直感に従うとは言うけれど

直感に従って生きなさいというアドバイスをする人が多い。いろいろと迷った際には、自分の直感を信じて決断通りに進みなさいと教える人が少なくない。人生において達観の域に入った人は、そんな助言をしてくれる。確かに、迷いに迷ってしまい最終的に選択した判断が裏目に出て、最初にふと思った選択肢が良かったなと後悔することはよくあることだ。人間の直感力というのは、素晴らしい判断をすることがよくある。だとしても、全部の直感が正しかったとは言えないこともある。だから、難しいのである。

直感力がすごく鋭くて、その直感力が素晴らしい選択をする人がいる。一方で、まったく直感力が働かない人や、間違った直感をしてしまう人がいる。どうやら、人によって直観力が違うみたいであり、その直感が正しい選択をさせるかどうかは、その人間力によるのではないかと推測される。直感が鋭い人は、非常に素直な人であり、何事にも誠実で謙虚な人が多い。一方、直感が鈍い人というのは、自分に対して素直になれず、いつも後悔しながら生きている人が多い。いつも辛く悲しい思いをしていることが多く、感情を抑圧することが少なくない。

そして、とても危ないのが、直観は鋭いものの間違った直感を得てしまうことが多く、その間違った直感を信じて突き進む人である。こういう人は、自分の大事な人生の岐路に立った時でも、自分の直感を信じて疑わず、とんでもない生き方を目指してしまう。当然、悲惨な結果になってしまうことが多い。そんな目に何度も遭っていて、他の人からも助言や忠告を受けているにも関わらず、頑なに自分の直感に従うことが多い。こういう人が、自分の家族であったり、または会社の上司や経営者であったりすると、自分も巻き込まれてしまうから大変である。

どうして、そういう人は間違った直感を持ってしまうのであろうか。そして、その間違った直感を信じてしまうのかが不思議である。それは、その人の生き方の根本となる価値観が間違っているからに他ならない。そういう間違った直感を得る人というのは、いつも個別最適を目指していて、関係性をないがしろにするという生き方をしている。個別最適というのは、自分の幸福や利益を大事にするあまり、周りの人への配慮に欠けている価値観である。当然、他との関係性は悪化することになる。

この個別最適というのは、自分だけ、家族だけ、自分の部門だけ、自分の会社だけの最適化を目指すということであり、社会全体の幸福や利益は二の次だという価値観である。利己的な生き方を志すあまり、自分以外の他人との関係性は良くない。こういう人は、何か重大な選択を迫られた時に、自分にとって損か得かだけで判断しやすい。他に対して何らかの見返りやリターンを期待する。利他の心というものが理解できないし、いつも自分だけが可愛くて仕方ない。自己愛の障害と言ってもよい。

このように、個別最適を目指していて、関係性なんかどうでも良いと思っている人の直感は、とんでもない選択肢を与えることになる。一方、常に全体最適を目指していて、自分以外の人や動植物、鉱物との関係性をも大切にしている人の直感は素晴らしい。何故、そんな違いが生まれるかというと、人体というシステムが全体最適によって営まれているし、人体というすべての細胞・組織はネットワークという関係性によって成り立っているからである。人体という完全なシステムが全体最適と関係性によって成立しているのに、全体である人間が、それに逆らう生き方をしたら、機能不全に陥るのは当たり前である。

さらに、会社もひとつの全体というシステムである。全体最適と関係性によって成り立っている。勿論、家族もそうだ。地域社会も同じく全体最適と関係性で存在する。国家も同じだし、地球全体もシステムである。宇宙全体も同じような全体最適と関係性によって存在していることが、宇宙物理学や量子力学によって証明されている。つまり、人間という生きものは、全体最適と関係性の哲学によって存在しているのである。この全体最適と関係性という価値観を持つことが出来ずに、個別最適と関係性無視の生き方をしたら、悲惨な結果になるのは目に見えている。そういう人の直感は、病気・怪我・事故・別離・孤独・死を招くに違いない。こういう人は、自分の直感に従うことをせず、正しい価値観を学ぶことから始めてほしいものである。

※『イスキアの郷しらかわ』では、正しい直感を得るための研修を実施しています。正しい直感を得る為の「全体最適と関係性」という価値観を科学的な知見を基にして詳しく解りやすく説明します。量子物理学や人体生理学などのエビデンス(科学的根拠)を活用した講座です。楽しく、興味深く学べます。個人レクチャーも実施しますので、気軽にお問合せとお申込みをしてください。

スピリチュアルに原因を押し付けない

前世療法とか過去世療法という語句をご存知であろうか。自分にとってあまりにも大きな試練や苦難困難は、すべて自分の前世におけるカルマ(業)による影響であり、自分の責任ではないと安心させて、苦難困難を乗り越える勇気を与える心理療法である。中には、退行催眠をして前世を明らかにする施術者もいたり、各種の占いによって前世をリーディングしたりする人もいる。特に毒親を持って苦しんでいる人に対して、敢えて問題の親を選んで生まれてきたのだと伝える人もいる。または、自分が毒親じゃないかと悩んでいる人に、子どもはあなたを親に選んで生まれてきたんだからと安心させる施術者もいる。

TVの放映で、芸能人の前世や過去世、または守護霊の存在を明らかにして、生きるべき道を示していた人物を、まるでヒーローのように紹介していたものだから、すっかり信じてしまった人も多い。その後、あまりにも非科学的なことを言い始めたり、社会的な問題を引き起こしたりしたものだから、さすがに放映を止めてしまった。でも、まだ信じている人は相当いるし、特に若い女性の間では根強い人気があるらしい。科学的な証明が出来ないものはすべてオカルトだと批判する人にとっては、苦々しく思っているだろうが、否定されればされるほどのめり込む人も少なくない。

