恋愛臆病症候群

今時の若者は、恋愛をしたがらないらしい。どういう訳なのか、恋愛をしたいと思わないという。したがって結婚も出来ないし、これでは子孫さえ作れない。現在のすべての若者がそうだとは言わないが、恋愛に対して臆病な若者は、想像以上に多いらしい。そして、自宅から独立せず、親の元でパラサイトの状態になっている若者が急増している。私たち中高年齢者から見たら、信じられないような態度である。いつも恋愛に憧れていた私らの若い頃と比較してみると、大変な違いだと思える。青春時代に恋をしたいと思うのは、誰しも同じだと思っていたのに、こんなにも恋愛に臆病な若者が多いのは実に不思議である。

さて、若者は恋愛に対して何故に臆病なのであろうか。多くの評論家たちは、それは若者たちが恋愛に失敗したり恋人に裏切られたりして、自分が傷つくのを恐れているからという分析をしている。または、自分自身の駄目な所や嫌な所が知られることにより、愛想を尽かされるのを極端に不安視しているのではないかという分析をしている人も多い。そして、昔は一刻も早く親から独立して独り暮らしをしたいと思っていたのに、今は親元から離れようとしない若者が増えているのである。家から独立せず、恋愛をしようともしないこれらの若者たちは、恋愛臆病症候群と呼べなくもないだろう。

面白いことに、これらの恋愛臆病症候群の若者たちは性衝動もないかというと、以外にもそうではないという。恋愛には臆病ながら、性行動は大胆に実行するというのだ。それも、恋愛感情のない相手とならば、平気で性交渉を行うというから信じられない。好きで好きで溜まらず、相手のすべてが欲しくて身も心も一体になりたいからと性衝動が起きると思うが、そういう相手には愛の告白さえ出来ず、性交渉も出来ずにいるらしい。本当に好きな相手に愛を告白したり性行動を起こして、もし万が一にも拒否されたら自分が傷付くと思い、行動に移れないと想像される。でも、嫌われてもいいと思うような相手となら、一夜を共にすることさえ平気らしいのだ。

そうすると、どうやら当世若者たちの深い心理状態が見えてくる。つまり、彼らの恋愛臆病症候群は、性的に未熟であったり性的欲求がなかったりするからではなく、精神的な未熟さが原因だと言える。言い換えれば、自己肯定観の未成熟さから、人から嫌われたり否定されたりすることを極端に避ける傾向があり、恋愛に対して臆病になっているということになる。今の若者たちの特徴的な傾向は、自己肯定観が低いばかりに極端に歪んだ自己愛に充ちていて、自分の異常な万能感という変なプライドに支配されている。だから、人から注意されたり叱られたりすると、極端に落ち込んだり逆切れをしたりするのであろう。実に精神状態が幼稚なのである。

それでは、恋愛に対して臆病なのは自分が傷付くことが怖いからというなら、何故そういう心境になるのであろうか。昔の若者と今の若者の心情は何が違うというのだろうか。そして何故、自己肯定観が低いのであろうか。真の自己肯定観をしっかり自分に根付かせる為には、真の自己確立が必要と考える。つまり、自我(エゴ)を克服して、自己を確立する経過を経なければ、たとえ自分が否定されたり拒否されたりしても、けっして揺るがない自己肯定観を確立することは出来ないのだ。つまり、真の自己証明であるアイデンティの確立こそが必須なのである。

ところが、今の若者たちは自己の確立が出来ないばかりか、自我の確立さえ出来ない者もいるという。つまり、親子の精神分離さえ出来ず、親離れ子離れが出来ずにいるのである。そんな若者であるのだから、相手の複雑な気持ちを汲み取りながら、自分の欲望との折り合いを図りつつ、二人の愛を育むというような複雑なプロセスを踏める筈がない。しかし、人間というのは、狂おしく眠れず食べ物も喉を通らないような思いをしながらも、恋愛を経験して行かないと、精神的な成長を遂げることが出来ない。何度かの恋愛を繰り返しながら、人はいろんなことを気付き学ぶものである。勇気を出して傷付くことを恐れず、恋愛臆病症候群を乗り越えてほしいものである。若者だけでなく、中高年者も同じだと思う。一度や二度恋愛・結婚に失敗したからといって、恋する気持ちを捨ててはいけない。

