スポーツの指導は科学的手法で

日大アメフト部の不適切指導が大変な問題になっているが、そもそも内田監督という人物が、指導者として相応しかったのかということが話題になっている。至学館大学の栄和人監督も同じような批判にさらされた。どちらもそれなりの成績を残しているものの、指導される側からは、その指導法に疑問を呈されている。彼らの指導法に共通しているのは、精神論や感覚論に偏っているという点だ。そして、体力の限界を超えるような猛練習を課しているのも特徴的である。確かに日本のトップレベルを保つにはハードな練習が必要なのは理解できる。しかし、自らが求めた練習ではなくて、嫌々やらされているという感覚ならば、そんな練習はするべきではない。

旧来のスポーツ指導においてもてはやされてきた精神論が、まだ横行していることに驚く。内田監督と栄監督はあまりにも精神論に固執していたように思える。新しい技術や戦略的部分はコーチが補佐していただろうが、基本的な組織全体の科学的な管理手法については、疎かったように感じる。厳しい練習に耐え抜いた選手だけが結果を残せるという考え方は間違っていない。だとしても、選手の心が折れてしまうような押し付けの練習は逆効果である。科学的な根拠のないやみくもな練習など、まったく役に立たないのである。

スポーツにおける心身の鍛練において、根性を示せ、気合で乗り切れ、精神を鍛えろなどと前時代的なことを平気で言う指導者がいる。内田監督や栄監督などは、その部類であろう。特に日大のアメフト部は、深夜時間まで及ぶような長い練習を部員に課していたというから、考えられない横暴ぶりである。精神論、根性論、気合論で結果が残せると本気で思っていたなら、時代錯誤と言えよう。スポーツにおいては、科学的・論理的にどうすれば選手が成長し向上できるのかは、ほぼ解明されている。ましてや、メンタル面においても、どうすれば心が平静になって実力が発揮できるのかも、科学的に説明できるのだ。

今は科学的に実証された、効果の高いトレーニング方法が確立されている。最新のフィジカルトレーニングは、短い時間でも必要な筋肉や体力が作られるし、持久力を上げるのに長い時間走るだけのトレーニングなんて、時代遅れになっている。メンタルトレーニングも科学的な手法が用いられる。心理学的に、そして脳科学的に検証されている手法でメンタル面が強化されている。精神論や根性論なんて、今の青少年は誰も信用していない。科学的合理性の教育を受けてきた青少年は、科学的に正しいのか正しくないのかで取捨選択するようになっているからだ。

最近のスポーツ指導者、とりわけ日本トップレベルにある高校や大学の指導者たちは、自然科学を駆使した指導だけでなく、社会科学を活用した指導法を取り入れている。チームワークやリーダーシップ、または自主性や自発性を選手たちに発揮させるには、どのような指導法が良いのかを研究しているのである。最新の経営管理学の理論を学んでいる。チームをどのようにマネジメントしていくかが問われているからである。チームをまとめきって、部下との信頼を得ていなければ結果を出せないからである。

日大のアメフト部は、監督を神格化してコーチと部員を完全に支配しようとした。部員たちに何も考えさせなくして、監督の手足として動く選手だけを重宝した。部員たちが自分達で考えたり、自主的に行動したりすることを何よりも嫌ったのである。戦略を立てるのは監督であるが、試合中に刻々と変化する情勢に臨機応変に自主的に自発的に動ける選手が必要である。瞬間的に対応するには、常日頃からアクティビティが養成されていなければならない。アイコンタクトでお互いが何を考えているのか理解できる関係性が必要である。監督にすべて支配され制御された選手は、いざという時に役に立たなくなる。

最新の科学では、スポーツのチーム全体をひとつのシステムとして捉えている。そのシステムが効率的に機能するには、システムの構成員であるひとりひとりの選手が、全体最適を目指して主体的に動くことが求められる。監督やコーチから、いちいち指示されることなく、自主性を持って行動できるように自己組織化されていなければならない。それぞれの選手たちが、ネットワークを組んでそれぞれが過不足なく連帯性を持って行動出来た時に、最大の効果や成果を発揮できるのである。その為には、選手どうし、選手と指導者、指導者どうしの関係性が大事である。その豊かな関係性を築くには、自己組織化されたシステムという考え方をチーム全員が認識しなくてはならない。スポーツの指導は、精神論でなく科学論でするべきだ。

 

スポーツ指導者に必要な価値観

日大のアメリカンフットボール部の選手が、考えられないようなラフプレーをしたことが話題になっている。そして、その選手にとんでもない指示をしたと言われているのが内田監督である。アメフトの大学日本一を決める甲子園ボールで、昨年優勝したチームである。そんな名門チームの監督が、どうしてこんな指示をしたのかが不思議である。監督と言えば、部員は我が子のような存在である。その可愛い部員に、あんなにも辛そうな記者会見をさせるなんて考えられない。スポーツの指導者である前に、人間としてあり得ない対応である。

最近のスポーツニュースを賑わせているのが、スポーツ指導者の不適切な対応である。至学館大学の女子レスリング監督で、元日本代表のヘッドコーチでもあった栄和人のパワハラ事件があったのは記憶に新しい。過去には近大のボクシング部でセクハラ事件もあったし、柔道日本代表でのパワハラ事件も世間を賑わした。高校や大学の部活において、各種ハラスメントだけでなく暴力事件・体罰事件は数多く発生している。義務教育である中学校の部活においてさえ、指導者による体罰や暴言はなくならない現状にある。どうして、スポーツの指導者というのは、こんなにも低レベルの人間が多いのであろうか。