前世や過去世、または守護霊は存在するかどうかというと、科学的には証明できないし否定もできない。生まれ変わりというのは実際にあるかどうかというのは、仏陀でさえもあるとも言えるし、ないとも言えると、明言していない。ただし、過去世療法によって実際に救われた人もいるので、完全に否定するのもどうかと思う。ただし、過去世や前世をリーディングして、それを金儲けの手段にしていたり、インチキな物品を高額で販売したりしている輩がいるのはいただけない。苦しんでいる人につけ込んで、詐欺まがいのような占いで騙している人は許せない。そもそも、スピリチュアルを生業にしている人は信用できない。

毒親や問題行動をする人に対して、それはすべて過去世のカルマであるから、あなたにはまったく責任がないと言う施術者がいたとしたら、それは眉唾であろう。何故なら、そんなことを言われたら、自分の成長がないばかりか、問題のある人間性や人格が改善しないからである。ましてや、毒親のおかげで苦しんでいる子どもたちは救われないからである。あなたは毒親を選んで生まれてきたと宣言された子どもの悲しさを考えたら、間違ってもそんなことを言うべきでない。もし、本物のスピリチュアリティカウンセラーが存在したとすれば、そんな無茶なことは絶対に言わない筈である。

過去世や前世、そして現世と来世がたとえあるとしても、自分の至らない点やマイナスの自己、そして問題ある低劣な価値観を、すべて過去世のカルマに原因があるとすべきではないと考えている。何故なら、自分の人間性や価値観は、今の自分が受け容れたものであり、その責任は現在の自分にあるとすべきだ。それでないと、自分の成長が止まってしまうからである。自分に起きるすべての不都合を、過去世のカルマのせいにしたら、自分の努力で乗り越えるチャンスを奪ってしまうし、正しくて高邁な価値観を獲得できる機会を見逃してしまう。自分の現在における苦難・困難・病気・事故などの苦は、自分の精神における歪みが起こしているとする考え方のほうが、それを克服できるに違いない。

すべてのスピリチュアルカウンセラーが偽物だとは言わないが、それを商売にしている人なら、信用すべきでないだろう。苦しんでいる人から料金を搾取して救うなんてことが、霊的に許されることではない。商売にしているカウンセラーは、何度も通わせるためにクライアントの耳元に心地よい言葉をささやく。あなたは正しい、間違っていない。カルマが悪いと。そして、何度もカウンセリング料金をむさぼるのである。またはパワーストーンのブレスレットなどの高額な物品を買わせるのである。人を救うという尊い行為を、金儲けの手段として利用するなんて考えられない。こういう人物は、非常に巧妙なので多くの人が騙されるのであるが、自分で自分をも騙しているから、自分が人を騙していると気付いていない。つまり、こういう人物は統合失調型のパーソナリティ障害なので、自分も周りも正しいと勘違いしているのだ。カリスマと呼ばれる人物こそ要注意である。

一緒にいると疲れる人と付き合う方法

一緒にいると異様に疲れてしまい、元気を削がれてしまう人がいる。職場や組織に所属していると、必ずこういう人と出会うものである。出来れば、こういう人とはなるべく付き合いたくない。しかし、どうしても関わり合いを持つしかないケースもある。こういう人と上手く付き合う方法はないものだろうか。一緒にいても何とか、自分のエネルギーを削がれないで、関係を保って行く方法がないだろうか。

一緒にいると疲れる人というのは、自己中で身勝手で自己愛の強い人である。自分の利益のことしか考えていないし、損か得かで行動をする人である。心が穢れているから、波動が乱れている。しかも、自分に従うように周りの人々を支配したがるしコントロールしようとするのだ。自由を束縛されて支配された人は、エネルギーを奪われてしまう。だから、こういう人が傍にいるだけで、異様に疲れるのである。こんな人が同僚や上司であれば、日々疲れ切ってしまい、そのストレスから病気になってしまう危険がある。

こういう人とエネルギーを奪われないで、上手く付き合うには、かなりのコツが必要である。絶対にしてはならないことが一つある。それは、相手の間違った価値観に合わせてはならないということである。間違った価値観で生きてしまうと、やがて多くの人々の信頼を失い、関係性を損なってしまうからである。どんなに行動をコントロールされたとしても、心まで自由にされてはならないということである。例え表面的には従ったとしても、魂まで売り渡してはならないということを肝に銘じておかなければならない。

一緒にいると疲れる相手は、自分の支配下に置き、自分に従わせるようあれこれと指図する。例え間違っている指示であったとしても、上司ならば従わないとならない。後で、何らかの仕返しをするからである。こういう粘着質タイプの人間は、自分に逆らった人をいつまでも根に持っていて、何かの機会にリベンジしたがる。上司にはこびへつらうが、部下や同僚であれば、パワハラやモラハラをしがちであるので注意が必要である。表面的には、ある程度は従順な態度をする必要があろう。それでも、嫌っているという本心は悟られないように、上手く振る舞うことが求められる。

そのうえで、一緒にいると疲れる人に対して、どのようにすれば良いかというと、同じレベルで考えないということである。自分の価値観との違いをしっかりと認識する必要がある。一緒にいると疲れる人の低劣な価値観と同等のレベルの価値観に捉われないことである。一段とレベルの高い価値観を持って、その問題の人間の低レベルの行動を洞察し、どうしてそんな馬鹿な行動をするのかを詳しく分析するのである。そうすると、彼の生い立ちや経歴、または元になっている低い価値観が見えてくる。そんな問題行動をしてしまう背景もよく観察すると、そのあまりにも酷い人間性や人格が明らかになる。