パニック障害を克服する

パニック障害で苦しんでいらっしゃる方は少なくいと思われる。この障害の苦しみと辛さは、当の本人しか解らない。誰にも解らない不安や恐怖感を、何故かは知らないけれど感じてしまう。そして、動悸や絞めつけられ感などのパニック発作が起きる。そのパニック発作が起きるきっかけは、狭所で起きる人もいれば、広い環境で起きる人もいる。ほんのちょっとだけ高い処から下を見下ろすだけで起きることもあれば、人込みが苦手だという人もいる。自分が安心する環境ではない処に入り込んだだけで起きるのだから、厄介である。したがって、パニック障害はいつ起きるか解らず、さらに不安と恐怖が強化されてしまうのである。

 

パニック障害が重症化すると、家庭に引きこもるしかなくなる。なにしろパニック発作が何時起こるか解らないのだから、外に出るのが怖いのだ。したがって、日光を浴びることもなくなるし、運動からも遠ざかるので、益々パニック障害の固定化が起きるのである。薬物治療や心理療法などの医療を受けると、ある程度症状が緩和されることもある。特に、認知行動療法は効果があると言われている。しかし、薬物療法は副作用が起きるケースもあるし、認知行動療法の効果はあるものの、完全治癒までの道のりは遠い。

 

さてパニック障害になる原因は何かというと、様々である。以前は心の病気だと思われていたが、医学的研究が進み、脳の神経学的な誤作動によるものだと言われている。パニック障害を起こす人は、過剰なプレッシャーやストレスを抱えていることが多い。それも中途半端なプレッシャーではなくて、自分にとって乗り越えるのが困難なレベルである。ストレスもかなり大きいだけでなく、多重ストレスのケースが多い。そして、それらのプレッシャーやストレスがかかる課題に対して、頑張り過ぎてしまっている場合に起きやすい。

 

人間は過大過ぎるプレッシャーや加重なストレスに長い期間さらされると、自律神経のバランスを崩して、交感神経が過大に緊張してしまう。そうすると体内のネットワークが誤作動を起こしてしまい、大脳辺縁系の異常や前頭前野の機能低下も起きるらしい。それ故に、不幸感が大きくなると共に、不安や恐怖感が増大してしまうと言われている。さらには、脳の機能が低下してしまい、正常な認知が出来なくなりさらなる誤作動を起こすのであろう。これらの度重なる誤作動が、パニック発作を起こしてしまい、正常な判断ができなくなるのではないかと見られている。これがパニック障害の起きるシステムだというのが定説になりつつあるらしい。

 

したがって、これらの誤作動を正常に戻すことは、大きな困難を伴うことになり、薬物治療の効果も限定的であり、長期間の治療が必要になるのであろう。今までは、セロトニンの分泌が少なくなってこのようなパニック発作が起きると考えられ、セロトニンを増加させる薬物治療をしてきた。しかし、最近はセロトニン不足だけが原因ではなく、オキシトシンという脳内神経伝達物質の不足がパニック障害の発症に関わっているということが判明してきた。したがって、このオキシトシンというホルモンを正常に分泌させるようにすれば、パニック発作が抑えられることが証明されつつあるらしい。

 