スポーツの指導者、それも日本のトップレベルのチームの監督やコーチは、常に勝利という結果が求められるのは当然であろう。ましてやナショナルチームの監督・コーチであれば、多くのファンが勝つことを期待するが故に、勝ちにこだわざるを得ないであろう。結果が出なければ、サッカー日本代表監督のように即座に更迭される運命にある。だとしても、結果を求めるあまり、スポーツをすることの本質や目的を見失ってしまうことが多いのも事実である。スポーツをするのは何のためかという本質を忘れてしまっている指導者が多いのは情けない。

ナショナルチームは別として、中学・高校・大学においてスポーツをする目的は何であろうか。またはスポーツ少年団の指導者は、何のために子どもたちの指導をしているのであろうか。勝負事なのだから勝ち負けにこだわりたくなるのは理解できる。だとしても、結果だけにこだわってしまうから、パワハラや体罰や暴言などの不適切指導が起きてしまうのではないかと考えられる。もう一度青少年にスポーツの指導をする意味を考えてほしいものである。スポーツで結果を出すということは、勝つということであろう。しかし、これはスポーツをする目的ではない筈である。ましてや、青少年にスポーツの指導をする目的は、勝つことではないことではないのは明白である。

目的と目標はまったく違うということを理解している人は、意外と少ない。特にスポーツの指導者は、目的と目標を混同しているケースが非常に多い。目標とは、目的を実現するための具体的な指標のことであり、目的とは正しい価値観や真理に基づいて設定する究極の進むべき抽象的な概念のことである。だから、目標はあくまでも目的達成のためのランドマークでしかない。スポーツにおいて、優勝するとか優秀な成績を収めるというのは、あくまでも目標であり、目的ではない。それなのに、勝つということを目的化してしまっている愚かなスポーツ指導者が存在する。それが日大の内田監督であり、至学館大学の栄監督でもある。だから誤った指導をしてしまうのである。

スポーツをする目的、またはスポーツを指導する目的は、スポーツを通して健全なる精神と肉体を獲得できるようにすることと、チームワークや人間関係の大切さを学ぶことである。さらに、苦難困難にも挫けない精神性や忍耐力を身に付け、主体性や責任性といった大切なアクティビティを育てることである。やがて世の中や人々の為に貢献できる人間性と人格をもつ人間として育成することが、スポーツをする目的である筈だ。指導者は、この理念を忘れてはならない。勝負にこだわると、この大切な目的を忘れてしまい、青少年の健全な育成が出来ないばかりか、日大アメフト部のような不祥事を起こすことになりかねない。

さらに言うと、これらのスポーツをする真の目的を設定するには、普遍的で真理に添った正しい価値観を持つことが必要不可欠である。この正しく高潔な価値観を持つ人間が、日大や至学館のトップや理事に居なかったのであろう。だから、とんでもない指導者を責任者にしたのであるし、問題が起きた際に適切で正しい措置を取れなかったのである。スポーツの指導者たる者は、青少年の健全育成の為にスポーツの指導をしているということを忘れてはならないし、勝つことを目的にしてはならない。だからこそ、指導者たる者、真理に基づいた正しく高い価値観や哲学を持つための学びを怠ってはならないのである。

 

和食文化継承の担い手

和食文化は世界遺産にもなるくらい素晴らしいものであり、欧米でも和食の良さが認識されて、人気を博している。日本が世界に誇る文化のひとつであるから、この文化は後世にも引き続き継承していきたいものである。和食文化を継承する担い手の一番手と言えば、日本料理店の板前さんとその調理補助者であろう。寿司店や割烹の板さんや旅館・ホテルの料理長が和食文化の継承者であるのは間違いない。しかし、そもそも和食とは特別な料理ではなくて、日常的に家庭でも食されているものである。故にその和食文化を継承しているのは、いわゆる『お母さん』でもあると言える。

ところが、若いお母さんがまともな和食を作れなくなっているのである。以前は、嫁入り前の若い女性は母親から和食の基本を叩き込まれたものである。または、嫁入り修業として料理学校に通い、家庭料理の基本を習ったものである。ところが、今時そんなことをしている若い女性は殆ど居ない。必要だと思っていないのだから当然だ。スーパーに行けば惣菜は豊富に陳列してあるし、インスタント製品や冷凍食品が用意してあるから、簡単に食事の用意が出来る。丁寧に出汁を取って作る味噌汁とか、煮物や漬物などの手作り惣菜を作れなくなっているのである。

洋風料理や中華料理は、ある程度のレベルの料理なら作れるが、本格的な日本料理を作れる若いお母さんは少なくなってしまっている。つまり、若いお母さんが和食文化の継承者になり得ていない。これでは、和食文化はごく一部の専門家にだけ残るようになってしまうのではないだろうか。和食は家庭料理においてこそ、その存在価値があるのに、家庭料理に和食がなくなってしまったとしたら、日本人の肉体と精神はどうなってしまうのであろうか。

日本人の肉体と精神は、和食を食べてこそ最適な状態に保つことが出来るように遺伝子が進化してきたのである。日本人が和食をあまり食べなくなってから、生活習慣病を始めとして心臓血管障害や脳血管障害などが増加してきた。日本人の多くがメタボになったのも食事が洋風化した影響が大きい。各種のアレルギー疾患が増えたことや、悪性腫瘍が増加したのもその一因だと考えられている。発達障害や気分障害などメンタル面での障害が増えているのも、本格的な和食から遠ざかったせいだと言う専門家がいる。