言い替えると、一緒にいると疲れる人の問題行動を、俯瞰するということである。そのうえで、いかに低劣で酷い価値観によって行動している愚かさを、一段も二段も高い処から、ああ気の毒だな、可哀想になあ、と客観的に眺めるとよい。けっして同レベルの人間としてではなく、数段も高い位置からの第三者的な分析をするのである。そして、絶対にしてはならないのは、同じ会社や組織の人間には話さないし悟られないことである。人間は、自分を守る為には平気で裏切ることがあるからだ。一緒にいると疲れる人の悪口や愚痴を、その人の周りにいる人には絶対に言わないことである。また、自分の実名・会社が特定できるようなSNSやブログでは、情報発信をしないことも大事である。ひょんなことから、その本人に伝わることがあるからだ。自分の本心は悟られないように振る舞うことが大切である。

一緒にいると疲れる人というのは、会社や組織で高い地位につきやすい。何故なら、上司や経営者に媚びへつらうからである。自分より高い地位の人には歯の浮くようなおべっかを使い、自分よりも目下や同等の者はバカにするばかりか陥れることさえする。自分に歯向かうものには徹底して攻撃して来る。やがて、こういう人間は社会的に信頼されず破綻する運命にある。家庭においては、不幸な生活をしがちだ。配偶者は病気になりやすい。子どもは問題行動を起こしやすい。結局は、社会的な制裁を受けることになるのである。一緒にいると疲れる人と上手く付き合うには、あくまでも表面的に合わせるだけの日常にして、対面した時はニコニコして、後ろ向きではあかんべえをするくらいの気持ちで接すること肝要である。

スポーツに優しさは要らないのか

日大アメフト部の内田監督による指導の不適切さが、次第に明らかになってきている。その指導の中で、あまりにも異常だと思うのが、『はまる』という言葉である。特定の選手に対して、指導という範疇を逸脱するような、監督の意地悪行為を『はまる』とアメフト部の選手たちは呼んでいたらしい。その特定された選手は、集団練習から外されて厳しいランニングだけをさせられるというようなパワハラ指導を受けていたと言う。その選手は試合にも出されず、必要以上の嫌がらせを受けて、精神的に追い込まれていた。今年度は、その特定された選手というのが、反則行為をした宮川選手だったと言われている。

どうしてそんな前近代的な人権無視の酷い指導をしたのかというと、監督は当該選手のさらなる成長を望んでいたのは間違いないだろう。だとしても、けっして許される指導方法ではない。何故かと言うと、当該選手をスケープゴートにして酷い仕打ちを繰り返し、他の選手を自分の思い通りに支配しようとしたからである。しかも、その『はまる』選手の性格を変えようとして、他の選手を恐怖心で同じようにさせようとしたからである。そして、その『はまる』選手の優しい性格を変えようとしたというから驚きである。

内田監督にとって、アメフトをする選手は優しい性格を持っていてはならないと思っていたらしい。優しい性格であると、厳しいタックルや反則すれすれの卑怯な行為が出来ないと思っていたのであろう。だから、その『はまる』選手というのは、心根が優しくて思いやりのある誠実な部員だったという。一方、乱暴な性格で監督の言われた通りにペナルティを平気で行うような選手は、絶対に『はまる』ことはなかったという。内田監督は、反則すれすれのラフなプレーを好んでいたし、そういうことをする選手にすることで勝ちに繋げたかったのであろう。

内田監督は、その危険な反則のラフプレーを、宮川選手に敢えてしろとに指示した。それも、『はまる』選手にして、精神的に追い込んで指示を守るしかない状況にしておいてから、反則タックルをさせたのである。どれだけ卑怯かということが解るであろう。気持ちが優しくて、相手を怪我させるような卑怯な行為が出来ない選手を嫌い、乱暴でハードプレーをする選手だけを可愛がり、試合に出させるというのは、もはや人間として許される行為ではない。選手たちが荒々しいプレーをするには、優しさが邪魔だと考えた節がある。相手の怪我や故障することなんか考えるなと檄を飛ばしていたらしい。

スポーツをする際には、優しい心というのは不要なのだろうか。優しい心があると、ハードな対戦型スポーツにおいては、相手に対する遠慮があるから、厳しいプレーが出来ないと内田監督は考えていたらしい。だから、選手が優しい心を無くすために、敢えて反則のラフプレーをさせていたと考えられる。本当にスポーツ選手には、優しい心は邪魔になるのだろうか。大相撲の世界でも、取り口に優しさが感じられず、非常な仕打ちをする横綱がいる。確かに、その取り口はラフな印象を受けるが、圧倒的な強さを誇っていた。しかし、その取り口は卑怯に見えていたし、けっして美しくはなかった。

日本の古武道において、何よりも大切としたのは対戦相手の尊厳を認めることであり、敬意を持つということである。卑怯な行動を取ることを恥じていたし、正々堂々と闘うことが求められている。そして、何よりも大切なのが『惻隠の心』である。惻隠というのは、相手に対する慈悲の心と言ってもよい。言い替えると相手に対する優しさであり、強き者が弱き者に対する配慮を持つということでもある。一旦相手を倒して戦意を喪失させたら、敗者に対しての必要以上の攻撃を続けてはならないし、敗者にも敬意を持たなくてはならないと教えていた。生命をも奪うような闘いだからこそ、相手に対する優しさが必要だという教えである。