このオキシトシンの分泌を増やして、パニック障害を乗り越えた人も実際にいる。諏訪中央病院の名誉院長で、『がんばらない』等多数の著書で有名な鎌田實医師である。先生は、若くして諏訪中央病院の院長に大抜擢された。過度の期待に応えようとして、多大なプレッシャーを感じてしまい、必要以上に頑張り過ぎてしまったという。そうすると、結果を出せないのではないかとの不安と恐怖から、パニック発作を起こしてしまい、かなり苦しんだという。それでも、彼は自分で工夫して何とかこのパニック障害を乗り越えた。その方法が、オキシトシンを増やす生活であり生き方であったという。

 

どんな方法かというと、自分の幸福や豊かさを求める生き方ではなくて、患者さんを含めた周りの人々の幸せや心の豊かさを追求する生き方を徹底したという。どうしたら、自分の全精力を地域の人々の幸福実現のために注げるかを考え、病院の大改革と職員の意識改革に臨んだのである。さらには、患者さんや地域とのふれあいを大事にして、関係性を豊かにすることを求めたのである。最初から結果を過度に求めず、自分を信頼し「がんばらない」生き方を実践したのである。オキシトシンを増やすヒントがここに隠れている。生きる上でのその人の価値観が大切だということである。

 

イスキアの郷しらかわは、この大切な価値観である、『システム思考』を学ぶ場である。パニック障害を克服することは可能である。イスキアでは、パニック障害が起きる仕組みとそもそもの原因、それを乗り越える方法を詳しく解説している。オキシトシンを増やす価値観とその方法を研修することが出来る。パニック障害に苦しんでいる方は、まずは問い合わせしてみてほしい。

依存症からの完全離脱

政府調査によると、ギャンブル依存症が推計で320万人するという驚きの結果が出た。これは対面調査によるもので、現在の依存症の数ではなくて、過去も含めて一度でもギャンブル依存症になった経験を問う調査である。したがって、現在の依存症の実数ではないものの、かなりの数のギャンブル依存症が存在していることが明らかになった。しかも、フランス、イタリア、ドイツなどの先進諸国と比較するとかなりの高率になることも解った。厚労省としても、何らかの依存症対策が必要だとしている。

 

世の中の人間がはまってしまう依存症は、他にもたくさん存在する。アルコール依存症、薬物依存症、ニコチン依存症、糖質依存症、買い物依存症、スマホ依存症、ネット依存症、SNS依存症、ゲーム依存症、浮気依存症など、生活を劣化させたり人生を破綻させたりしてしまう依存症が沢山ある。DVやいじめなども、一種の依存症だとする研究者もいる。これらの依存症は、本人の自覚がないケースも少なくないし、依存症から抜け出すことが非常に困難な例が多い。したがって、大きな社会問題として注目されている。

 

依存症から抜け出すためには、依存症になる原因を特定して、その原因を排除しなくてはならない。依存症になる原因は、いろいろあると言われている。脳神経学的に言うと、ドーパミンやβ-エンドルフィンの脳内神経伝達物質に依存してしまうことで起きると言われている。または、遺伝子に問題があり、先天的なものだと主張する人もいる。さらには、家族に問題があって、乳幼児期からの子育てに原因があると説く人もいる。いやいや、やはり根本原因は本人の性格や人格にあり、物事に対する考え方や認知傾向に問題があるから依存症になると言う人もいる。残念ながら、これだという原因を特定できないでいるのだ。

 

このように、依存症になる原因を特定できなければ、この原因を取り除くことが不可能である。いずれにしても、依存症は単なるその人の癖や嗜好ではなく、心の病気であると認識すべきだと言われている。したがって、治療をしなければ治癒しないということである。だが、医療機関を受診したとしても治療をしてくれる医療機関も少ないし、その治療効果も限定的だとも言われている。ところが、自分の努力によってこの依存症から離脱している人もいる。これらの改善例を詳しく分析すれば、依存症から離脱できそうな気がする。

 