お母さん以外でも、和食文化の継承を担っているケースもある。一家のお父さんが和食を極めていて、おふくろの味ではなくて親父の味を子どもたちに伝えている例もある。自分も、会津の母が作っていた伝統的な郷土料理を継承している。三人の息子たちに和食を中心にした食事を提供していたから、確かな味覚が育った筈だ。やがて、親父の作った料理を再現してくれるだろう。娘がいなかったが、結婚した長男は時折台所に立っているというから、親としても嬉しい。お母さんに限定することなく、和食文化を誰かが継承してほしいものである。

最近、幼児教育の現場で伝統的な和食文化を継承しているのを知って驚いた。福岡県にある高取保育園では、毎日本格的な和食の給食を提供している。園児たちが味噌を手作りして、それで作った味噌汁を毎日飲んでいる。玄米ご飯、味噌汁、納豆、旬の野菜で作った惣菜を提供している。化学調味料や保存料などの添加物が一切入っていない、自然食である。幼児期にこのような本格的和食を食べていれば、正常な味覚が育つから、大人になっても和食を食べ続けるに違いない。神奈川県の座間市にある『麦っこ畑保育園』も、同じように自然食の給食を出している。このように幼児教育で和食文化を継承しているというのは、非常に心強い。

さらに大学教育の現場で、和食文化を継承する努力をされている人がいる。郡山女子大学で、管理栄養士を育成している亀田明美准教授である。学校給食の栄養士とか、大学や企業の食堂を管理する栄養士などを養成している大学の現場で、和食の大切さを訴えている。亀田女史は、大学で教鞭を取りながら、プライベートで学校給食を見直す活動もされている。その活動に賛同した大花慶子さんたちと一緒に、学校給食に伝統的な和食や自然食を取り入れる運動を展開されている。多くの若いお母さんたちが、この運動に参加している。このように、いろいろな和食文化継承の担い手が現れている。これで日本の和食文化の素晴らしさが社会的に認知されて、和食の文化が広まっていくに違いない。

※イスキアの郷しらかわでは、伝統的な和食を提供しています。玄米ご飯(無農薬・有機栽培)、玄米餅、手作りの味噌で作った味噌汁、発酵食品、旬の野菜(無農薬・有機栽培)など自然食を中心にした食事です。4日~5日滞在すると、和食の良さを実感します。食習慣を改善できますし、本格的な和食の作り方を学べます。是非、ご利用ください。問い合わせフォームからご相談ください。

映画『いただきます』から学ぶ和食の大切さ

園児たちが自ら味噌づくりをする保育園がある。そして、その味噌で作った味噌汁を毎日の給食で保育園児は食べる。小泉武夫東京農大名誉教授は、この保育園の子どもたちを日本一しあわせな子どもたちだと言う。この保育園は高取保育園と言って、開園時からずっと西園長が食育を続けてきた。この保育園児たちの味噌づくりと日常を描いたドキュメンタリー映画が『いただきます』である。涙無くしては見られない感動の記録映画であり、多くの学びを与えてくれる秀作である。

数年前に福岡県でインフルエンザが猛威を奮い、学校閉鎖や学級閉鎖が相次いだ時期がある。この時でも、この保育園では感染による体調不良で休む保育園児は僅かだったという。重度のアレルギーやアトピー性皮膚炎の園児も、数か月登園すると治ってしまうというからすごい。この園児たちは保育士が指導している訳ではないのに、冬でも半そで半ズボンである。おそらく基礎体温が高いのであろう。当然、免疫力が高くなるから風邪もひかないし、病気にならない。それもすべてこの保育園の給食と教育方針の賜物であろう。

この保育園では、園児たちが毎月100㎏の味噌を作る。そして、その手作り味噌で味噌汁を作り、毎日園児たちが飲んでいる。毎日の給食の献立は、玄米ご飯、味噌汁、納豆、旬の野菜料理である。食養生、医食同源の考え方に基づいて、伝統的な和食が作られている。園児たちは、梅干し、沢庵、高菜漬けさえも作ってしまうらしい。給食の定番であるハンバーグ、鳥の唐揚げ、焼き肉、とんかつなどは勿論、肉、乳製品はまったく出さない。あくまでも発酵食品と玄米が主に提供されている。

小泉武夫東京農大名誉教授は、この映画の中で和食の大切さを説いている。日本人のDNAは、農耕民族の長い歴史の中で、味噌や納豆などの発酵食品、玄米、大豆・野菜類に適応するように進化してきたという。だから、狩猟民族や牧畜民族としての歴史がある欧米人のDNAとは根本的に違っている。欧米人の食べるような肉や乳製品を日本人が食べたら、不適応を起こすのは当たり前だと力説する。日本人に生活習慣病やアレルギー、またはガンが多発したのは、間違った洋食の食生活をしたせいだと断言している。

小泉名誉教授は、こんなことも言っている。国際フリーラジカル学会で、活性酸素やフリーラジカルを無害化させてしまう抗酸化作用の強い食べ物は何かを調査したという。その結果、第1位が味噌で、第2位がテンペ(インドネシアの発酵食品)、第3位が納豆だったという。酸化作用が強い活性酸素やフリーラジカルは、各種感染症や心疾患、脳疾患などを招く。悪性腫瘍が発生するのも同じ原因からである。日本人の伝統的な和食がどれほど健康によいか解ろうというものだと力説している。伝統的な和食に立ち返ることを勧めている。「祖先の道へ還ることは退化ではない」と説く。