スポーツにおいても、それがハードで相手を怪我させるようなスポーツであるならなおさら、惻隠の心が必要であろう。そうでなければ、平気で怪我をさせたり卑怯なプレーをしたりしてしまう危険がある。危険性のあるスポーツの指導者は、まずは対戦相手の尊厳を認めることを教えるべきであろう。勝負に徹するとしても、相手を潰せなんて言葉を言うべきではない。惻隠の心があれば、反則プレーなんかできるものではないし、指導者がそれを強いるなんてことは絶対にない筈である。スポーツの指導者たる者は、惻隠の心を持つことをまずは教えるべきであろう。そうすれば、真の強者を育成することが出来るに違いない。

山菜の食文化を後世に遺す

大好きな山菜シーズンが終わりを告げようとしている。とても残念であるが、また来年も山菜を採り食べる喜びを、おおいに享受したいと思っている。最近特に思うのであるが、山菜を採ること、そして食べる文化が衰退しているのではないかという危惧を抱いている。たかが山菜の食文化がなくなったからと言って、我々の生活に何の影響もないだろうと思う人が多いことだろう。確かに、他の野菜なども豊富だから、山菜がなくなったとしても、私たちの生活が大きく変わることはない。しかし、健康面では多大な影響があるように感じている。

山菜は、畑や栽培工場などでも栽培されるようになっている。だから、山菜なんか採らなくてもいいだろうと思っている人は少なくない。わざわざ危険な山に入り、苦労して山菜なんか採らなくていいだろうという意見があるのを承知している。危険な熊や毒蛇にも出会うこともあるし、実際に熊による被害や迷い遭難する人も少なくない。生命の危険まで冒して山菜を採る必要なんかないよと言われることもある。しかし、山菜を畑で栽培すれば、それは野菜であり山菜ではなくなるのである。

どちらも同じ山菜だろうと思う人が多いだろうが、畑や工場で生産された山菜は、もはや山菜とは呼べない。その理由は、山で採れた山菜は無農薬でオーガニックであるが、畑や工場で作られたものは農薬まみれで化学肥料により作られたものだということである。含まれる微量元素が不足するのは間違いない。もし自然栽培であったとしても、山と畑ではその土に含まれるミネラルとか微量元素の成分が大きく違うのである。当然、山菜に含有されている量もかなり違っている。

山菜を採って食べる慣習は、何故広まって長い期間続いてきたのであろうか。科学的な知識や正確な成分分析など無かった時代から、延々と続いてきた山菜を食べる食文化は廃れることなかったのであ。それは、経験から導き出された知恵であったと思われる。山菜を食べる住民は、体調を崩すことも少なく健康で長生きしたのだと推測される。山菜を食べない住民は体調を損なって長生き出来なかったのではなかろうか。だから、人伝えで山菜を食べると健康で長生きできると広まり、山菜の食文化が続いたのであろう。ただ美味しいからという理由だけではなさそうである。

特に、この山菜を食べる習慣は、春の季節に圧倒的に多い。山菜が春に採れるということもあったろうが、春に食べなければならない理由もあった筈である。山菜をまったく食べない習慣の現代人が、春に体調を崩すことが多い。冬が終わって春になり、気温も暖かくなって免疫力が上がる筈なのに、この時期にインフルエンザなど各種感染症になる人が多い。また、この時期に明らかに増えるのが、化膿性虫垂炎である。また、イレウスや化膿性の腸炎も不思議と多くなる。

これらの感染症が増加したり胃腸炎を起こしたりするのは、どうやら気圧の急激な変化によるものらしい。免疫学の大家である安保徹先生は、この時期に移動性の高気圧が頻繁に日本列島にやってくるので、自律神経のアンバランスが起きて免疫力が低下するという説を唱えていた。あまりにも急激に高気圧と低気圧がやってきて、交感神経が異常に興奮することで免疫力の低下が起きるし、ステロイドホルモンが過剰に分泌されることで、体調不良が起きるのではないかと説いていた。ところが、天然のミネラルや微量元素が多く踏まれる山菜、またはアクの強い山菜を食べることで、そのアンバランスが調整されるのではないかと思われるのである。それを証明するエビデンスはないが、自分と家族、提供した山菜を食べている親戚友人は、体調を崩すことが極めて少ないばかりか、アレルギー症状が緩和されて、感謝されている。

山菜を採りに山に入ると、熊・鹿・猪・猿などの野生動物が山菜を食べた跡を発見する。これも、山菜を食べると体調が良くなることを野生動物が知っているからに他ならない。こんなにも身体に良い山菜を食べる習慣が廃れるというのは、実にもったいないことである。山菜を採る人も少なくなってきて、どこに山菜が出るのかを子孫に伝えられる人も激減している。このままで行くと、山菜を採る文化も無くなってしまうし、勿論食べる文化も廃れてしまうと考えられる。全国各地で自然発生的に生まれてきた、山菜を採り食べる文化を後世にも残したいと願うのは、私だけではないと信じている。そして、山菜料理を造る文化も、ずっと遺していきたいと強く思う。

 

※イスキアの郷しらかわでは、山菜の安全な採り方と美味しい調理の仕方をレクチャーしています。ご希望の方がいらっしゃれば、お教えいたします。今年の山菜シーズンはもう盛りが過ぎてしまいましたが、会津の奥山に行けばまだ採れる場所があります。問い合わせフォームからお申込みください。

登山ガイドをさせてもらう喜び

10年近く、地元の公民館で登山ガイドをさせてもらっている。その他、個人的なガイドをボランティアでさせてもらう機会も多数ある。登山ガイドの役目は、先ずは安全で確実な登山を利用者に体験してもらうことであろう。登山客の安全対策には、特に責任がある。無事に登って下りてくるまで、登山客の生命と体調を守る責任がある。それ以上に気を遣うのは、山登りの喜びをどのように感じてもらうかでもある。