依存症から離脱したケースにおいて、どうして離脱したのかを聞き取ると、家族や友人、またはパートナーによる励ましや支援があったと殆どの人が答える。それも、押し付けの態度による支援ではなくて、傾聴と共感、そして自己否定感を起こさないような、心温まるサポートだったという。つまり、支援者自身の損得や利益のための支援ではなくて、あくまでも依存症自身の幸福のためを願い、何を求めずただ与えるだけの支援だったという。それも、上から目線の支配や制御のサポートではなくて、博愛・慈愛・慈悲の支援だけが離脱の効果を現したというのである。

 

これらのケースから言えるのは、依存症の根本的な原因とは、もしかすると愛情不足にあるのではないかということである。いや、私は家族やパートナーから愛されていると主張する依存症の人がいるかもしれない。しかし、よく考えてみてほしい。それは、支配や制御のための見返りを求める愛ではないだろうか。何も求めず与えるだけの純愛に飢えていたのではないか。依存症に陥るのは、心の中に何かぽっかりと空いた「飢え」がある場合である。何か満たされない何かがある場合、その満たされない何かを埋めるために、代替の何かに心が惹かれるに違いない。

 

愛情不足に陥ってしまっているのは、周りの人々のせいではない。突き詰めていけば心から愛されない自分の性格や人格に行きつくように思う。人々から信頼されず、心から敬愛されないのは、自分の価値観、または哲学や思想が低劣で低俗であるからだ。回りの人々から博愛・慈愛・慈悲によって満たされないのは、自分がそのような愛で人々を幸福にしていないからに違いない。このことに気付かない限り、依存症からの完全離脱はあり得ないのである。イスキアの郷しらかわでは、依存症の完全離脱のためのプロセスを支援している。何故依存症になるのかを詳しくレクチャーする共に、完全離脱の研修プログラムを実施させていただこうと思っている。依存症で苦しんでいる人は、まずは問い合わせフォームから相談してみてほしい。

DVがなくならない訳

夫を持つ妻や恋人を持った経験のある女性のうち、DV(ドメスティックバイオレンス)を1度でも受けた人は、全体の25%に上ることがアンケート調査の結果判明したという。そして、何度も繰り返してDVを受け続けている女性も、かなり多いということが解ったらしい。しかし、これだけで驚くのは早計と言わねばならない。何故なら、ここでいうところのDV被害は、あくまでも実際の暴力行為であり、手や足などを用いたDV以外のDVである、暴言や無視の態度によるDVは含まれていないからである。このような言葉や態度の暴力を含めたら、おそらく半数以上のカップルにDVが起きているに違いない。もしかすると、8割以上のカップルに存在するのではなかろうか。

近年、男性側からの離婚申し立てはあまり増えていないが、女性からの離婚申し立てが急増しているらしい。その離婚理由のうち、DV被害もまた急増しているという。最近話題になったモラハラも離婚の原因として増えている。どうして、こんなにもDV被害が原因による離婚が増えているのであろうか。男性側としての言い分は、DVは愛情表現のひとつだとか、妻を指導教育する一環として、厳しい言葉を投げかけているだけだから、けっして言葉の暴力には当たらないと主張している例が多い。離婚を申し立てられた男性に聞くと、まったく自分には心当たりがないというらしい。女性は既に愛がすっかり冷めているのにも関わらず、男性側では今でも愛していると未練たっぷりの態度を取るという。

DVだと認識していないことといい、妻の気持ちをまったく理解していないことからも想像するに、夫である男性が自己中心的でかなり身勝手であるということである。これは、特定の男性だけの特徴なのではなくて、世の中の大半の男性がそうだと言える。離婚までは行かなくても、横暴で身勝手な言動をする夫に対して、我慢に我慢を重ねている妻は、想像以上に多いという。その証拠に、夫が定年後に熟年離婚に踏み切る妻が非常に多いという現実がある。そう言えば、SNSでブログやコメントに対する批判的なコメントをするのは圧倒的に男性であり、空気を読めないばかりか、他人に対して批判的態度を取る例が実に多い。共感的なコメントをする男性は極めて少ないと言ってもいいだろう。

