どうして人はトラウマを抱えてしまうのか

 人は一旦トラウマを抱えてしまうと、それを乗り越えることが非常に難しいものだ。それだけではない。抱えたトラウマによって、非常に生きづらくなってしまう。不安感や恐怖感をいつも持ってしまうだけでなく、考え方や行動に影響を与えてしまうので、生き方そのものも変化してしまうのである。さらには、小さい頃から何度もトラウマを積み重ねることで、複雑性のPTSDを負ってしまうことになり、ASD(自閉症スペクトラム障害)までも起こしてしまう事が判明した。どうして、人はトラウマを抱えてしまうのであろうか。

 実に不思議な事であるのだが、心的外傷を負うような同じ事件・事故に出会っても、トラウマを負ってしまう人と、まったくトラウマを抱えることがないという人がいる。どうして、そんな違いが生じてしまうのであろうか。このトラウマを負ってしまうという人は、特定のパーソナリティを持つ人なのであろうか。そもそもトラウマになってしまうことがなければ、いろんなメンタルの疾患になることもないし、身体的な疾患に罹患することも少ない筈だ。生きづらさを抱えることもないので、もっと人生を謳歌できるに違いない。

 自分にとって辛くて悲しい目に遭ったり、苦しくてどうしようもない出来事に追いこまれたりしても、トラウマにならない方法が解れば、パニック障害やPTSDにならない筈である。それでは、トラウマにならないような生き方が誰にでも出来るのであろうか、またはトラウマになるようなパーソナリティを克服できる方法はあるのだろうか。結論から言うと、トラウマを抱えるパーソナリティは乳幼児期に作られてしまうし、一旦このような性格・人格が形成されてしまうと、簡単には変えること難しいのである。

 それは、どんな性格・人格かというと、端的に言えば『不安型の愛着スタイル』というものである。自己否定感が極めて強くて、不安が異常に強いパーソナリティである。自尊感情が極めて低いために、自分のことが好きになれないし、あるがままの自分を愛せない。どんな子育てをされたかというと、三歳までに無条件の愛をあまり注がれずに、条件付きの愛を受け続けた育児をされたケースである。あるがままにまるごと愛されるという経験をしないと、絶対的な自己肯定感は育まれず、不安型の愛着スタイルになってしまうのである。

 言い換えると無条件の愛情である母性愛を三歳ころまでにたっぷりと注がれ続けてから、条件付きの愛情である父性愛を受けないと、健全な精神は育たずに不安で仕方ない性格・人格が形成されてしまうのである。絶対的な自己肯定感が喪失している不安型の愛着スタイルを獲得してしまうと、あまりにも悲惨で辛い出来事や、生命の危険を感じるような事件・事故に出会うと、トラウマ化してしまうのである。あるがままにまるごと愛されるという母性愛をたっぷりと注がれた子どもは、絶対的な自己肯定感が確立されるので、どんな悲惨な目に遭っても、トラウマ化しにくい。

 現代においては、父親と母親自身が不安型愛着スタイルを抱えているケースが多く、我が子をあるがままにまるごと愛せない。自分が強い不安や恐怖感を持つ故に、子育てに自信や安心感を持てない。故に、常に子どものことを心配するあまり、支配しコントロールをしてしまい、『良い子』に育てようとして過干渉と過介入を繰り返すのである。これでは、子どもは自己組織化が進まないし、自己否定感が強い子どもになり、いつも不安に苛まれることになる。悲惨なことが起きると、容易にトラウマ化しやすい。そういうことが何度も積み重なると、複雑性のPTSDになって発達障害になってしまう。

 それでは、トラウマを抱えやすい不安型愛着スタイルになってしまった人は、一生トラウマ化しやすいパーソナリティを抱え続けるのかというと、けっしてそうではない。大人になってからでも、あるがままにまるごと愛してくれる人に出会い、自己組織化させてくれる安全基地として機能してくれるパートナーに出会うことが出来れば、不安型の愛着スタイルは癒される。安全と絆を確信させてくれる安全基地となって不安と恐怖感を払拭しくれるパートナーが寄り添ってくれたら、不安型愛着スタイルは少しずつ癒される。時間はかかるが、人生のパートナーではなくて臨時の安全基地として機能してくれる人でも可能である。それは、森のイスキアの佐藤初女さんのような人である。

SNSで否定コメントをする人は愛着障害

 SNSで否定的コメントをする人が後を絶たない。または、より攻撃的なコメントで心を傷つける人も増えている。有名人に対する心無いコメントも寄せられていて、社会問題になっている。これだけマスコミや報道などで、SNSの攻撃的なコメントが人命さえも奪っていると警鐘を鳴らしているのに、一向に減らないのは何故であろうか。攻撃的な否定コメントをした人が特定されて、刑事告訴をされたり莫大な損害賠償請求をされたりしているにも関わらず、否定コメントが減らないのは不思議なことである。

 つい先日は、TOTOクラシックというゴルフツアーで2位に入った桑木プロの容姿についての心無いコメントがあり、彼女が嘆いていた。そんなことまで、SNSのコメントをするのかと、桑木プロの心情を察するに憤りさえ感じた。女子プロレスラーに対するSNSの誹謗中傷が、本人を死に追いやってしまったことが問題になったのは記憶に新しい。芸能人に対する心無いSNSの誹謗中傷が、自死へのきっかけになったことは数知れずあるかと思われる。人殺しの道具とも言えるSNSの否定的書き込みは、何故なくならないのか。