登山客の満足度をどう高めるに苦心している。勿論、満足度を高めるために無理をさせて安全が疎かにするようなことはけっしてない。登山において、何よりも安全が最優先なのは当然である。そのうえで、登山の楽しみや喜びを感じてもらい、また登りたいなと思えるようにガイドをさせてもらっている。そして、登山客から今日は本当に楽しかったと笑顔で言ってもらった時の言葉が、登山ガイドとしての至上の喜びになる。

登山ガイドは、安全登山の仕方や疲れない歩き方、登山中の体調管理などについて登山客に伝授する。樹々や花々の名前、鳥の鳴き声や動物の生態についても説明する。登る山の説明や歴史についても、説明することもあろう。登山ガイドは、それらの事前調査も実施して、登山客に詳しく話をさせてもらうのである。普通なら、ここまですれば登山ガイドとして合格点であろうと思う。しかし、私はそれでは飽き足らず、もっといろんな話をさせてもらっている。

一昨日、地元の公民館のトレッキング教室があり、15人の生徒を茨城県の最高峰八溝山にお連れしてきた。バスの中で、安全登山の基本的な考え方を伝える為に、エベレストの登山歴史と栗城史多氏の遭難事故について話をさせてもらった。ヒラリー卿の談話やG・マロリーの「ここに山があるから」という有名な言葉と本当の意味も説明した。単独無酸素登頂がとんでもなく難しく、今まではたった一人の登山家しか成功したことがないこと。その登山家ラインホルト・メスナー氏の人となり、そして登山スタイルにも言及した。

G・マロリーはヒラリー卿よりも前に、3度もエベレスト登頂に挑戦している。そして、3度目の挑戦で還らぬ人になった。でも、もしかすると登頂に成功した後に、下山中に滑落したのではないかと見られている。それに対してヒラリー卿は、登山というのは登って無事に戻ってきてこそ、登頂に成功したと言えるのだと断言している。登山と言うのは、ある程度の危険性はあるものの、何よりも生命の尊重を最優先させるというのが基本だと言っていた。ラインホルト・メスナーも、最愛の弟であるギュンターを同行した登山で失っているからこそ、生命の尊重を何よりも大事にしたのだ。

こんな話をしながら、安全登山の基本的な理念を話させてもらった。また、登山における自然保護や環境保護についても言及した。さらに、今の時期に見られるヤマボウシの花についても説明した。ヤマボウシは漢字表記だと山法師となる。山法師とは、比叡山の僧兵のことを指す。僧兵の白い頭巾が、ヤマボウシの花びらと酷似していることから命名されたと伝えられている。このように、花の名前の由来についても詳しく説明することが多い。そのほうが、花の名前を憶えやすいし、花に対する親近感が湧いて、より大好きになると思うからである。カエデという名前が『蛙手』からということや、英語でメイプルと言って、メイプルシロップがその樹液から作られることも説明してあげた。

普通の登山ガイドならば、これぐらいの知識はあるので説明することもあろう。しかし、ここからが自分にしか出来ない話だと思う。山法師と言えば、平家物語の第一巻にこんな記述があるという。白河法皇の「鴨川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心の思うにならぬもの」という言葉である。白河法皇は、自分の子どもと孫を天皇に据えて、本格的な院政を日本で初めて敷いた人物である。絶大な権力を持ってしても、日吉山王大社の神輿をかついで強訴する山法師(比叡山の僧兵)に手を焼いていた。それを北面の武士として平家の武士を宛てて、警護させたのである。これが平家の政権掌握のきっかけになったのである。

こんなことまで、登山の話とは違うから聞きたくないと思う人もいるかもしれない。しかし、こういう話は皆さん初めて聞いたと驚いていらしたし、元校長先生の引率者も北面の武士という言葉は聞いているが、そういう歴史背景があることまでは知らなかったとびっくりされていた。歴史も、こういうストーリー性のある話ならば、みんなが好きになるに違いない。このように歴史や登山の哲学の話を含めて、様々なことを説明してもらっている。これが登山客の喜びであると同時に、自分としてもガイドする大きな喜びでもある。

 

※イスキアの郷しらかわでは、登山ガイドをしています。ガイド料は特別頂いていません。交通費の実費だけか体験料(1500円)だけの費用です。樹々や花々の名前や由来、それらの背景や歴史なども詳しく説明しています。クマガイソウやアツモリソウの名前の由来と源平合戦における平敦盛と熊谷直実の「須磨の浦での対決」、山吹の花と太田道灌に関わる短歌の話、などいろんな話をさせてもらいます。特に、登山の哲学についてご興味がある方には、ご満足いただけると思います。登山ガイドの申し込みやご相談は、問い合わせフォームからお願いします。

神に許されないと登れない山

8度目のエベレスト登頂挑戦で、登山家栗城史多氏は還らぬ人になってしまった。彼の冒険を応援し、登頂成功を楽しみにしていた人も多い筈だ。彼を賞賛する人もいれば、無謀だと非難する人もいる。彼の登山技術のレベルから見ると、成功する確率は極めて低かったとする専門家が多い。一般受けはするが、専門家からは冷ややかな目で見られることが多かったらしい。彼を無茶な挑戦に向かわせて死なせてしまったのは、彼を大々的に取り上げたTV局や支援者ではないかという皮肉な感想が多いのも注目されている。

亡くなった後からそのように非難されるのは、あまりにも栗城氏が可哀想である。どうして彼の無謀な挑戦を止めてあげられる友人がいなかったのだろうか。直接インタビューをして、エベレストの単独無酸素登頂、それも難しい北壁ルートは断念するよう促した登山家もいたらしい。彼は、ルートは変更したものの、敢えて難しい登頂ルートを選択したみたいである。単独登頂という言葉を非常に気にしていたらしく、通常ルートではどうしても既設のロープや梯子を使わなければならず、それだと単独登頂にならなくて、ニュースバリューが低くなったからではないだろうか。