高取保育園では、「知育・体育・徳育の基本は食育にある」という教育理念を実践している。給食を伝統的な和食にしているだけでなく、まるで禅寺のように園児たちが掃除をしている。保育園内の雑巾がけを毎日園児たちが笑顔でしているのが日課であるし、トイレのスリッパや玄関の靴を揃えるのは園児たちが率先して行う。園児たちに座りましょうと言うと、自然と正座をする。無駄に騒いだり動き回ったりする園児がいない。おそらくこのような伝統的な和食を食べていると、発達障害さえも和らいでしまうのに違いない。幼児教育に対する功労を認められて、西園長は2度も勲章を授与されている。

この『いただきます』を観て一番驚くのは、園児たちの食事風景である。給食を食べ残す子どもが皆無なのである。それも、米一粒だって残さない。おかずもすべてたいらげる。ひじきの小さなひとかけらだって、丁寧につまんで食べる。けっして上品とは言えないが、器を舐めまわして食べる園児までいる。食べ物を粗末にしないことを徹底している。なによりも驚くのは、食べる時の園児たちの笑顔である。本当に美味しそうに食べている。味噌汁を飲み終わった後の満足そうで屈託のない笑顔は、私たちを癒してくれさえする。食べることの楽しさを、大人の我々に教えてくれる素晴らしい映画だった。

素晴らしい和食文化を後世に残そう

和食の文化が世界遺産として登録されたが、伝統的な和食文化は廃れつつある。一般家庭の食事において、伝統的な作り方をした日本料理がなくなりつつある。世界的に見れば、和食の評価が高まりつつあるにも関わらず、逆に日本では和食の文化が退化しているというのは皮肉なものである。一般家庭の食卓では、子どもたちが喜ぶ西洋料理が並んでいるし、弁当のおかずも同様である。このままでは、和食の文化が継承されていかないのではないかという危惧を持つ人も少なくない。

世界的に和食文化がもてはやされているには、大きな理由がある。まずは、和食というのが健康に良いという点である。欧米の食事は、高カロリーの高脂肪高蛋白質が基本スタンスとなっている。肉食文化であるから、大量の脂質と動物性蛋白質を取り過ぎる傾向がある。当然、高脂質血症になるし肥満傾向になる。心臓血管障害や脳血管障害になりやすい。不健康な生活をなんとか解決するには食生活を見直さなくてはならないと、欧米の高教養の人々やセレブの間では日本食がブームとなっているのであろう。

和食というのは、見た目の派手さはないものの、その美しさは折り紙付きである。繊細な味を味わうことが出来るし、塩味や甘味を加えることを極力減らして、素材そのものの旨味を感じることが可能になる。当然、高血圧症や高脂血症にはならないから、理想的な健康食となる。少量の食事でも満足がいくようになっているから、肥満にもならないし、高血圧や動脈硬化を防ぐことが可能になる。繊細な味覚を育ててくれるので、ファストフードやジャンクフードの不味さを感じて、それらに依存することがない。

このような素晴らしい和食文化を後世まで残したいと思うのは、日本人として当然なことである。ましてや、世界的にも評価されている和食の文化を残すだけでなく、その良さを再認識して、もっと社会に認知されて広めて行かなくてはならない。その為には子どもたちに、和食の素晴らしさを体感してもらわなくてはならない。日常の食生活において、子どもたちに美味しい和食の料理を食べてもらい、繊細で確かな味覚を育んでいくのが我々の使命でもある。しかしながら、伝統的な和食を作れる若いお母さんたちがいないのである。伝統的な日本料理店でしか、本格的な和食が味わえなくなっているのだ。

以前はどの家庭でも『おふくろの味』というものがあった。煮しめや魚などの煮物に代表される、素朴で味わい深い料理であった。それぞれの家庭独自の調理方法や味付けがあり、母親の愛情がたっぶりと注がれたその料理は、子どもたちだけでなく夫をも幸福な気分にさせてくれた。毎日を生きる活力にもなったし、病気やケガを防ぐのにも役に立っていた。メンタルの病気になるのを防ぐことも出来ていた。うつ病や双極性障害、発達障害、パーソナリティ障害が多くなり、メンタルが原因の自殺が多いのも、和食文化の退化と関連しているように思えて仕方ない。

スーパーマーケットに行くと、出来あがった惣菜が並んでいるし、簡単に調理できる冷凍食品が大量に陳列されている。忙しい毎日であるから、じっくり伝統的な日本料理を作る時間がないのも理解できる。だとしても、なんとか調理する時間を生み出す努力をして、一般家庭の食卓に日本料理を並べてほしいものである。子どもたちに安全で安心な食事を提供するのは、親の大切な務めである。様々な危険性のある添加物が大量に含まれている出来合いの料理を、愛する子どもたちに食べさせることは親として出来ない筈である。子どもの未来を幸福で心豊かなものにするには、おふくろの味こそが必要なのである。

和食の文化を後世に残すには、若いお母さんやお父さんが自分達の食生活を、抜本的に変えることから始める必要がある。ファストフードやジャンクフードを美味しく感じる味覚を正さなければならない。添加物が大量に入っている料理が不味いと感じる、正しい味覚を取り戻すことが必要である。子どもたちの食育も大切であるが、大人の食育こそが求められていると感じている。繊細な和食の美味しさを感じる味覚を大人たちに育てるこそが、今必要とされると思っている。和食の文化を隆盛させることで、不登校、ひきこもり、メンタル障害をなくすことにも繋がると確信している。

 

※イスキアの郷しらかわでは、『森のイスキア』で提供されていたような素朴で伝統的な和食を提供しています。イスキアの食事は、子どもたちの食育として最適です。これから大人たちの食育にも取り組んで行きたいと考えています。是非、伝統的なおふくろの味をイスキアで味わっていただきたいと思います。

