みしめることにより、女人禁制が時代遅れのものだということを認識できるのではなかろうか。女人禁制などという女性蔑視の考え方は、一刻も早く捨て去らないと、世界から笑いものになるに違いない。

何事もバランスが必要

森友問題が佐川氏喚問を終えて、政府自民党はこの問題を収束させたいと思っているし、野党はさらなる追求をしようと目論んでいる。貴重な国会の議論をこれだけに集中するのは、国民にとって多大な損失であろう。もっと大切な議論があるし、報道機関としても国民が他に知りたいことが沢山あるのにも関わらず、森友一色になるのも困る。とは言いながら、文書改ざんは今後の行政の信用に関わる大問題であるから、再発防止策を講じない限り、ないがしろには出来ないことである。

それにしても、こんな森友の不祥事や加計学園の問題が何故起きたのであろうか。それは、安倍一強政治の傲慢が招いたのではないかと思う人が、とても多いように感じる。内閣人事局が制定されたのも、官邸に忖度する官僚ばかりになってしまったのも、あまりにも内閣と官邸の力が強大になってしまったからである。どうして安倍一強になったのかというと、別な視点から見ると、安倍総裁の他に有力な政治家がいなくなってしまったことと、野党がだらしないということに尽きるであろう。

過去の歴史を紐解くと、独裁政治が長く続くと政権内部から崩壊が起きていることが殆どである。国の政治もそうであるが、県や市町村においても首長が絶対的な権力を持ってしまうと、内部から腐敗が起きてしまうケースが実に多いのである。組織や企業においても、トップがあまりにも大きな権力を持ってしまうと、イエスマンだけの部下に成り下がってしまい、内部崩壊を起こしてしまうことが多い。現代においても、米国、中国、ロシア、北朝鮮などで国民の意思を無視した独裁政治が行われていて、内部崩壊が始まりつつある。

強力なリーダーシップを発揮できることで、政権運営や企業経営が上手く行くケースも少なくない。リーダーシップのあるトップだけが、低迷する現状を解決できるのではないかと、そのようなリーダーを求めたがる意思が働く。だからこそ、国政選挙においてもこのようなリーダーを求める国民が、投票するのであろう。しかし、あまりにも強いリーダーシップを持つ権力者と、それに対抗する勢力があまりにも弱すぎると、微妙なバランスが崩れてしまい、『裸の王様』になる例が多く、やがて内部腐敗や崩壊が起きる。

このようなケースは、家庭内でも起きる。あまりにも父親が家庭内で大きな権力を持ってしまうと、妻や子は何時も父親の顔色をうかがうような暮らしをし兼ねない。夫婦関係においても、どちらかがあまりも大きな力を持って相手を支配してしまうと、横暴な行為を許してしまう。親子関係でも、親が子どもの尊厳を認めず、すべて親の言いなりになる子どもにしてしまうと、子どもの自立を阻害してしまうことになる。夫婦の相互自立や子どもの自立がされないと、やがて家庭というコミュニティは崩壊することになる。

家庭内が微妙なバランスによって成り立っていれば、一方的に指示して従うというような関係になり得ない。お互いの人間としての尊厳を認め合うことで、自立がしやすい。だから、経済的にも精神的にも自立するには、一部に力が集中することを避けて、パワーバランスを保つことが必要であろう。男性は女性よりも腕力が強い。暴力によって相手を支配し、バランスが保てなくなることは絶対に避けなければならない。ある程度のリーダーシップが必要であろうが、微妙なバランスを保てるようなお互いを尊重する対話こそが根底に求められる。

一人の人間においても、どちらかに偏らないバランス感覚も必要なのではなかろうか。政治的に右翼的な考え方と左翼的な認識のどちらかに偏向してしまうと、世の中の真実が見えなくなってしまう。政治的におけるバランス感覚があれば、耳に心地よいマニュフェストに騙されることもないであろう。人間性においても、あるべき姿を求めて努力する姿勢と共に、あるがままの自分を好きになる気持ちも大切であろう。条件付きの愛を注ぐ男性性も必要であるが、無条件の愛を与える女性性も大事である。これらのバランスを保つことは、『中庸』と呼ばれている。政治的な中庸が保てれば、森友加計問題も起きず、国民ファーストの政治が実現するに違いない。

 