世界で初めてとか、単独無酸素登頂とかいうのは、ニュースになるかどうかという点で、栗城氏にとってはとても価値のあるものであったに違いない。彼は、冒険の共有という言葉を好んで使っていた。チャレンジャーとしての価値を高めるには、非常に困難なことを成し遂げる必要があるし、TVの視聴率を上げるためには何が大事なのかということが、彼の無謀な挑戦を後押ししてしまったように思える。まだこれからという若い命を、マスメディアやTV界、または芸能プロによって奪われてしまったと言っても過言ではあるまい。

世界で初めてエベレストを登頂したのはヒラリー卿だと言われている。無事に戻ってきて、その偉業を証明したのは彼だと言わざるを得ない。もしかすると、G・マロリーが登頂に成功して、その下山途中に遭難したかもしれないとも言われている。夢枕獏が著した『神々の山嶺』にそのエピソードが載っている。彼の所有していたコダックというカメラさえ見つかれば、それが証明できるかもしれない。『そこに山があるから』という著名な言葉を残した山岳家として、つとに有名だ。

しかし、この言葉は間違って伝わっているらしい。彼が2度のエベレスト登頂に失敗して、3度目の挑戦をする前に、ニューヨークタイムズの記者に「どうして、そんなにエベレスト登頂にこだわるのですか」と問われ、「それだからです」と答えたらしい。つまり、エベレストだから、その山に挑戦するんだと答えたのである。日本では、そのやりとりが「そこに山があるからだ」と意訳されたらしい。G・マロリーは三度目の挑戦でも失敗して、帰らぬ人となる。エベレストは神の山であり、神に許された人しか登れないのかもしれない。

単独無酸素でエベレストに登った登山家が、たった一人いる。イタリアのラインホルト・メスナーがその人だ。何故エベレストの無酸素単独登頂を選んだのかと言うと、ひとつは環境保全のためである。山は自然のままにあるべきだという考えをメスナーは持っている。ボルト一本でさえ山に残すべきでないし、ましてや酸素ボンベを山に置き去りにするなんて許せないと思っている。なるべく環境に負荷をかけない登山をするべきだと、敢えて単独無酸素の登頂に挑戦して成功した。彼が単独無酸素の登頂を選んだ理由がもうひとつある。エベレストは神の住む山である。長く滞在することは、神の意志に背くことだと、何よりも素早い登山を心掛けたのである。驚異的とも言えるスピードで登り下った。たった三日間という異常な速さで登山し終えたのである。

8000メートルを超える山の酸素濃度は、平地の3分の1になる。普通の人は、酸素ボンベなしでは行動できない。エベレストが神の領域と呼ばれるのは、この酸素濃度があるからだ。神々しか住めないし、普通の人は酸素なしでは長く留まれない。ラインホルト・メスナーは、8000メートル以上の領域において無酸素では長く生きれないと分かっていたから、敢えて登って下りる時間を極力少なくしようと考えたのである。ボルトを打つ時間も惜しかったに違いない。彼の登山する姿の映像を見たことがある。急坂を走るように登っていた。普段から、とんでもないスピードで登山する訓練をしていた。フリークライミングも驚異的な速度であったという。神に登ることを許されたメスナーは、単独無酸素でのエベレスト登頂をなしとげた。栗城史多氏は、神になり切れなかったのであろう。謹んでご冥福を祈りたい。

スポーツの指導は科学的手法で

日大アメフト部の不適切指導が大変な問題になっているが、そもそも内田監督という人物が、指導者として相応しかったのかということが話題になっている。至学館大学の栄和人監督も同じような批判にさらされた。どちらもそれなりの成績を残しているものの、指導される側からは、その指導法に疑問を呈されている。彼らの指導法に共通しているのは、精神論や感覚論に偏っているという点だ。そして、体力の限界を超えるような猛練習を課しているのも特徴的である。確かに日本のトップレベルを保つにはハードな練習が必要なのは理解できる。しかし、自らが求めた練習ではなくて、嫌々やらされているという感覚ならば、そんな練習はするべきではない。

旧来のスポーツ指導においてもてはやされてきた精神論が、まだ横行していることに驚く。内田監督と栄監督はあまりにも精神論に固執していたように思える。新しい技術や戦略的部分はコーチが補佐していただろうが、基本的な組織全体の科学的な管理手法については、疎かったように感じる。厳しい練習に耐え抜いた選手だけが結果を残せるという考え方は間違っていない。だとしても、選手の心が折れてしまうような押し付けの練習は逆効果である。科学的な根拠のないやみくもな練習など、まったく役に立たないのである。

スポーツにおける心身の鍛練において、根性を示せ、気合で乗り切れ、精神を鍛えろなどと前時代的なことを平気で言う指導者がいる。内田監督や栄監督などは、その部類であろう。特に日大のアメフト部は、深夜時間まで及ぶような長い練習を部員に課していたというから、考えられない横暴ぶりである。精神論、根性論、気合論で結果が残せると本気で思っていたなら、時代錯誤と言えよう。スポーツにおいては、科学的・論理的にどうすれば選手が成長し向上できるのかは、ほぼ解明されている。ましてや、メンタル面においても、どうすれば心が平静になって実力が発揮できるのかも、科学的に説明できるのだ。