それでは、家庭内で夫は妻に対していつも横暴で冷たいのかというと、けっしてそうではない。実に優しい態度をすることもしばしばである。例えば、バースデーやクリスマスのプレゼントを欠かすことなくしているし、度々映画館やレストランに誘うし、旅行にも連れて行きたがる。だから、そういう優しい態度を見せることもあることで、DVを我慢する妻がいるのだ。男性は、DVをしてしまうという一面と一方では優しい思いやりを示す一面の両面の人格を有しているのである。そして、間違いなく妻を好きで堪らないし、暴力を振るうのは、相手が嫌いだからという理由ではないのである。勿論、不機嫌な態度をしたり無視したりする態度をするのも、けっして愛してないからという理由ではない。

つまり、夫が妻に対してDVとか、態度や言葉の暴力を振るうのは、相手が嫌いになったとか憎んでいるという理由ではないのである。愛するが故に、自分の思い通りの妻になってほしいと無意識で願い、DVや態度の暴力を用いて、支配と制御をしたがるのである。自分の所有物だと勘違いして、意識することなく独占したいとか自分の思い通りの操り人形にしたいと、DVや態度の暴力というツールを用いるのである。それは、本当の愛ではない。単なる自分にとって都合の良い妻を飼育しているだけであり、人間としての尊厳をまったく認めていないという態度である。暴力で妻を支配するなんて、人間として最低である。とは言いながら、妻はDVを受けるとつらい気持ちになるし、中にはこんな目に遭うのは自分がいたらないからだと自分を責めるケースもあるらしいのだ。許せないし、やるせない。

何故、そんな男性ばかりなったのかというと、客観的合理性を重視した近代教育の影響であろうと思われる。相手を客観的に観るということは、相手の気持ちに共感出来ないということである。自分に取って都合の良い解釈しか出来ないし、相手の気持ちになりきった心を持つことが出来なくなるのである。つまり、近代教育は身勝手で自己中心的な人間を育ててしまうのだ。勿論、男性ばかりではなく女性もそういう傾向になるのだが、脳の構造的特徴から、女性よりも男性のほうが強く出るらしい。思想教育を廃した近代教育を長い期間受けた、高学歴の人ほどその傾向が強いし、収入の多い職業でしかも会社で評価の高い人ほど身勝手な夫になる例が多い。DVを無くす為には、価値観の学習や高い思想を得る形而上学の教育を受けるしかない。高い価値観を持った人間は、人が嫌がることをしないし、温かい態度を取り真の優しさを持つ。DV被害を無くすには、高い価値観の教育しか方法がないということである。

NHKスペシャル人体が面白い

NHKスペシャル「人体」の新シリーズが始まります。そのプレ放送が9月30日の土曜日9時から放映されます。その中で、驚くような内容が明かされます。人間の体内に存在する各臓器・細胞は、それぞれ精密機械のようにエラーを起こすことなく活動しています。それは、脳及び神経系統からの指示命令があったうえで、それぞれが過不足なく活動しているものと思われていました。ところが、そういう事実がまったくないということが解明されたのです。

つまり、各臓器や細胞は誰からも命令や指示を受けていなくて、それぞれの臓器や細胞とネットワーク化されていて、自らの意思で最善の活動をしているということが判明したのです。まるで、それぞれの臓器・細胞が意思を持っているかのように、お互いにバランスを調整しあいながら、人体全体が最適化するように動いているということなのです。つまり、臓器・筋肉・骨格・細胞などあらゆる人体を構成する要素が、過不足なくお互いを補完し合いながら、最善最適の状態を保てるように活動しているのです。しかも、それが自主的に、自発的に、主体的にです。