心を真に癒せるのは自分だけ

ヒーリングセミナーとか癒しのセッションなどが盛んに行われている。または、スピ系ヒーリングとか、自分を神と名乗って人々を癒すセッションなどが各地で開催されている。一時的な心の平穏や安心を得られるという効果があるのは承知しているし、それをきっかけにして自分自身を深く見つめて、自分の精神的な成長に繋がるような努力をするというならば、受講する意味があろう。しかし、これらのセミナーや勉強会を受けるだけで、心が癒せると思い込ませるだけならば、こんなセミナーを受講するのは百害あって一利なしである。

オオミスミソウ(雪割草)新潟県角田山

スピ系や神系の考え方をすべて否定する訳ではない。なるほどと思えるようなことは少なくない。心の癒しのきっかけや自分との対話への導入部として活用するというならば、否定するものではない。しかし、自分の深い学びや心の成長に向かわずに、神や霊などを信じるだけで、自分が救われるという安易な方向に向かわされてしまうケースが多いのが気になる。ましてや、自分の心を誰かとか何かによって救ってもらえるというように、勘違いさせてしまうのであれば、これらのヒーリングセミナーは絶対に受講すべきでない。

それにしても、こんなにも世間ではヒーリングセミナーが流行しているということは、それだけ心の癒しを多くの人が求めているという証左でもあろう。誰かによって癒されたい、何かを信じることで自分が救われると思い込んでいるのかもしれない。または、このグッズを自分の周りに配置すれば癒される、このパワースポットをお参りするだけで救われると信じているのである。誰も支援してくれないし助けてくれないと思っているからこそ、何かにすがりたいというのも頷ける。

ヒーリングセミナー、占いとかスピ系の癒しセッションなどを受講するだけで、傷ついてしまった心が真に癒されることはない。ましてや、PTSDやパニック障害、メンタル障害に陥り苦しんでいる方々を、完全に治せる筈がない。百歩譲って、自分を傷つけたいと思うような事態に追い込まれている人を救う、緊急避難的な効果は認められかもしれないが、完全に癒されることはないと認識すべきであろう。冷たい言い方かもしれないが、自分の心を真に癒せるのは、自分しかないのである。

一部の医療機関では、薬物治療をなるべく用いないで精神療法や心理療法を駆使して、完全治癒を目指している。しかし、殆どの医療機関では漫然と薬物治療だけをして、根本治療を怠っている。真に心を癒して完全治癒の効果を上げているカウンセラーもあまり見当たらない。自分の心は自分自身でしか癒せないし、何故自分がメンタル障害になったのかを完全に認識させてくれる医療機関や福祉機関は殆どない。だから、メンタル障害の完全治癒のケースが極めて少ないのであろう。

自分で自分の闇の心を深く見つめ、自分の間違った認知傾向とその基になっている低劣な価値観に気付いて、自分の考え方と生き方を自ら変えた人しか、自分を治せないのである。何度も繰り返すが、傷ついて折れてしまった自分の心を『魔法の杖』で治してくれることなんて存在しない。残念ながら、ヒーリングセミナーや神系セッションに何度も参加しても、無駄である。高い参加料や受講料は、ドブに捨てるようなものだと言ってよい。スピ系グッズだけで問題が解決するなんて、あり得ないのである。スピ系の皆さんにお叱りを受けるだろうが、自分を肯定させるセミナーだけで、人は癒せないと心得てほしいのである。

自分を真に癒せるのは自分しかいないというと、突き放しているように誤解されてしまうかもしれない。けっして、見捨てている訳ではない。自分を真に癒すのは自分だとしても、それを見守り個別支援する人は必要であろう。完全に自分だけで自分の心を癒してきた人も居ない訳ではない。しかし、それは実に稀なことであり、やはり何らかのサポートは必要であろう。心が傷ついた方にそっと寄り添い、本心から共感し、苦しくて悲しい感情を自分のことのように感じ、まるごと受け止めて寛容し受容し、例え間違っていたとしてもその物語に寄り添うことが必要である。その間違った物語に本人が気付き自ら捨て去るように、否定することなく対応する人が求められる。そして、新たな正しい物語を再構築できるように支援してくれる者がいてくれたなら、自分で真に心を癒せるのに違いない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、心を癒すための治療はしていません。しかし、農業体験や自然体験をしながら自分の傷ついて閉ざしてしまった心を開くことが可能になり、自分の心を見つめ直すきっかけ作ります。さらに、クライアントの相談相手になります。森のイスキアの佐藤初女さんのようにただお話を伺うだけです。ナラティブアプローチのように、自ら古くて間違った物語(ドミナントストーリー)を破壊して、新たな正しい物語(オルタナティブストーリー)を創るお手伝いをさせてもらいます。自己マスタリーやシステム思考の学びがその新しい物語を創る支援になりますので、その研修も受講してもらいます。