今は科学的に実証された、効果の高いトレーニング方法が確立されている。最新のフィジカルトレーニングは、短い時間でも必要な筋肉や体力が作られるし、持久力を上げるのに長い時間走るだけのトレーニングなんて、時代遅れになっている。メンタルトレーニングも科学的な手法が用いられる。心理学的に、そして脳科学的に検証されている手法でメンタル面が強化されている。精神論や根性論なんて、今の青少年は誰も信用していない。科学的合理性の教育を受けてきた青少年は、科学的に正しいのか正しくないのかで取捨選択するようになっているからだ。

最近のスポーツ指導者、とりわけ日本トップレベルにある高校や大学の指導者たちは、自然科学を駆使した指導だけでなく、社会科学を活用した指導法を取り入れている。チームワークやリーダーシップ、または自主性や自発性を選手たちに発揮させるには、どのような指導法が良いのかを研究しているのである。最新の経営管理学の理論を学んでいる。チームをどのようにマネジメントしていくかが問われているからである。チームをまとめきって、部下との信頼を得ていなければ結果を出せないからである。

日大のアメフト部は、監督を神格化してコーチと部員を完全に支配しようとした。部員たちに何も考えさせなくして、監督の手足として動く選手だけを重宝した。部員たちが自分達で考えたり、自主的に行動したりすることを何よりも嫌ったのである。戦略を立てるのは監督であるが、試合中に刻々と変化する情勢に臨機応変に自主的に自発的に動ける選手が必要である。瞬間的に対応するには、常日頃からアクティビティが養成されていなければならない。アイコンタクトでお互いが何を考えているのか理解できる関係性が必要である。監督にすべて支配され制御された選手は、いざという時に役に立たなくなる。

最新の科学では、スポーツのチーム全体をひとつのシステムとして捉えている。そのシステムが効率的に機能するには、システムの構成員であるひとりひとりの選手が、全体最適を目指して主体的に動くことが求められる。監督やコーチから、いちいち指示されることなく、自主性を持って行動できるように自己組織化されていなければならない。それぞれの選手たちが、ネットワークを組んでそれぞれが過不足なく連帯性を持って行動出来た時に、最大の効果や成果を発揮できるのである。その為には、選手どうし、選手と指導者、指導者どうしの関係性が大事である。その豊かな関係性を築くには、自己組織化されたシステムという考え方をチーム全員が認識しなくてはならない。スポーツの指導は、精神論でなく科学論でするべきだ。

 

スポーツ指導者に必要な価値観

日大のアメリカンフットボール部の選手が、考えられないようなラフプレーをしたことが話題になっている。そして、その選手にとんでもない指示をしたと言われているのが内田監督である。アメフトの大学日本一を決める甲子園ボールで、昨年優勝したチームである。そんな名門チームの監督が、どうしてこんな指示をしたのかが不思議である。監督と言えば、部員は我が子のような存在である。その可愛い部員に、あんなにも辛そうな記者会見をさせるなんて考えられない。スポーツの指導者である前に、人間としてあり得ない対応である。

最近のスポーツニュースを賑わせているのが、スポーツ指導者の不適切な対応である。至学館大学の女子レスリング監督で、元日本代表のヘッドコーチでもあった栄和人のパワハラ事件があったのは記憶に新しい。過去には近大のボクシング部でセクハラ事件もあったし、柔道日本代表でのパワハラ事件も世間を賑わした。高校や大学の部活において、各種ハラスメントだけでなく暴力事件・体罰事件は数多く発生している。義務教育である中学校の部活においてさえ、指導者による体罰や暴言はなくならない現状にある。どうして、スポーツの指導者というのは、こんなにも低レベルの人間が多いのであろうか。

スポーツの指導者、それも日本のトップレベルのチームの監督やコーチは、常に勝利という結果が求められるのは当然であろう。ましてやナショナルチームの監督・コーチであれば、多くのファンが勝つことを期待するが故に、勝ちにこだわざるを得ないであろう。結果が出なければ、サッカー日本代表監督のように即座に更迭される運命にある。だとしても、結果を求めるあまり、スポーツをすることの本質や目的を見失ってしまうことが多いのも事実である。スポーツをするのは何のためかという本質を忘れてしまっている指導者が多いのは情けない。

ナショナルチームは別として、中学・高校・大学においてスポーツをする目的は何であろうか。またはスポーツ少年団の指導者は、何のために子どもたちの指導をしているのであろうか。勝負事なのだから勝ち負けにこだわりたくなるのは理解できる。だとしても、結果だけにこだわってしまうから、パワハラや体罰や暴言などの不適切指導が起きてしまうのではないかと考えられる。もう一度青少年にスポーツの指導をする意味を考えてほしいものである。スポーツで結果を出すということは、勝つということであろう。しかし、これはスポーツをする目的ではない筈である。ましてや、青少年にスポーツの指導をする目的は、勝つことではないことではないのは明白である。

目的と目標はまったく違うということを理解している人は、意外と少ない。特にスポーツの指導者は、目的と目標を混同しているケースが非常に多い。目標とは、目的を実現するための具体的な指標のことであり、目的とは正しい価値観や真理に基づいて設定する究極の進むべき抽象的な概念のことである。だから、目標はあくまでも目的達成のためのランドマークでしかない。スポーツにおいて、優勝するとか優秀な成績を収めるというのは、あくまでも目標であり、目的ではない。それなのに、勝つということを目的化してしまっている愚かなスポーツ指導者が存在する。それが日大の内田監督であり、至学館大学の栄監督でもある。だから誤った指導をしてしまうのである。

スポーツをする目的、またはスポーツを指導する目的は、スポーツを通して健全なる精神と肉体を獲得できるようにすることと、チームワークや人間関係の大切さを学ぶことである。さらに、苦難困難にも挫けない精神性や忍耐力を身に付け、主体性や責任性といった大切なアクティビティを育てることである。やがて世の中や人々の為に貢献できる人間性と人格をもつ人間として育成することが、スポーツをする目的である筈だ。指導者は、この理念を忘れてはならない。勝負にこだわると、この大切な目的を忘れてしまい、青少年の健全な育成が出来ないばかりか、日大アメフト部のような不祥事を起こすことになりかねない。