 SNSの否定的なコメントを繰り返す人物の人格や心理について分析してみよう。人を批判したり否定したりする人は、強烈な自己否定感を持っているのは間違いない。絶対的な自己肯定感を持ち自尊感情が高い人は、他人の言動を批判したり否定したりすることは絶対にしないものだ。自己否定感が強い人は、自分の評価や満足を高めることを無意識で求めているので、他人を蹴落として自己を正当化しがちである。他人を貶めることで自分の価値が高まるのだと、無意識下にて勘違いをしてしまっているのである。

 否定的な書き込みをする人というのは、自己肯定感が低いが故に、職場や家庭でも問題行動を起こしがちである。職場においては部下や同僚に対して、パワハラやモラハラをすることが多い。家庭においても、配偶者や子に対してモラハラをしたり虐待をしたりするケースが少なくない。何故かと言うと、自己肯定感が極端に低くて、いつも周りの人々を否定したがる人物というのは、自己愛性のパーソナリティ障害を抱えているからである。正常な自己愛が育っていないが故に、自分を必要以上に過剰評価して、周りの人を蹴落とすのである。

 この自己愛のパーソナリティ障害を抱えた人物は、ある意味恐ろしくもある。自分に反対する人や批判する人に対する攻撃性が異常に高く、自分に敵対する人を企業・組織・部局から手段を選ばず排除するのである。自分の地位や名誉を脅かす人を徹底的に攻撃するのだ。あのルドルフ・ヒットラーも自己愛性のパーソナリティ障害だったと伝えられる。自分の政敵になる人物を、秘密警察ゲシュタポを利用して暗殺した。ヒットラーも含めて、自己愛性のパーソナリティ障害を抱えている人物は、深刻な愛着障害であることが多い。否定的コメントをする人物も同様だと考えられる。

 愛着障害の人が、すべて自己愛性のパーソナリティ障害になって、モラハラやパワハラをするという訳ではない。愛着障害だからといって、すべての人が攻撃性を持つ訳ではないのである。愛着障害の方々の中には、自尊感情が低くても他人を責めずに、自分自身を責めるような人もいる。どちらかというと女性は、自分自身を責めるタイプが多い。男性のほうが否定的なコメントをするケースが多いと言う事を考慮すると、自己愛性のパーソナリティ障害を起こすような愛着障害を抱える人は、男性が圧倒的に多いように感じる。

 深刻な愛着障害によって強烈な自己否定感を持ち、自己愛性のパーソナリティ障害を抱えてしまうと推測される。その為に、自分の価値観や人生観、さらには考え方に合わない人のことが許せずに、SNS上で否定的な書き込みを繰り返すのではないだろうか。そういう意味では、受容性や寛容性が異常に低いと思われる。こういう人は多様性を受け入れようとしない。自分の価値観や生き方だけが正しくて、自分の考えに合致しないようなSNS上の書き込みは間違っているから排除しなくてはならないと思い込むのであろう。実は、こういう人はSNSの発信をしたがらない。何故なら、否定されることがとても苦手であるし、批判に極めて弱いのだ。小心者なのである。

人生に行き詰ったら環境浄化をしてみよう

 長い人生を生きる間には、どうしても前に進めないという時期があろう。どういう訳か分からないが、ふと立ち止まってしまい、そこから再度進もうとしても歩みが止まったままということがあるものだ。自分の今まで生きてきた過去を振り返り、これで良かったのか、これから進む道が間違っていないのかと一瞬でも疑った時にこそ、これ以上進むことが出来なくなってしまうことが少なくない。または、何をやっても裏目になってしまい、どうあがいても失敗続きで行き詰ってしまい、進むのが怖くなってしまうこともある。

 こんな状況に陥った際に、どうしたら現状打破が可能になるのだろうか。メンタルの問題だからと、誰かに相談するとかカウンセリングを受けることもあろう。または、身体の問題だからと、温泉やサウナに行ったり、マッサージや整体を受けたりすることもある。これらの対処方法もそれなりの効果がみられると思うが、それよりも簡単に、しかも短期的な効果を得られる方法がある。それは、環境浄化と身の回りの整理整頓である。断捨離も含めて、住環境の徹底的なお掃除を敢行することで、心身のリフレッシュ効果が起きる。

 行き詰ってしまいどうしても心身が動かなかったのが、住環境のお掃除や除菌を徹底的に行うと共に、洋服や調度品などの断捨離を含めて、徹底的な浄化により不思議と心が軽くなる。と同時に歩みを進めることが出来るだけでなく、失敗がなくなりすべて好転するようになる。さらには、今まではどうしてもお金が回らなかったのに、断捨離や掃除を徹底的に行ったら、急にお金回りが良くなるということが起きる。今までは欲しくても手に入れられなかった物が不思議と得られたり、素晴らしい出会いがあったりするのである。

 環境浄化や断捨離だけでそういうことが起きるのかというと、それだけでは人生が好転する訳ではない。それと同時に、心の浄化も実行する必要がある。断捨離やお掃除を徹底して行うと、心も清浄になる傾向を示すものの、その際にどのように心を整えるかということも大切である。環境浄化や断捨離をする際の、心がけも大事だということである。したがって環境浄化や断捨離をする時に、支援したり指導したりしてくれる存在が必要だと思われる。それでなくても、心身が動かない状況なので、背中を押してくれる人が欲しいと思うのも当然である。