減薬・断薬してくれる医師こそ本物

医師による診療・治療を継続的に受けている人は、相当な割合で存在している。高齢者の半数以上は何らかの治療を受けているし、生活習慣病で治療を受けている中高年者は多い。ましてや、最近は若者たちもメンタル障害で治療を受けている人も少なくない。その治療内容はというと、殆どが定期的な検査と診察、そして投薬治療である。その投薬治療は、根本治療ではなくて対症療法である。したがって、その投薬治療は緊急避難的に行われるものであり、徐々に減薬・断薬に向かうべきものであろう。

ところが、実際に減薬・断薬をするケースは非常に少ないのが実情である。一度飲み始めた薬は増えることはあるものの、減薬・断薬に積極的に取り組んでいる医師は、極めて稀である。辛くて苦しい症状を抑える対症療法の薬は、患者にとって有難いものである。患者にとっても、減薬・断薬をするということに対するハードルは高いと思われる。減薬・断薬によって症状が再発しないかと、不安になるのは当然である。ドクターも、減薬・断薬によって症状が悪化すれば責任を問われ兼ねない。減薬・断薬に積極的になれないのは当たり前であろう。

対症療法の投薬で問題になるのは、薬を長期間飲用することにより、人間本来の機能の低下が起きてしまい、死ぬまで薬の投与が続くことである。だから、基本的に対症療法の薬というのは、長期間化の引用は避けなければならないということが大原則である。したがって、対症療法の薬物治療で症状が落ち着いたら、疾病の原因を探り出し根本治療をする必要がある。根本治療をしながら、徐々に減薬・断薬をして完治させるというプロセスを辿るべきである。ところが、外科的な治療は根本治療をするケースがあるものの、内科的な治療においては、根本治療をするケースは殆ど見当たらない。

対症療法の薬物治療を漫然と続ける医師が非常に多いのには辟易する。特に精神科のドクターは、減薬・断薬するどころか、徐々に増やし続けるのが現状である。量も種類も増やし続ける。抗精神薬の副作用として、便秘、低血圧、肝機能障害、腎機能障害、貧血、意欲減退などが起きて、その対症療法の薬物治療も行われるので、膨大な薬を飲まなければならなくなる。さらに問題なのは、脳神経に直接作用する長期間の薬物治療をすると、薬物の血中濃度が下がると禁断症状が起きてしまい、依存性が高まることで益々減薬・断薬が益々困難になってしまうことである。

世の中には、対症療法の薬物治療だけでなく根本治療を実施している医師も存在する。小西先生や本間真二郎先生は、広く知られている。真弓定夫先生も、薬物治療をしないで治療していた名医である。他にも全国には根本治療に取り組んでいらっしゃる医師が存在する。対症療法の薬物治療は診療時間もあまり必要ないし、多くの患者を扱うことができる。根本治療をする医師は、問診や診察、生活指導を丁寧にするので、長時間の診療時間が必要で手間がかかるので、多くの医師は根本治療をやりたがらない。

なにしろ、日本の医療保険制度は、対症療法を基本にして作られている。根本治療をすると、経営的にも困難になるのである。ましてや、根本治療をし続けると患者さんがいなくなるのだから、収入が激減する。真弓定夫先生のクリニックは、最初は多くの患者さんで賑わっていたが、殆どの患者さんが完全治癒して、再発もしなくなったから閑古鳥が鳴いていたという。根本治療という療法を志向しない医師が多いのは、こういう理由もあるからであろう。経営が成り立たないクリニック経営をする医師が居ないのは当然である。減薬・断薬をしたがらない要因はここにもあるのだ。

減薬・断薬に取り組む根本治療をしているクリニックが経営困難に追い込まれて、廃院に追い込まれているかというと、そうではない。本間真二郎先生のクリニックは、評判を聞いて連日大盛況であるし、全国各地から講演依頼が舞い込んでいる。本間先生の著作はベストセラーになっている。統合医療の小西先生のクリニックも、難治性の患者さんが大勢押し寄せている。出来ることなら、減薬・断薬をしてくれる医師を選びたいものである。もし、接客的に減薬・断薬をしてくれない先生なら、自分から減薬・断薬を申して出てみたらどうだろうか。拒否されたら、ネット情報で減薬・断薬をしてくれる医師を探し出せばよい。減薬・断薬をしてくれる先生こそ、本物の医師であると言えよう。