さらに言うと、これらのスポーツをする真の目的を設定するには、普遍的で真理に添った正しい価値観を持つことが必要不可欠である。この正しく高潔な価値観を持つ人間が、日大や至学館のトップや理事に居なかったのであろう。だから、とんでもない指導者を責任者にしたのであるし、問題が起きた際に適切で正しい措置を取れなかったのである。スポーツの指導者たる者は、青少年の健全育成の為にスポーツの指導をしているということを忘れてはならないし、勝つことを目的にしてはならない。だからこそ、指導者たる者、真理に基づいた正しく高い価値観や哲学を持つための学びを怠ってはならないのである。

 

和食文化継承の担い手

和食文化は世界遺産にもなるくらい素晴らしいものであり、欧米でも和食の良さが認識されて、人気を博している。日本が世界に誇る文化のひとつであるから、この文化は後世にも引き続き継承していきたいものである。和食文化を継承する担い手の一番手と言えば、日本料理店の板前さんとその調理補助者であろう。寿司店や割烹の板さんや旅館・ホテルの料理長が和食文化の継承者であるのは間違いない。しかし、そもそも和食とは特別な料理ではなくて、日常的に家庭でも食されているものである。故にその和食文化を継承しているのは、いわゆる『お母さん』でもあると言える。

ところが、若いお母さんがまともな和食を作れなくなっているのである。以前は、嫁入り前の若い女性は母親から和食の基本を叩き込まれたものである。または、嫁入り修業として料理学校に通い、家庭料理の基本を習ったものである。ところが、今時そんなことをしている若い女性は殆ど居ない。必要だと思っていないのだから当然だ。スーパーに行けば惣菜は豊富に陳列してあるし、インスタント製品や冷凍食品が用意してあるから、簡単に食事の用意が出来る。丁寧に出汁を取って作る味噌汁とか、煮物や漬物などの手作り惣菜を作れなくなっているのである。

洋風料理や中華料理は、ある程度のレベルの料理なら作れるが、本格的な日本料理を作れる若いお母さんは少なくなってしまっている。つまり、若いお母さんが和食文化の継承者になり得ていない。これでは、和食文化はごく一部の専門家にだけ残るようになってしまうのではないだろうか。和食は家庭料理においてこそ、その存在価値があるのに、家庭料理に和食がなくなってしまったとしたら、日本人の肉体と精神はどうなってしまうのであろうか。

日本人の肉体と精神は、和食を食べてこそ最適な状態に保つことが出来るように遺伝子が進化してきたのである。日本人が和食をあまり食べなくなってから、生活習慣病を始めとして心臓血管障害や脳血管障害などが増加してきた。日本人の多くがメタボになったのも食事が洋風化した影響が大きい。各種のアレルギー疾患が増えたことや、悪性腫瘍が増加したのもその一因だと考えられている。発達障害や気分障害などメンタル面での障害が増えているのも、本格的な和食から遠ざかったせいだと言う専門家がいる。

お母さん以外でも、和食文化の継承を担っているケースもある。一家のお父さんが和食を極めていて、おふくろの味ではなくて親父の味を子どもたちに伝えている例もある。自分も、会津の母が作っていた伝統的な郷土料理を継承している。三人の息子たちに和食を中心にした食事を提供していたから、確かな味覚が育った筈だ。やがて、親父の作った料理を再現してくれるだろう。娘がいなかったが、結婚した長男は時折台所に立っているというから、親としても嬉しい。お母さんに限定することなく、和食文化を誰かが継承してほしいものである。

最近、幼児教育の現場で伝統的な和食文化を継承しているのを知って驚いた。福岡県にある高取保育園では、毎日本格的な和食の給食を提供している。園児たちが味噌を手作りして、それで作った味噌汁を毎日飲んでいる。玄米ご飯、味噌汁、納豆、旬の野菜で作った惣菜を提供している。化学調味料や保存料などの添加物が一切入っていない、自然食である。幼児期にこのような本格的和食を食べていれば、正常な味覚が育つから、大人になっても和食を食べ続けるに違いない。神奈川県の座間市にある『麦っこ畑保育園』も、同じように自然食の給食を出している。このように幼児教育で和食文化を継承しているというのは、非常に心強い。

さらに大学教育の現場で、和食文化を継承する努力をされている人がいる。郡山女子大学で、管理栄養士を育成している亀田明美准教授である。学校給食の栄養士とか、大学や企業の食堂を管理する栄養士などを養成している大学の現場で、和食の大切さを訴えている。亀田女史は、大学で教鞭を取りながら、プライベートで学校給食を見直す活動もされている。その活動に賛同した大花慶子さんたちと一緒に、学校給食に伝統的な和食や自然食を取り入れる運動を展開されている。多くの若いお母さんたちが、この運動に参加している。このように、いろいろな和食文化継承の担い手が現れている。これで日本の和食文化の素晴らしさが社会的に認知されて、和食の文化が広まっていくに違いない。

※イスキアの郷しらかわでは、伝統的な和食を提供しています。玄米ご飯(無農薬・有機栽培)、玄米餅、手作りの味噌で作った味噌汁、発酵食品、旬の野菜(無農薬・有機栽培)など自然食を中心にした食事です。4日~5日滞在すると、和食の良さを実感します。食習慣を改善できますし、本格的な和食の作り方を学べます。是非、ご利用ください。問い合わせフォームからご相談ください。