 それでは、その環境浄化をする際の支援や指導は、どのような人に依頼すればいいのだろうか。先ずは、お掃除のプロにお願いしたいものである。どのようにお掃除をすれば良いのか、汚れを完全に落とすにはどのような洗剤と道具を使用すれば良いのかを適切にコーチングしてくれる人が欲しい。そして、細菌・ウィルス・カビなどの除菌や殺菌をする方法にも精通した、消毒のプロも必要である。さらには、お掃除をすることにより、過去のトラウマを解放する方法を伝授してくれたり、心の浄化をする手伝いをしてくれたりしてくれる人もいてくれたらありがたい。

 お掃除をやってくれる業者は多く存在する。しかし、一緒に作業をしてくれながら、お掃除のやり方を丁寧に手取り足取り教えてくれるような業者は殆どいない。ましてや、お掃除を支援・指導をしながらカウンセリングやセラピーをしてくれるようなお掃除のプロは皆無である。さらには、疲れたらボディーケア(マッサージ)までしてくれる人はいない。すべてに精通しているプロフェッショナルならば、とんでもなく高い対価を支払うことになると想像できる。それを安価で実現してくれるプロがいたらすぐに依頼したいだろう。

 現在このような業者はいないし、すべての環境浄化や心の浄化を提供してくれる業種は存在しないので、実際に依頼することは残念ながら叶わない。インターネットで検索したとしても、日本国内でヒットする可能性はゼロであろう。今後、このような環境浄化と心の浄化を一緒にしてくれる起業家が現れてくれることを願っている。このような新規の業務を起ち上げてくれる企業が現れてほしいものである。そうすれば、人生に行き詰ってしまい、一歩も踏み出せなくなってしまった多くの人々が救えるに違いない。いろんな苦難困難に遭うと共に、不幸のどん底に陥ってしまった人々も立ち直れるかもしれない。

※このような業種を新規に立ち上げたいというベンチャーが居ましたら、『イスキアの郷しらかわ』では起業支援をさせてもらいます。また、このような業務を始めたいという企業家がありましたら、同じく業務起ち上げのサポートをいたします。さらに、試しにこの環境浄化・心の浄化をしてもらいたいという方がいましたら、問い合わせ・申し込みの欄からお問い合わせください。どちらの金額もボランティア価格にて対応させてもらっています。

年金の第3被保険者制度廃止への賛否

 いよいよ年金制度におけるおおいなる不平等だと批判されてきた、第3号被保険者制度の廃止が政府内で本格的に検討されるという。政府、とりわけ財務省では喫緊の課題として取り組んできた、年金の第3号被保険者制度の廃止が、ようやく実現されようとしている。この第3号被保険者制度というのは、サラリーマンの妻(夫)で一定の収入以下であれば、夫(妻)の厚生年金(共済年金)の保険料だけを納付すれば、妻(夫)の年金保険料は免除されるという制度だ。主婦年金制度と呼ばれ、日本特有の年金制度である。

 何故、不平等だと批判されてきたのかというと、国民年金に加入している世帯では、この制度は適用されず、配偶者も年金保険料の納付義務があるからだ。サラリーマンの配偶者だけが、この恩恵を受けているのだ。どうして、こんな不平等な制度があったのかというと、昔は厚生年金に加入している夫の配偶者は国民年金に加入する義務があったのだが、殆どの配偶者が国民年金保険料を納付せず、年金未加入の配偶者が多数存在してしまい、大きな社会問題になっていたからだと言われている。離婚した高齢者が無年金になってしまう。

 社会保障をすべての国民に行き届かせるという意味では、確かにの社会的弱者である女性の高齢者が無年金になってしまうのは困る。しかし、年金保険料をまったく納付していない国民が、65歳になると無条件で基礎年金を支給されるというのは、社会的公正さという点においては、おかしい制度だとも言えよう。ましてや、年金保険料収入が少なくて、年金支給財源が枯渇しようとしている現代に、年金保険料が免除されているというのは、国民年金の加入者や共働き世帯の人たちには、納得の行かない話である。

 確かに、昔は男が外で働いて家族を養い、妻は専業主婦や時間制のパートタイマーで家族の世話をするという家庭が殆どだった。共働きで夫婦が共に社会保険に加入するという世帯が少なかった時代だった。専業主婦の妻の国民年金保険料を支払う余裕もなかっただろうし、離婚をするなんて考えられなかったから、将来に対する不安もないから必要性も感じなかったに違いない。そして、あまりにも配偶者の国民年金保険料の未納付が多くて、当時の厚生省は緊急避難的に第三号被保険者制度を考えたと言われている。

 しかし、これはあくまでも表向きの話である。殆どの法律の原案はキャリア官僚が作成するのであるが、彼らの本音は違っていたのではなかろうか。この年金の第三号被保険者制度と配偶者特別控除の税制と併せて考慮すると、その本質が見えて来る。当時のキャリア官僚たちは、高給を受け取り贅沢な官舎に住んでいた。余裕のある生活を送っていた。妻たちを働かせる必要はなかった筈である。しかし、教養や素質のある専業主婦の妻たちの中には、子育てを終わると仕事に就いて、社会参加をしたいと願う人も多数いたと推測される。

 世の中の男性の多くは、本音では女性の社会参加を望まない。出来れば家庭に妻を縛り付けて、家事育児に専念してほしいと思っている男が多い。ところが、高学歴で教養があり、能力の高い女性は家庭に収まることに不満を持ちやすい。子育てが一段落すると、仕事に就きたいと願い、外で働く承認を得る交渉を夫に持ち掛けた。キャリア官僚たちの多くは、働きたいという妻たちを家庭に押し留めるのに苦労したと思われる。それで考え出されたのが、年金の第三者被保険制度と配偶者特別控除の制度である。つまり、働きたい妻たちを無理やり家庭に留まらせるために作った苦肉の策なのである。