実は、この事実は最先端の医学研究では数年前から常識でありました。しかし、意図的というか実際の医学現場ではあえて触れられなかったのです。こういう事実が判明してしまうと、近代西洋医学の考え方が否定されてしまうからです。元々人間本来の機能として、人間の心身を最適化しようとする働きがあります。その最適化する働きを近代西洋医学は無視して、その機能を阻害するような薬や注射を開発してきたのです。日本の東洋医学は、既にその各臓器や細胞の働きを経験的に認知していましたから、その働きを補助したり活性化するような治療をしていたのです。

いずれにしても、人体という完ぺきなひとつの全体は、それぞれの構成要素が全体最適の為に、昼夜なく忠実に自らの意思によって働き続けているのです。それも、お互いの「関係性」によってです。その関係性が崩れた時に、病気や障害が起きるのです。人間は身体と心が一体です。身体と心の関係性が劣化したり悪化したりしたときに、疾病が発症するというように考えたらいいと思います。ですから、人体はひとつの「システム」として認識しなければなりません。ひとつの歯車が狂っただけで、全体が影響を受けるのです。このシステムを上手く動かすコツは、全体最適と関係性です。人体だけでなく、社会全体も全体最適と関係性を大切にしていかなければなりません。すべて、「システム」なのですから。

NHKスペシャル人体

『君の名は。』で描く量子力学の世界

新海誠の大ヒット作映画『君の名は。』がBDとDVDで発売され、販売とレンタルでも評判になっている。映画の公開当初は、面白くないと酷評する人と絶大な評価をする人で二極化していた。しかし、最初は映画の意図が解らなかった人も、その魅力を知ることになり、絶大な人気を博した。それが、今度はBDとDVDでも観られるようになり、また『君の名は。』ブームが再現したという。映画で2回鑑賞して大ファンになった自分も、また観て見たい誘惑にかられている。それだけ、この映画の魅力にはまってしまった一人でもある。映画のストーリーも良いし、この映画にベストマッチしている音楽も最高である。なにしろ、描いている世界観が実にいいのだ。

新海誠監督は、この映画で何を描きたかったのであろうか。映画を観た時に、これは量子力学の世界を描いていると直感した。新海監督もある雑誌のインタビューで、まさしく量子力学の世界を描こうとしたと明かしている。単なるラブストーリーを描いたのではなく、時間軸と次元の無限性をも表現したかったと見るべきなのかもしれない。この現実は実体ではなくて、すべては「むすび」という関係性で成り立っているということ、さらには我々が実体だと思っているこの現実や過去もまた私たちの意識が作り出しているに過ぎないということを言いたかったと思われる。人間や宇宙の根源に関わる問題を、この映画で描き出そうとしたのではないだろうか。

この映画のテーマは「むすび」である。このむすびというのは、漢字表記では産霊(むすび)となる。誕生や生成、合体や統合も意味するし、出会いも含まれるであろう。巫女である祖母の一葉は、むすびは出会いや別れも意味すると説明している。彗星が分れたのもむすびであるし、あらたに産まれた隕石もまたむすびなのであろう。この物語の地方では黄昏時のことを「かたわれどき」と呼んでいる。たそがれとは「誰そ彼」から出た言葉であり、薄暗闇で誰か解らないという意味だと言われている。しかし実は「自分と他人の区別がつかない時間」をも意味しているのではあるまいか。元々、我々は『自他一如』であり、相手と自分は一つである。この「かたわれどき」に私たちは他人との区別がなくなり、元々ひとつであったものが再び交わるひとときを、このように表しているように思う。

「むすび」とは、関係性とも読み解くことが出来ると思われる。量子物理学においては、素粒子どうしの関係性によって、物体が成り立つし、人間の意識によってそれが変化するということが実験によって確認されている。宇宙そのものも、システムという関係性により成り立っているし、我々の社会もまた関係性により成立していて、全体最適を目指している。関係性がなければ、我々人間そのものが、この宇宙には存在しえない。したがって、この映画でいう「むすび」が、すべての生き物だけでなく物質の根源だと捉えることができよう。新海誠は、この映画で「むすび」という言葉を使って、我々に関係性の重要性を示したかったのではあるまいか。