誰のための人生か

人生は誰のためにあるかと問われたら、そんなのは当たり前だろう、自分のためにあるに決まっているじゃないかと答える人が殆どであろう。そんなこと聞くほうがおかしいと思う人もいるに違いない。確かに、人生は自分のためにある。誰のためではなく、自分自身のために存在するのは間違いない。しかしながら、自分の人生だからと言って、無為に過ごしたり無茶苦茶な生き方をしたりするのは許されない。何故なら、自分の人生でありながら、自分だけのものではないからだ。

自分の人生は自分のものなのだから、どのように使おうと自由だと主張する人は少なくない。自分の人生をどう生きようと、他人にとやかく言われることはないと思っている人が多い。甘いものが大好きでしかも過食のために糖尿病になりながら、生活態度を改めない人がいる。運動が大嫌いで脂質と糖質が大好きなためメタボになりながら、生活習慣を変えることが出来ない人もいる。医師や家族から、自分の健康なんだから自分でどうにかしなさいと言われているが、一向に改善しない人が多い。

先生や親から勉強をしなさいと言われているが、主体性を持って自ら進んで勉強する子どもは極めて少ない。勉強は誰の為にするのか?と質問されたら、殆どの子どもは、そんなの決まっているじゃないか、自分の為だよと答える。先生や親たちもまた、勉強しないで困るのは自分なんだから、困らないように今のうちに勉強しなさいと言う。勉強するのは、良い高校・大学に行って、高収入の職業や安定した職業に就くためだよと説いている。自分の為に人生を歩むんだよと教えているようなものである。

勉強もそうだが、健康になる為の節制は、自分の為だと思っているうちは頑張れないものである。何故なら、そもそも人間という生きものは自分のためだけに努力することが難しいのである。愛する者のためや、関わり合う人のためになら頑張れるのであるが、自分の利益だけには努力できないのである。だから、自分の為に勉強しなさいといくら言われても勉強したがらないのである。自分の為なのだから健康になりなさいと言われても、努力出来ないのだ。自分の為に人生があると思っているうちは、よりよく生きるための苦労をしたがらないのが人間である。

普段立派な事を内外に言い放っている人が、生活習慣が乱れていて健康を損なっているケースがある。人々を指導したり導いたりしていて、多くの人々から尊敬されるような人が、メタボになり腰痛に喘いでいる例がある。教職にあって子どもたちにアルコールを飲んじゃいけないと指導していながら、習慣性の飲酒をしている人もいる。煙草だって、身体に悪いと知りながら止められない人がいる。我々の生き方は、我が子を含めた子孫に影響を及ぼす。健康で勤勉な姿を見せることは、子々孫々に伝わっていくから、その責任は大きい。利他の為に真剣に生きる人は、自分の身体が自分だけのものではないと認識しているから、健康と体力の維持の為に努力する筈である。

人生というのは自分の為にだけあるのではなく、他に利する為とか、周りの人々を救い幸福にする為にもあるように思う。与えられたこの人生は、困った人々や苦しんでいる人々を導いたり救ったりして、幸福な人生を歩んでもらうお手伝いをする為に使うものだと確信している。何か偉大なる意志(サムシンググレート)、または神のような存在によって与えられたこの人生は、自分の為だけに用いてはならないと思っている。昔から、偉大な哲学者や宗教者は、そのように人々を教え導いている。

自分の為だけに人生があると思い込んでしまっている人は、実に不幸である。経済的に豊かで、地位や名誉があったとしても、人間としての価値は最低である。人間としての価値は、どれだけ多くの人を救ったか、または幸福にしたのかという点にある。真に幸福な人というのは、けっして無理せず粛々と人々に貢献することを楽しめる人である。こういう人は、自分の健康や体力を維持するのは、自分の為ではなくて人々に貢献する為に必要なものだと認識しているから、当たり前のように出来ている。高齢になっても日々勉学に勤しんでいる。人々を救うためにこそ、さらなる自己成長が必要だからである。自分の為だけの人生は、詰まらない。利他の人生こそが充実していて、真の生きる喜びを与えてくれることであろう。

可愛い子には旅をさせよ

『可愛い子には旅をさせよ』という諺は、我が子の自立を促すには子どもに独り旅行をさせるのが良いという意味であると思われる。それが転じて、あまりにも子どもに対して過干渉だったり、支配したり、コントロールしたりすると、自立を阻害してしまうから注意しなさいということも教えてくれている。親というのは、我が子に対して心配するあまり、危険性の少ない安全な道を歩ませたがる。先回りしたり同行したりして、子どもの危険を取り除くことをしてしまう。それが子どもの成長を遅らせてしまうことに繋がるのに、親心というのは困ったものである。親離れ子離れできない親子が多い。

現代では、若い女性の一人旅も多くなったが、危ない輩もいることからリスクもある。ましてや、中学生や高校生ならなおさら危ない。したがって、中高生の我が子を一人旅させるのは躊躇してしまうことだろう。可愛い子には旅をさせよと言っても、あまりにも危険な現代では二の足を踏むのは当然だ。そういう場合、昔は我が子をこのように自立をさせる方法があった。会津地方で古く行われていた方法である。『飯豊山参り』と呼ばれていたと記憶しているが、13歳~15歳の子どもたちを飯豊山に登山させていた行事があったのである。

武士は12歳~15歳に元服という、成人として認める儀式をする。町民には、元服という儀式はなかった。この元服に替わるものとして、飯豊山参りをしていたのではないかと思われる。数え年13歳~15歳になった子どもを近くの神社に1週間お籠りをさせて、身も心も浄める。そして先達と呼ばれる経験豊かな大人が先導して、飯豊山にお参りする。飯豊山は霊峰であり、しかもアプローチがとんでもなく長い。さらに、登山口から飯豊山本山の山頂まで、大人でも8時間くらい要する。当時は車もなくて、長いアプローチも歩いて行ったので、おそらく行き還り10日間ほど要したと思われる。