 キャリア官僚たちは、妻たちを家庭に閉じ込めるため、またはパートタイマーで低収入の働き方をさせるために、年金の第三者被保険者制度と配偶者特別控除の制度を作ったのであろう。妻たちが経済的に自立してしまうと、自分を見捨ててしまうのではないかと心配していたのかもしれない。女性を家庭に押し込めて自立を阻害する、女性蔑視の悪法であると言える。したがって、一刻も早く年金の第三者被保険者制度と配偶者特別控除は廃止すべきなのである。これらの悪法の本質をいち早く見抜いていたのは、連合会長の芳野友子さんである。芳野友子さんは岸田首相に強く働きかけて、年金の第三者被保険者制度を廃止させようとしている。女性の真の自立のための第一歩である。

学校からいじめがなくならない訳

 昨年度の不登校といじめ件数調査がまとまり、どちらも増加し続けていて過去最高の件数となったことが解った。不登校の人数が、なんと前年度比22%も増加し、29万9,048人となった。いじめの件数も前年度より6万件も増えて、68万1,948件になったという衝撃的な報道がなされた。不登校になった原因がすべていじめだとは言えないが、相当数の不登校に一因にいじめがなっているのは間違いないだろう。学校でのいじめは、増えているだけではなくて、益々過激化していて陰湿化している。SNSを利用したいじめも増えている。

 これだけ学校におけるいじめが問題になっていて、文科省、教委、学校がいじめを無くす対策を取っているにも関わらず、いじめが無くならないばかりか減りもしないのは何故なのか。いじめ対策が功を奏していない形になっているのは、どうしてであろうか。文科省、教委、学校のいじめ対策はまった不十分であると言えるし、本気でいじめを壊滅しようと関係者が考えているとは到底思えないのである。何故なら、いじめを受けている子どもへのサポートだけであって、いじめをしている子どもへの指導がまったく効果がないのである。

 いじめをする子どもに対して、厳罰化せよという声やなるべく早い段階で司法の手に任せるべきだという主張が多くなっている。確かに、それもひとつの有効ないじめ対策だと言えよう。しかし、学校というのは子どもの指導教育の場である。子どもを罰則の強化や司法の力を借りて解決するというのは如何なものであろうか。教師であるなら、しっかりと子どもと向き合うべきである。それをせずに厳罰化するとか司法に任せることで、困難なことから逃避するというのは、けっして許されることではない。

 いじめがなくならないのは、問題ある子どもを指導教育できる教師がいないということがひとつの要因であるのは間違いない。また、いじめをする子どもの保護者にも問題があるからいじめがなくならないとも言える。いじめをする子どもの保護者にいじめの事実を伝えると、自分の子に限っていじめをする訳がないと認めたがらないのである。うちの子はすごく良い子であるから、そんな悪いことをするとは考えられないと言う。それはそうだ、いじめをする子どもは、家では『良い子』を演じているのであるから、親も解りっこない。

 保護者があまりにも厳格で厳しく子育てをしている家庭において、家で良い子を無理に演じさせられている子どもは、学校でいじめをすることが多い。何故なら、家で我慢に我慢を重ねさせられていて、ストレスが溜まっているから、学校で羽目を外したくなり、弱い子に攻撃性を発揮してしまうのである。特に、保護者が高学歴で教養が高く、社会的地位の高いケースほどその傾向が強い。子どもの知能が高く、いじめが陰湿で巧妙ないじめになる。当然、いじめは表面化しないし長期化することが多い。

 問題なのは、不登校になる原因をいじめだと特定した割合は、予想外に低いことである。学校側における調査であるから信用できないとしても、いじめが原因で不登校になった割合は、わずか0.2%だとされている。教師との不適切な関係が原因で不登校になった割合も、1.2%だという。明らかに、恣意的な統計調査結果だということが判明できよう。これだから、学校は本気でいじめ撲滅のために努力しようとしないし、不適切指導を無くそうとしないのである。学校、教委、文科省が本気になっていじめを学校から追放しようとしたなら、少しは効果が出たかもしれないのだが。

 いじめを学校から完全に撲滅するには、日本の教育を抜本的に改革しなければならない。その抜本改革の方法とは、明治維新以降の日本に導入された近代教育の根本的誤謬を変えることである。客観的合理性と要素還元主義にシフトし過ぎた教育ではなく、主観的互恵性と全体最適主義を是とする価値観を基本にした教育への変革である。また、本来持っている人間の自己組織化する働きを信頼する教育でもある。システムダイナミックスを基本にした教育とも言えよう。さらに言うと、形而上学を重視した科学と哲学の統合、科学哲学という考え方も必要である。家庭教育も、学校教育もこのように変革できたなら、いじめや不適切指導は皆無となるに違いない。

カウンセリングの効果が現れない訳

 メンタル疾患は、身体疾患とは違って医学的治療によって良くなる例が極めて少ない。ある程度は投薬治療によって症状が抑えられることはあったとしても、完治するケースは稀である。だからと言って投薬治療を選択せず、適切なカウンセリングやセラピーを駆使したとしても、寛解するまでの道のりは遠いし、完治まで到達するケースは殆どないといいだろう。それだけメンタル疾患というものが、治りにくいということを医療の専門家たちは熟知している。何故に、カウンセリングやセラピーではメンタル疾患が治らないのだろうか。