現代は、関係性が希薄化していると言える。身勝手で自己中心的な人間が増えているせいか、自分の損得を考えるあまり、他人への思いやりにかけるきらいがある。自分の利益だけを考え、利他の心が忘れ去られている。当然、相手との関係性は悪化して、家族、会社、地域、国家などのコミュニティが崩壊しつつあると言われている。人々は人間本来の生き方である、良好な関係性と全体最適性を求める人生観を忘れ去っているように思える。しかし、人間の潜在意識は関係性の大切さをけっして忘れていない。だからこそ、深層無意識においては、他人との関係性を求めているのである。関係性の大切さを切々と説いているこの「君の名は。」という映画に、人々はこんなにも熱狂するのであろう。

この世界は多元宇宙によって複雑にからみ合っていて、時空間が交わり合うことで、質量を持たない素粒子どうしが、時空の違う世界に存在するであろう質量を保証する素粒子との関係性によって物質が存在するのではないかと考えられている。前世での出会いは、今世でもまた出会い、来世でも時空間を超えて出会う。それは、「むすび」という関係性によって保証されていると言える。映画では、巨大隕石によって街と人々が消滅してしまった過去が、書き換えられるというあり得ない世界も描かれていた。このことは、私たちの悲しくて辛い過去さえも、実は実体ではなく我々の意識が作り出したものだから、変容させられるということを表現しているのである。我々の集合意識が作り出したこの世界の現実は、私たちの意識によって、過去であっても変化していくということだ。我々の集合意識は常に世界全体の幸福と平和を願うことこそが求められるということである。

発達障害とその家族の関わり方

一昨日、NHKTVで発達障害の保護者たちが集まって情報交換会をしている模様が放映されていた。発達障害を持つ母親6人の方々が出演していた。まず不思議だと思うのが、仕事があるとしても父親の出演者は居なかったという点である。そして、母親たちが口を揃えて言うには、あまりにも夫たちが発達障害に対する無理解があるという。それも、単に障害そのものが分かりにくいというなら理解できるが、それぞれの夫たちは理解しようとしないばかりか、障害に背を向けてしまい、わざと育児を避けているようにしか思えないということである。したがって、子育ての苦労と悩みは母親だけが一人で背負っていると口々に言っている。

 

勿論、夫たちは仕事が忙しいという事情もあるだろうが、あまりにも非協力的な態度が気になる。それに対して、母親たちは子どもの発達障害に真正面から向き合い、何とか子どもが幸せな人生を送るために、苦しみ悩みながら最大限の努力をしている。そして、限りない愛情を子どもに注いでいるのが、いじらしくも感じる。あまりにも父親との態度が対照的なので、見ていてびっくりする。出演した母親たちが特別なのかとも思いたくもなるが、このようなケースが実際少なくないという。発達障害の子育てにおいて、母親だけに負担がかかっているという実態があるらしい。

 

発達障害は脳の先天的器質障害が原因とされている。だから、母親の子育てによるものではない。それなのに、夫やその家族が妻の子育てが悪かったせいだと責めるらしい。これでは母親がやり切れない。母親があまりにも厳しい態度でしつけるから、こんな子どもになったと言うらしい。無理解からの発言だとしても、これは許せない。子育てをすべて母親に押し付けておいて、こうなったのはお前が悪いからだと責任放棄する姿勢は、頂けない。これでは、母親があまりにも可哀想である。しつけは本来父親が担当すべきである。母親は無条件の愛である母性愛を注ぐだけであり、条件付きの愛であるしつけをするのは父親の役割だ。父親が役割を放棄したから、仕方なく母親がしつけまで肩代わりしているのに、それを非難するなんて到底許せない。

 