飯豊山は毎年のように沢山の登山者を迎えているが、今でも上級者でしか登れない。長い時間を要するということもあるが、かなり標高差がありきつい登りもあるし、危険な箇所がいくつもあるからだ。今でも滑落して亡くなる人も少なくない。当時は、登山道だって今のように整備されていないから、飯豊山参りで滑落して亡くなった子どもたちも相当いたらしい。大人の先達の指導に従わず勝手な行動をしてしまう子どもは、危険な目に遭ったであろう。子どもたちにとって、飯豊山参りはかなり厳しい一大イベントであったろうし、相当なプレッシャーがあったに違いない。

私が小さい頃になくなってしまった行事なので、自分は経験していない。ただ、幼児期にこんなことを言われて育った。『嘘をついたり人を傷つけたりするような悪いことをすると、飯豊山参りで神様が怒って落っこちて死ぬぞ』と脅されて育てられた。当然、滑落死することもあったと聞いていたから、神様が見ているぞと言われれば、誰が見ていなくても良い子であらねばならないと心に誓ったものである。小さい頃は、神様とか仏様という存在は絶対的なものであり、胡麻化しの効かないものだと信じていた。今はこのような教えがないというのは、子どもの健全育成にとって大きなマイナスであろう。

飯豊山参りをすることで、子どもたちは身体的にも精神的にも大きく成長して名実ともに『大人』になった。これだけ危険で厳しい行事を成し遂げたという達成感と、神様に自分の生き方が認められたという自己肯定感が、精神的な自己成長をさせたのであろう。忍耐力やどんな厳しい試練にも負けない精神力が養われたに違いない。飯豊山参りを成し遂げた若者たちは、人間を超越した『神』という存在を信じたであろうから、自分を偽るような生き方をしなかったと思われる。死に直面した経験は、命の大切さを知り、他人を傷つけるようなことはしなかった。飯豊山参りをした子どもたちは、立派な大人になったのである。

今は、このような飯豊山参りという風習がなくなったというのが、とても残念である。現代の若者が自立できていないというのは、このような自立支援プログラムがなくなってしまった影響もあろう。このような飯豊山参りほどのハードな行事ではなくても、子どもに厳しい登山をさせることで、自立を促すことに繋がるように思える。特に、親が同行せずに、先達のような他人に預けて、厳しい登山をさせることが子どもの自立支援になると確信する。我が子を心配過ぎて、常に自分の目が届かないと不安な親は、他人に預けて子どもに登山をさせてみてはどうだろうか。思い切って可愛い子には旅をさせてみようではないか。

 

※イスキアの郷しらかわでは、登山による子どもの自立支援をしています。飯豊山の登山案内もしますが、日帰りでの登山は勿論のこと、1泊程度の日本アルプスや東北の名山の登山ガイドもいたします。子どもさんだけを預けてもらってもいいですし、心配ならば最初だけは保護者が同行しても構いません。登りながら子どもさんたちにいろんな人間教育(生きる智慧)もさせてもらいます。問い合わせフォームからご相談ください。

目標とすべき人物がいない不幸

人間という生きものは、模倣からその成長が始まる。生まれて最初に関わるのは、通常は親である。したがって親の言動を真似て成長して行く。親の後ろ姿を見て育つとはよく言われていることだ。すべてがそうだとは言わないが、親の考え方や生き方が子どもの成長に相当影響を及ぼすのは間違いない。その際に、父親の価値観というのは非常に色濃く反映するものである。しかしながら、父親はあまり子どもと関わる時間が持てず、育児にも積極的でないケースが多い。さらに父親の価値観があまりにも低劣であるが故に、しっかりした人生観が育たずに大人になる若者が増えてきてしまっている。

さらに問題なのが、親以外に模倣すべき人間にも出会えなくなっているという不幸が重なることである。親戚や知人にも、尊敬すべき人間があまりいない。会社や組織に入っても、上司や経営者にも、心から信頼し敬愛すべき人間に出会えなくなっている。まったく居ない訳ではない。昔から比較すると、とても少なくなっているという意味である。そうすると、子どもが親の模倣で育つと同じように、良い成長が見込めないばかりか、低劣な職員になってしまうのである。それなりに仕事は出来るが、主体性・自発性・責任性といったリーダーとして必要な資質が持てない職員になってしまうのである。

人間とは自分にない素晴らしい資質を、身近な人間に感じた時に強く感動して、このような人間になりたいものだと強く思うものである。歴史上の偉人でも良いが、書物を読んで感動するのと実際に接して感動するのでは、まったくそのインパクトは違ってくる。やはり、実在の人物と実際に関わり合ってこそ、その人物の影響を強く受けるものである。ということは、組織や企業内にどれだけそのような人物たり得る人材がいるかどうかが、職員の成長の度合いに影響してくる。そういう尊敬する人物がいなくなっているのである。

例えば、松下電器の松下幸之助、本田技研の本田宗一郎、ソニーの盛田昭夫と井深大、京セラの稲盛和夫というような人物である。彼らは経営手腕も発揮したが、それ以上に貢献したのが人材育成である。彼らに感化された社員たちは、その後大きく成長して会社に貢献する人材となった。このように絶大な信頼と尊敬を集めるような人材が、日本の経済界に輩出しなくなったのである。彼らの素晴らしい点は、その能力もさることながら、その人生を生きるうえでの価値観や哲学である。人の為世の為にどれだけ貢献できるのかが、人間としての価値であるという基本的な哲学観を持っていて、強烈な影響を社員たちに与えていたのである。