 世の中には、優秀なカウンセラーやセラピストは沢山いる。そして、これらの専門家たちは様々な知識や技術を習得している。その道のプロフェッショナルである。その専門性は高くて、メンタル疾患になる原因や治す方法を熟知している。しかし、その治療効果はけっして高くない。それは、何故であろうか。その理由は、専門性が高いからである。不思議に思うであろうが、専門的知識に長けていると治療効果が逆に出ないのである。専門性が高過ぎると、その専門的知識に固執し過ぎるあまり、本当の原因とその対応策が見えなくなる。

 最近、大学病院や地域の基幹病院において、総合診療科という診療科目が激増している現実を知っているだろうか。大きな病院では、診療科が細分化されている。同じ内科でも、上部消化管内科、下部消化管内科、内分泌内科、循環器内科、血液内科等々列挙に暇がない。外科もしかりである。すべての診療科が細分化されて、専門性が高まっているのである。その為に、患者の診断名が確定しない為に各科をたらいまわしにされるという不都合な真実が起きている。それで、すべての診療科に精通した総合診療医が必要になったのである。

 専門性が高いというのは素晴らしいことである。ところが、診断治療する相手は人間である。専門性が高いということは、他の病気を知らないということになる。『木を見て森を見ず』ということが大病院の中で起きているのである。カウンセラーも疾患名や症状にとらわれ過ぎてしまい、人間そのものを観察し得ていないのではないだろうか。ましてや、メンタル疾患を患っている患者は、身体的症状をも抱えていることが少なくないし、独特のパーソナリティを抱えている。専門性が邪魔をして、真実が見えてないように思えて仕方ない。

 医療機関に所属しているカウンセラーは、日々時間に追われている。一人の患者に多くの時間を割く余裕はない。個人でカウンセラーをしている人たちは、一時間いくらという時間設定にして営業している。時間に余裕がなくて、じっくり傾聴をする時間を持てる筈がない。当然、中途半端な傾聴と共感になってしまうのは致し方ないことである。ましてや、カウンセリングを受けた人はおしなべて感じることであるが、優秀なカウンセラーであればあるほど対応が冷たく感じるのである。優秀なドクターのカウンセリングも同じだ。

 何故、カウンセラーやセラピストの応対が冷たいように感じるのであろうか。それは、クライアントの辛くて悲しい状況にあまりにも同情してしまうと、相手の感情に引きずられたり引き込まれたりするからだ。だからこそ、クライアントとの間の距離感を取らないと自分自身もメンタルが落ち込んでしまうように感じて、無意識で冷たい態度をとりがちになる。それは、自己防御の為であるから責められない。とは言いながら、クライアントへの感情移入をしないようにと意識し過ぎるあまり、冷たい態度だと感じさせてしまい、相手は信頼しない。効果が上がらないのは当然だ。

 メンタル疾患や精神障害に陥ってしまった方に対するカウンセリングは、まったく無駄なのかと言うとそうではない。効果のあがるカウンセリングも存在する。それは、森のイスキアの佐藤初女さんのようなカウンセリングである。初女さんは精神医療の専門家ではない。だからこそ、初女さんは利用者の診断はしないし、原因分析もしない。そして、利用者に助言もしないし、病んだ心を癒そうともしない。ただ、ひたすら利用者の声に耳を傾けるだけで、利用者が既に持っている答を自ら引き出せると信頼し、そっと温かく見守り寄り添う。勿論、利用者に引き込まれることを畏れず、とことん共感して『聴く』ことに徹する。唯一、効果の上がるカウンセリングとは初女さんのような方法だけである。

※付け加えますと、人間というのは本来『自己組織化』する働きがあります。カウンセリングというのは、その自己組織化する能力を信じて、その能力を引き出すだけでいいのです。メンタルを病んだ人たちは、その自己組織化能力が低下しています。それなのに、カウンセラーが信頼関係を作れず、介入や干渉をし過ぎてしまうと、さらに自己組織化を阻害してしまうのです。人体というのはひとつの全体性を持った『システム』なのです。システムや自己組織化という科学的な根拠を無視したカウンセリングが効果がないのは当然です。

こもりびとを卒業するには

 ひきこもりとは呼ばないで、『こもりびと』と呼ぶ人が増えているらしい。確かに、若い人たちが家に籠っているケースは、ひきこもりと言うよりもこもりびとと言う方が正しいのかもしれない。ましてや、自分のことをひきこもりだと言われるよりは、こもりびとと呼ばれた方がましだと言えよう。言葉のイメージとしてだが、ひきこもりよりも症状が軽く、こもりびとは乗り越える可能性がありそうにも聞こえる。深刻だというようなイメージがない分だけ、こもりびとというように呼ばれたいし、使いたい気持ちになる。

 しかし、残念ながらこもりびとはひきこもりと同意語であり、その深刻な状況には変わりないし、こもりびとから抜け出すことは難しい。一度こもりびとになってしまうと、社会復帰するのは困難を極めるケースが多いのも事実である。何年、何十年にも渡りこもりびとになってしまうことも珍しくない。そうなってしまう原因はというと、人それぞれであり様々な理由があげられる。しかし、殆どのこもりびとに共通している事がひとつだけある。それは、『愛着』に問題を抱えているということである。不安定な愛着を抱えているのである。