ゴルフで記憶力アップ

国立長寿医療研究センターでは、65歳以上の高齢者にゴルフを体験させたら、記憶力の向上につながったという発表をした。65歳以上の高齢者でゴルフ未経験者106人を選び、そのうち半数の人に週に1回以上のゴルフの練習かラウンドをしてもらった。残り半数の人はゴルフをしない普通の生活を続けた。その生活を半年間続けてもらい、事前と事後に記憶力のテストをしてもらったら、ゴルフをした人のほうが項目別検査で平均8~12%の向上が見られたというから驚きだ。

以前からゴルフをやると記憶力向上になるとか、認知症の予防に効果的だとは言われてきた。確かに、ゴルフをやる高齢者は元気な人が多いし、計算力や記憶力の良い人が多いように感じる。特に高齢になってからゴルフを始めるという人は、前向きな考え方の人が多いし、運動習慣を持っている人だからと思っていた。ところが、今回は統計学的というか、実際に実験によって検証されたというのだから、ゴルフが脳にかなり良い影響を与えるということが科学的に実証された形だ。

ゴルフ人口がかなり減少していて、どのようにしてゴルフ愛好者を増やすのか、ゴルフ協会は苦労しているという。それで、国立長寿医療研究センターに協力して、このような検証実験をして高齢者にもゴルフを楽しんでもらう努力をしたのだろうと思われる。本当は、若い人にゴルフを楽しんでもらいたいし、少年少女のゴルフ人口を増やすことをゴルフ協会は目論んでいる。今回は、高齢者を対象にした検証実験を実施したのだが、なかなか粋なことをゴルフ協会はしたものである。

他のスポーツでもある程度の記憶力向上や認知症予防効果があると思われる。しかし、ゴルフほどの効果はないかもしれない。何故ならば、ゴルフというスポーツは他のスポーツよりも遥かに頭(脳)を使う運動だからである。ゴルフは、1ラウンドするのに約4時間から5時間要する。その間、実際にショットやパットをする時間は、事前の準備も含めてわずか15分から20分だと言われている。それ以外の時間は移動や歩行をしていて、その間ずっと自分のショットやパットのことを考えているのである。

脳(頭)は使えば使うほど、脳の機能が高まってくると言われている。こんなにも頭脳を使うスポーツは、ゴルフの他にはないと思われる。他のスポーツで、こんなにもインターバル時間の長いスポーツはないからである。ゴルフはメンタルスポーツとも言われていて、心のあり様が即プレーに反映する。したがって、技能だけ磨いてもスコアーは良くならない。ゴルフには戦略性が必要であるし、メンタル面における自分との葛藤にも勝たなくてはならないのである。こんなにも複雑なスポーツは他にないと確信している。

さらに、ゴルフはアウトドアのスポーツであり、風や雨、気温などにも影響される。しかも、芝生の状態や樹々などの配置にも考慮と対応が必要である。刻々と変化する自然に、どう対応するかが問われているスポーツと言えよう。そして、自然のせいにすることが一切許されていないし、すべては自分の責任なのである。対戦型のスポーツであれば、相手の力量が上だったと言い訳できるが、結果は自分で正直に受け止めるしかないのである。そういう意味では、責任性、主体性、自発性、自主性に基づいたスポーツだと言える。仕事においてもアクティビティが要求されるが、まさしくゴルフというスポーツはそれが重要な要素なのである。他の要因に責任転嫁できず、すべて自分の責任にせざるを得ないのがゴルフなのである。

人間という生きものは、とかく責任逃れをしたり、困難なことから回避したり、誰かに依存したりするものである。ところが、ゴルフだけはそれらのことが一切許されないというルールの中で行うスポーツなのである。だから、人間性とか人間力が磨かれるスポーツであるとも言える。頭脳を使うことで、その能力向上が出来るということも解った。さらに、一緒にラウンドする人との洒落た会話も楽しむことで、社交性も向上する。ゴルフこそ、高齢者に相応しいスポーツだと言える。高齢者のうつ病予防にも効果があるし、メンタル障害になられた方の社会復帰訓練にもおおいに効果がある筈である。高齢期になって、意欲が湧かないという人にも好適なスポーツとして薦められる。

 

※イスキアの郷しらかわでは、不登校、ひきこもり、メンタルで休職や離職された方々が、グリーンツーリズム体験によって社会復帰を目指すことをサポートしています。利用者の農業体験、自然体験は勿論のこと、ゴルフの練習やラウンドの指導(無料)などもいたします。ゴルフ用具の無料貸し出しもしますので、是非お問い合わせください。