現在、このような見本となるような人材が、会社や組織にいなくなったのである。自分の出世や損得だけを考えていて、自分の部下を立派に育てようなんて意識もなくなっている上司ばかりである。手前勝手で自己中で、周りの人々への配慮や思いやりも持てず、自分のことしか考えていない。上司やトップに媚びへつらい、失敗は部下に押し付けて、成功すれば自分の手柄として報告するような低劣な価値観しか持てない上司である。このような会社や組織であるから、部下は上司を尊敬出来ないばかりか、モチベーションもなくなっている。当然、成長も見込めなくなっている。

このように模範とすべき上司がいないのであるから、職員の自己成長が出来ない。会社や組織の発展もなくなり、その存続さえ危うくなっているのである。人材不足というのは、単なる量的不足だけでなく、質的不足はより深刻である。管理者というのは、自分を超えるような人材を育成することを何よりも大切にする価値観を持つべきである。ところが、自分を越えてしまうような人材を、疎ましく思うし排除したがり、嫌がらせやパワハラをする管理者が多い。これでは、優秀な人材は育たない。近代教育における誤謬による弊害が、職員の人材育成にも影響しているのである。

見本とするような人材は、その技術や能力だけではない。それ以上に大切なのは、模範とする人物の価値観や哲学である。勿論、高潔な価値観や哲学を持っている人は、素晴らしい技能も獲得しうるから、素晴らしい人材になっている。企業と組織にとってなくてはならない人材になっている。このような人物しか、優秀な人材を育成することができないのである。会社や組織において、価値観や哲学の研修教育こそが必要である。そうすれば、他の模範となるような人物を育成することが可能となる。企業と組織が発展するには、価値観と哲学の教育しかないと言えよう。

 

※イスキアの郷しらかわでは、企業や行政組織などの職員・管理者に対する価値観と哲学の研修を実施しています。模範となるような優秀な人材育成のためのお手伝いをさせて頂きます。問い合わせフォームからご相談ください。

育児パパは優秀な人材になる

イクメンという言葉がもてはやされている。何となくファッショナブルなワードで、格好よく聞こえることもあり、育児に参加する父親が増えてきそうにも感じる。しかしながら、イクメンと呼ばれる父親はごく一部であり、世の中の大多数の子育て夫婦では、母親に育児の負担が重くのしかかっているのが現状であろう。運動会や学習発表会、保護者参観には昔と違って大勢の父親が来ている姿を見かけるので、父親の育児参加が進んでいるように見えるが、実態は違うようである。

確かに父親が学校行事に、大勢参加してくれるようになってきた。でも、大事なのは日常における育児参加であり、特別な日だけカメラを持って子どもの姿を記念に収める良いパパぶりを発揮するのは、育児参加とは呼べない。そもそも、育児参加という言葉が頂けない。あくまでも育児は母親が主体であり、父親はそのお手伝いだから『参加』だという意識がありありである。育児の責任は、父親と母親の両方にある筈である。その責任を、父親が放棄して母親に押し付けるのは問題であろう。育児とは両親が協力し合いながら行う共同作業であるべきだ。

世の中には、共働き家庭で父親が育児の多くを担っているケースがある。残業を極力控えて、家庭中心のシフトを敷いて、家事育児に奮闘している父親がいる。そういう父親は会社や組織ではあまり使えない人材かというと、けっしてそうではなく優秀な人材であることが多い。時間を有効に使うので時間効率がとても高くて、発想力や企画力でも他にはないような高い能力を発揮する。さらに、部下や女性社員からも人気があり、とても信頼されている。顧客からも好かれるし、驚くような成績も上げている。

一方、育児には興味を示さないばかりか、妻に育児を押し付けて家事育児には手も出さない口も出さないというような社員・職員は、実は仕事が出来ないというケースが少なくない。決められたルーチン作業はこなすが、何か微妙な調整や根回しが必要な仕事は無理なことが多い。さらに、他の社員・職員との良好な関係性が築けないし、部下からの信頼もなく嫌われるケースが多い。女性社員からは好かれていないことが多い。つまり、空気が読めないのである。顧客からもあまり好かれない。

何故、そんなことになるかというと、育児をするというのは実は非常に高い能力を要求されるからである。赤ちゃんと共に過ごすと、言葉を話せない赤ちゃんが何を要求しているのか、何をして欲しいのかを、常に想像しなくてはならない。微妙な態度や表情から、赤ちゃんの心を読み取らなければならないのである。つまり、赤ちゃんの気持ちになりきって感情を共有しなければ育児は出来ないのである。現代の若い男性にとって、一番苦手なのが感情共有である。空気が読めない男性が多いというのは、こういう理由からである。

そもそも女性の脳梁が太いので、右脳と左脳の情報交換がスムーズであることから、育児や家事を上手にこなすことが出来る。赤ちゃんの感情を読み取る力も高いのは、脳梁が太いからである。男性は生まれつき脳梁が細いので、右脳と左脳の情報交換が苦手であり、周りの人々の感情に対して共感できないことが多い。だからこそ、周りの人々の気持ちを推し量る能力を高める努力をしなければ、空気が読めなくて使えない社員・職員になるのである。家事・育児を積極的に、しかも楽しみながら実行していると、脳梁の機能が徐々に高まってくるのである。料理なんて、同時進行の作業が出来なければ、時間がかかり過ぎてしまい、美味しく出来ないばかりか失敗をする。育児は常に複数のことを同時にこなさなければ、出来ない複雑な作業である。これらのことを何度も繰り返すことで、脳梁の機能が亢進して、仕事の能力も高まるのである。