 こもりびとになった原因はというと、学校や職場においてショックな出来事、または悲惨な苛めやパワハラが起きたからだという認識をしている人が多い。その事件や事故によってトラウマになって、メンタルが落ち込んでしまい、不安や恐怖を乗り越えられず、こもりびとになってしまったと思い込んでいる人たちが殆どだ。しかし、本当の原因は別にある。それらのいじめやパワハラ、ショックな事件や事故はあくまでもきっかけでしかなく、こもりびとの原因は別にある。不安定な愛着が、こもりびとになった本当の原因である。

 こもりびとになった人は、精神的なケアを受けることを拒否してしまうことが多い。精神科の受診を拒むケースが殆どである。よしんば精神医学的なケアを受けたとしても、改善するケースは少ない。カウンセリングや各種セラピーを受けたとしても、こもりびとを脱却するまでに到達するケースは極めて少ない。何故なら、その治療はトラウマやPTSDを克服するためのものであり、不安定な愛着を改善するためのケアをしていないからである。原因を認識しようとせず、対症療法だけをしていては、完治しないし社会復帰は無理なのだ。

 だから、こもりびとは益々増加しているし、こもりびとを卒業する人がいないのである。それでは、こもりびとを卒業することは無理なのであろうか。そんなことはない、こもりびとを卒業して社会復帰することは可能である。不安定な愛着を克服して、安定した愛着を獲得すれば、こもりびとは乗り越えられるのである。不安定な愛着とは、言い換えると不安型愛着スタイルである。幼少期に酷い虐待やネグレクトを受けて育ったケースは、愛着障害と呼ばれる。そんなに酷い養育環境ではなくても、不安型愛着スタイルになるのである。

 例えば、養育者が突然変更になった場合である。母親の病気や仕事、または離婚により、母親から祖母や叔母に養育者が変更になったケースである。または、両親の不仲や離婚も影響を受ける。父親か母親がアルコール依存症やギャンブル依存症で、養育が不安定になったケースも同じである。さらに多いのは、両親から過度の干渉や介入を受けた場合である。あるがままにまるごと愛されるという幼児期体験を受けないと、自尊感情は育まれない。自己肯定感が確立されず、いつも得体のしれない不安に悩まされることになる。これが不安型愛着スタイルという症状である。

 不安型愛着スタイルを自分の力で克服するのは、極めて難しい。何故なら、不安型愛着スタイルというのは、安全と絆が喪失しているから、誰かが安全と絆を保証する『安全基地』として機能しなければならないのである。本来ならば両親のどちらかが安全基地になり、あるがままにまるごと愛するという育て直しをして、安定した愛着を確立するのが望ましい。しかし、現実的には両親がそこに気付くことは出来ないから、誰かが臨時の安全基地として機能しなければならない。そして、その安全基地が揺るぎない愛情を注ぎ続けたら、不安型愛着スタイルを克服して、こもりびとも卒業できるのである。誰でもこの安全基地になれるかというと、そうではない。深い愛情と限りない優しさを持った佐藤初女さんのような人しかできないのである。

 森のイスキアを主宰しておられた佐藤初女さんは、もうこの世にはいません。しかし、佐藤初女さんのような活動をしたいと志していらっしゃる方は、大勢います。佐藤初女さんのようになりたいと思っても、そう簡単になれる訳ではありません。まずは、自分自身が進化や成長を遂げて、自己マスタリーを確立して、高い価値観である形而上学に基づいて、天命を認識した言動を続けることが必要です。そのような学びを「イスキアの郷しらかわ」では支援しています。第二、第三の佐藤初女さんがこの世に生まれ、活躍することを祈って活動しています。

滝ヒーリング(魂の浄化)が起きた瞬間

 先日、何回目かのイスキアの郷しらかわの見学・研修会を開いた。その研修会は、初期研修の集中研修であり、2泊3日の日程で2回分の研修なのだが、時間的な余裕もあったので、参加者をオプションツアーとして滝ツアーにお連れした。農家民宿がある西郷村の近在には、滝がいくつかあり、そのどれもが素晴らしい景観を提供してくれる。そして、いずれもパワースポットとしての要素も兼ね備えている。予想した通りの結果になったのだが、5名の参加者は、滝ヒーリング(魂の浄化)を実証できたのである。

 第2日目の午後に少し時間に余裕があったので、隣町の下郷町にある「日暮らしの滝」に参加者たちを案内した。この滝は、地元の人にもあまり良く知られていなくて、訪れる人も少ない。以前は滝の近くまで行けたのだが、滝つぼまで降りていくアクセスの登山道が流されていて、危険なため柵が設けられている。以前に実地に確認して、初心者でも自己責任にて行けることが解っていたので、参加者たちをエスコートして滝つぼまで連れて行った。その見事な迫力ある滝の流れ落ちる姿に、見る人が圧倒されたのは言うまでもない。

 全国的なに有名な名瀑と呼ばれる滝は、殆どが危険防止と環境保護の為に、滝つぼの近くまでは行けなくなっている。したがって、遠くから眺めることしか出来ないし、ましてや瀧の飛沫を浴びるほど近くまで行くことは叶わない。この日暮らしの滝は、3段になって滝が流れていて、近くで眺めるとすごいパワーを感じるし、飛沫から受けるマイナスイオンがすさまじい。そして、その滝の近くでしばらくたたずんでいると、その癒し効果に唖然とする。自分の心が解放されるというのか、魂が打ち震える感覚が味わえるのである。

日暮らしの滝

 その後、さらに滝巡りは続く。今度は西郷村の甲子(かし)遊歩道にある「熊の滑り台」という滝を案内した。この滝は、ただ眺めるというよりは体験する滝というべきなのかもしれない。熊の滑り台と呼ばれるように、まるで熊がその場所で滑って遊ぶかのような滝である。勿論、人間だってその滝に入り込んで遊びたくなる。小さな子どものようにはしゃぎたくなる場所だ。参加者たちも、誰に薦められることなく、いきなり靴を脱ぎ捨てて、滝の中で遊びまわったのは当然である。インナーチャイルド全開状態となった。

熊の滑り台

 翌日の午後からは、棚倉町の山本不動尊をお参りした。このお寺は、弘法大師空海ゆかりの真言宗のお寺で、本堂に安置されるご本尊は阿弥陀如来であるが、川向うの石段を昇った高い霊窟にある本尊が不動明王であり、地元の人々には山本不動尊の愛称で呼ばれ親しまれている。弘法大師空海がこの霊窟において、護摩壇を築いて護摩炊きを行ったと伝わり、霊験あらたな霊場として多くの参拝者を呼び寄せている。この護摩壇の近くには弘法大師の像も安置されていて、パワースポットとしても人気が高い。

山本不動尊

 この山本不動尊のパワースポットで、参加者たちは十分なエネルギーを受け取った後に、いよいよ最後の「江竜田の滝」を訪れた。そこで、驚くような不思議な出来事に遭遇するとは予想だにしなかった。まずは、到着寸前の際に車のフロントガラスの目の前にキジが現れたのである。キジは滅多に人前には現れない。キジは古来より神の使いと言われていて、近寄ってくる場合はこの後に幸運に恵まれるとされている。また、滝の上空は晴れているのに、虹が見えてその近くには龍雲が現れたのである。まさに奇跡が起きたのだ。

 参加者たちは、江竜田の滝の迫力に圧倒されるだけでなく、深く内観したみたいで、じっと滝を眺めていた。そのうち、参加者たちは大声で号哭しながら、お互いに抱き合っていた。自分の辛くて苦しくて思い出したくなくて封印した過去を、表出させてしまったようである。おそらく、泣くことさえもできない悲しい過去をないことにして仕舞い込んでいたと思われる。今回の研修で、佐藤初女さんの癒し、自我と自己、自己マスタリー、形而上学、愛着、母性愛と父性愛、等々を学んでいたせいもあるが、両親と自分の関係を素直に振り返ることが可能になったと思われる。まさしく、滝からの癒しと魂の浄化が実現した瞬間でもある。

江竜田の滝

以前のブログでも「滝と龍と私」という題名でブログを書いたが、まさしく滝つぼに住み遊ぶ龍に誘われて自分の心に存在する龍(自我やインナーチャイルド、または過去)が表出し、それを認め受け容れ慈しんであげたことで、魂が浄化されたに違いない。佐藤初女さんを目指している方々だからこそ、それが可能になったのかもしれないが、滝ヒーリングの効果が確認された瞬間である。

父原病こそが母原病の根本原因

 母原病という深刻な病気が、子どもの正常な精神発達や人格形成を阻害してしまうということで一時期問題になった。この母原病によって、不登校やひきこもりまで起こしてしまうとまで言われて、世の中の母親たちは言われなきバッシングを受けた歴史がある。最近は、母親に子どもの問題の原因を押し付ける風潮は少なくなってきたものの、子育ての失敗は母親が原因だと思い込んでいる人は思った以上に多い。今でも、子どもの教育問題が起きると、教育はすべてお前に任せていたのだから、お前が責任を取れと嘯く夫がいかに多いことか。

 世の中の父親の多くは、仕事が忙しいからと子育てから逃避してしまう。そして、妻に子育てを任したと宣言して、自分の趣味や娯楽に没頭する夫がすこぶる多いのである。そこまでではなくて、学校行事にも積極的に参加するし、普段は子どもの面倒を見る夫もいるが、子育ての重要な局面になると腰が引ける。そして、母親だけに子育ての責任が押し付けられるのである。したがって、母原病と呼ばれるような子どもの症状は、元々母親に原因があるのではなくて、父親にそもそもの根本的原因があるのではないだろうか。

 母現病というと、母親が子どもにべったりで、子どもに依存してしまい、逆に子どもが母親に依存してしまっている状況で起きると思われている。つまり、母親があまりにも子どもを過保護扱いにしてしまい、子どもが自立できなくしてしまっていると思い込んでいる人がなんと多いことか。そして、主体性・自発性・責任性がない子どもに育てたのは、母親にすべて原因があると勘違いしているのである。しかし、真実はまったく違うのである。確かに、母親が子どもに対してそうしてしまった部分はあるものの、そうさせられたのに違いない。

 母現病になってしまい、依存性が強くて自立できない子どもは、学校でもいじめの対象になったり社会に出ても使えない人間だと蔑まれたりすることも多い。それは、母親が子どもを甘やかし過ぎて過保護状態にして育てた為だと思われている。しかし、実際はそうではない。母親が過保護の子育てをしても、何も問題が起きることはない。どんなに甘やかしても子どもは健やかに育つ。悪いのは、過干渉と過介入の子育てであり、支配したり制御したりする育て方をした場合である。そして、母親が強い不安感や恐怖感を抱えているケースである。

 母親が強い不安や恐怖を抱えて子育てしてしまうのは、父親に原因がある。そして、子どもに対して強い過干渉や過介入を繰り返してしまうのも、父親の行動に根本的な問題があるからである。強い支配され感や所有され感を子どもが持ってしまうのも父親に責任があるのだ。何故かと言うと、父親が本来果たすべき子育ての責任を放棄しているからである。そもそも母親が安心して子育てが出来る為には、何かあればすべての責任を父親が果たすからと宣言して置かなければならない。その宣言を今の父親はしていないのである。