父親が育児をし始めるのは、かなりハードルが高い。小さくて弱くて壊れそうな赤ちゃんを抱くのも怖いし、おしめの交換だって最初は勇気がいる。小学生高学年や中学生の頃に、育児参加をした経験があれば、男性でも育児をすんなり出来る。甥や姪の育児をした経験がある男性ならば、育児にすんなり入り込める。そういう経験がない中学生や高校生に育児経験を積ませるような学習カリキュラムを組むのがよいと思われる。親戚に赤ちゃんが生まれたら、是非とも子どもに育児を経験させてもらうとよい。赤ちゃんが好きになるに違いない。そうすれば、将来には育児パパになり、優秀な社員・職員になれると確信している。

※イスキアの郷しらかわでは、男性のために育児の研修講座を開催しています。料理教室もご希望により行います。優秀な人材を育成するには家事・育児を学ぶことが有効です。是非、お試しください。

休職者と中途離職がないのが良い職場

職場から休職者と中途離職者をゼロにするなんて、絶対に不可能であると思っている人が多い。しかし、戦前の会社や行政組織においては休職者なんて殆ど居なかったし、中途離職者は稀な存在であった。終身雇用が当たり前であり、男性職員は定年退職まで勤務していたし、女性だって結婚退社ぐらいしか中途離職はなかったのである。現在、どの職場でも休職者はかなりの人数に上っているし、中途離職者をする職員もかなりの人数である。これは企業や組織にとって多大なる損失であるし、本人にはかなりの不利益になる。

休職をする理由は、病気によるものが多く、そのうち殆どはメンタルが休職の原因であるようだ。そして、中途離職の理由もまたメンタルが多いと言われている。そして、メンタルを病むのは、本人にその原因もあろうが、職場の人間関係によることが多い。特に、上司に問題があるケースが殆どであると想像できる。特に中途離職者の離職理由は、本人が職場では明らかにしていないが、上司と折り合いが合わなくて辞める決断をしていると思われる。勿論、上司だけに人間関係悪化の原因を押し付けるのも乱暴ではあるが、それだけ問題上司が多いのも事実であるに違いない。

離職率50%であった会社が、数年後になんと10分の1の5%になった会社がある。オンデーズという眼鏡販売の会社がそれだ。販売不振で倒産寸前の会社に、その経営手腕を買われて社長になった際、離職率が50%だと聞かされて唖然とした。どうしてそんなに離職率が高いのだと一般の社員に聞くと、「社長は何も解らないんですね」と嘆かれたという。管理職は社長が選んでいたが、上にゴマすりをしているイエスマンばかりで、部下に対する態度がとても酷くて、職場環境が最悪だったらしい。

それで社長は一計を案じ、管理職は部下の社員による選挙で選ぶという制度を導入したのである。それから会社の職場環境は一変したと言う。管理職は立候補制であるから、部下から信頼されて支持を受ければ、実績や経験、能力に関係なく誰でもなれる。当然、若くて経験年数に関係なく管理職になれるのである。俄然、社員のやる気が出てきた。売り上げも鰻上りで、倒産の危機も乗り越えて、優良企業になってしまった。部下の話もよく聞いて、パワハラ、セクハラ、モラハラも皆無になった。当然、休職者もいなくなったし、メンタルを病む社員もいない。

投票制で管理職を選ぶなんて、なんという暴挙だと思う人も多いし、部下におべっかを使って、おもねる態度をする上司ばかりになり、強いリーダーシップが取れないだろうと危惧する人も多かったという。ところが、実際はそんなことがなかったという。投票で選ぶということは、自分たちが選んだ責任が生ずる。選ばれたほうも、投票で選ばれたという自信が持てるし、信頼されたという確信から思い切った決断も出来るようになったという。勿論、決断する前に部下全員から有用な情報が上がるようになったのは当然である。

殆どの会社や組織において、管理職は社長や上司に気に入られなければなれない。民間のそれもオーナー社長であれば、社長と気が合わないと管理職にはなれないのである。当然、社長には良い情報しか上げないし、マイナスの結果報告や自分のミスなどは絶対に伝えない。部下のミスを自分の責任だと捉えないし、余計な事をして怒られたくないと思ってしまい、主体性や自発性を喪失してしまう。つまり、主体性、自発性、責任性というリーダーに必要不可欠の人間力を失うのである。部下は、こういう上司に仕えたらモチベーションを失うし、自己成長しない。

本人にある程度の原因はあるものの、休職したり中途離職したりするのは、上司にその原因の大半があると言っても過言ではない。そして、そのような管理職を選んだのが社長であり、行政職であれば首長とその側近である。だから、休職者や中途離職者が多い職場をドラスティックに変革しようとするには、まずはトップの意識が変わらなければならない。休職者や中途離職者が出るのは、そしてメンタルを病む人が多いのは、その職員本人の気質や人間性にあると思い込んでいるうちは、休職者と中途離職者はなくならない。本人の再教育も必要であろうが、管理職の選び方と幹部研修のやり方を大胆に変革することが求められるのである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、休職者と中途離職者をない職場にするためのサポートをしています。休職者の職場復帰するための教育研修を開催していますし、管理職の教育研修を実施しています。何故、部下がメンタルを病むのか、どうしたら職場復帰できるのか、メンタルを病む職員を出さないようにするにはどうしたら良いのかを、懇切丁寧にレクチャーさせてもらっています。