 母親というものは、子育てする際に大きな不安を抱くのが普通である。そういう不安を抱いたとしても、父親が子育てに参加してくれて、最終的な結果責任を父親が果たすと言ってくれたなら、母親の不安が安らぐ。そして、父親である夫がまるごとあるがままに妻を愛してくれたなら、妻は安心して子どもに無条件の愛である母性愛を注げる。条件付きの愛情である父性愛(躾)を父親が担当してくれたなら、母親は子どもをあるがままにまるごと愛せるのである。そうすれば、子どもは安心するし自己組織化が進むので自立できる。

 夫が妻に対する行動において、起こしてしまう大きな過ちがある。夫は、妻を所有したがるし支配をしやすい。自分が思うように妻をコントロールしてしまうのである。意識してそうしている訳ではなくて、無意識下でそうしているのである。自分の思うような言動をした際に、不機嫌な態度をしたり無言になったりする。そうすると、妻は夫を不機嫌してしまったことを悔やみ、自分さえ我慢すればといいと思い込み、夫のご機嫌取りを続けてしまうのである。かくして妻は自由を失い、元気を無くしてしまい、人生を心から楽しめなくなる。このような状況に陥った母親が、子どもをあるがままにまるごと愛せる訳がない。つまり、子どもが母原病になる根底には父原病があると言える。

得体のしれない不安を感じる訳

 不安の時代だと言われる現代は、それ故に生きづらいと感じる人々が想像以上に多いと考えられる。不安から不眠になって不安障害を抱えてしまい、気分障害の精神疾患を抱える人も少なくない状況になっている。この不安は、現在の仕事や学業に対する不安、将来の経済的な不安も問題なのだが、得体のしれない不安はより深刻である。何故なら、具体的な対象に対する不安であれば、何とか解決しようとする対策も取れるが、得体のしれない不安だけはどうしようもないからだ。この得体のしれない不安を抱えている人が非常に多いのである。

 得体のしれない不安ほどやっかいなものはない。何か具体的な不安であれば、対応の仕方も考えられる。しかし、自分の抱えている不安が何なのか、何故こんなに不安なのか、まったく見当が付かないだから、どうにもならないのである。何かに対する恐怖というのは、まだましなのだが、人に説明できない不安は、どうしようもない。ましてや、何故こんな得体のしれない不安を抱えるのか、原因も解らないのだから対処もできない。そして、この得体のしれない不安は、一向に弱まることをしないし、止むことなくずっと続くのである。

 それでは、この得体のしれない不安の正体とそれが起きる原因について分析していきたいと思う。誰しもこの得体のしれない不安を抱えているのかというと、けっしてそうではない。特定の気質や養育環境に置かれた人だけが、この得体のしれない不安を持つことになる。まずは、脳科学的に検証すると、オキシトシンホルモンの分泌が不足しているのは間違いないと考えられる。オキシトシンホルモンが不足してくると、不安や恐怖が湧いてくる。安心ホルモンと呼ばれていて、このホルモンが不足すると安心できないのである。

 それでは、何故このオキシトシンホルモンが不足する人になるのかというと、オキシトシンホルモンのレセプター(受容体)が乳幼児期に作られていないみたいである。どういうことかと言うと、オキシトシンホルモンレセプターは、生まれてから3歳くらいまでに作成されると言われているが、何らかの原因で『愛着』が不安定になると、このレセプターが作られないと言う。このレセプターが作られていないと、いくらオキシトシンホルモンが脳内で作られても、受け取れないからこのホルモンが作用されず不安になってしまうのである。

 愛着が不安定になるのは、養育期に何らかの理由で養育者が居なくなったり変更になったりした場合である。または、ネグレクトや虐待によってもレセプターが作られない。さらには、まるごとあるがままに愛されるという体験が不足しても同様のことが起きる。つまり無条件の愛である母性愛が不足して、過介入や過干渉の子育てをして、子どもが支配され感や所有され感が強くなっても、オキシトシンホルモンレセプターが作られない。そうすると、絶対的な自己肯定感が確立されなくて、いつも強い自己否定感に苛まれる。

 このように自己否定感が強いパーソナリティを持ってしまうと、何をやるにしても不安になりチャレンジする気持ちが失せてしまう。ちょっとした失敗や挫折がトラウマ化しやすい。他人からの評価をとても気にしていて、自分が他人からどう見られているかがいつも気になる。また、オキシトシンホルモンが不足していると、神経が過敏になると共に心理社会的過敏になる。つまり、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)になってしまうのである。こういう気質が基になって、なおさら得体のしれない不安に追い込まれるのである。

 得体のしれない不安を持ってしまうのは、自分をまるごと愛してくれて守ってくれる存在が居なくなってしまうのではないかという不安を抱えて、乳幼児期を過ごした人である。この見離され不安や見捨てられ不安は、根強く残ってしまう。得体のしれない不安を抱えている人は、突き詰めていくと見離され不安や見捨てられ不安に行き着くのである。これが得体のしれない不安の正体である。そして、その原因は不安定な『愛着』によるオキシトシンホルモン不足にあるのだ。それでは、この得体のしれない不安は一生改善しないのかというと、そうではない。自分をまるごと愛してくれて守ってくれる安全基地という存在が出来て、穏やかで平和な生活が続けば、やがて得体のしれない不安が解消される。