今まで、ずっと障害のある子どもたちの子育て支援をさせてもらっていて、すごく感じたことがある。発達障害だけでなく、知的障害や身体障害、または脳性小児まひやダウン症のお子さんの子育てをしているケースでは、圧倒的にお母さんの負担があまりにも大きい場合が多い。あげくの果てに、父親が子育てを放棄するだけでなく、家族から離脱してしまうケースだって少なくない。したがって、発達障害だけでなく、お子さんが何らかの障害を持たれた際の子育ては、お母さんだけに負担が押し付けられる例が非常に多いのである。

 

勿論、収入を得るためには父親が仕事に専念しなくてはならないであろう。けれども、少なくても精神的な支柱になってほしいし、何かあったときは相談の際だけでも親身になって聞いてほしい。何も、母親たちは助言や解決策まで求めている訳ではなく、困ったり悩んだりしていることを黙って聞いて共感してほしいだけなのである。そして、妻の大変さを解ってあげて、妻の気持ちと同化して時折一緒に涙を流してほしいのである。他人ごとのように、冷たい態度で責任を放棄したり、主体性を持ちえないような態度をしたりすることだけは避けてほしいと思っているのである。

 

発達障害は、先天的な脳の器質障害であったとしても、周りの家族の適切なサポートがあれば、和らいでいくことが判明しつつある。その為には、家族の理解、とりわけ父親の深い理解と協力が不可欠である。そして、母親が発達障害の子どもたちへの深くて大きな愛情を注ぎ続けるためには、母親の精神が安定してしかも安心していなければならない。母親が不安であれば、子どもにもその不安が伝播してしまうからである。母親が安心して子育てに専念し、無条件の愛情である母性愛を注ぐには、やはり夫が妻を深く愛することが必要である。その愛は、自分に都合良くするための見返りを求める愛ではなく、与えるだけの無償の愛である。制御と支配の愛ではなく、寛容と受容の愛である。このような夫婦関係であれば、発達障害は必ずや和らいでいくと確信している。

食の好みとメンタル状態の相関関係

人それぞれに食の好みが違う。または嗜好品もその人それぞれによって違っている。野菜中心の食事を志向している人もいるし、高齢になっても肉食中心の人もいる。主食や副食だけでなく、お茶やコーヒーの好みも人それぞれであり、スウィート好きの人もいれば三度の飯よりも酒が好きだと豪語する人もいる。辛いものや塩味の強い刺激的な味を異常なほど求める人もいれば、薄味の優しい食味が好きだという人もいる。食の好みは、何故人によって違っているのであろうか。乳幼児期における食育によっても影響するであろうが、それだけではないような気がする。

 

先日、ある友人がこんなことをボソッとつぶやいていた。今まではずっと苦みが強くてコクの強い珈琲が好きだったらしい。最近は、深煎りよりも浅煎りの優しくてフルーティな味の珈琲が好きになってしまったと言う。どうしてこんなにも好みが変わったのか自分でも不思議だと言っていた。かの友人は、特に味の好みや味覚が変化したとは思わないが、自分の環境がかなり変わったという。2月末まではある介護施設に勤務していて、ものすごいストレスにさらされていたらしい。退職後4月から一人勤務の受付窓口業務になり、対人ストレスがまったくなくなったという。精神的にすごく落ち着いてきたら、刺激性の強い珈琲より、何故か優しい味の珈琲に好みが変わったのだという。

 

今、若者たちの間では激辛料理が流行っているらしい。激辛のスナック菓子も売れているという。さらに、炭酸飲料を好んで飲む傾向がある。それも、強炭酸のドライタイプ飲料が好まれているみたいである。二酸化炭素の含まれた飲料水を飲むと、自律神経の副交感神経が刺激されて、ストレスが和らぐからだと思われる。人間はストレスが溜まると、刺激的な食物を食べたくなるらしい。ストレスフルな社会で、心が疲れて折れてしまうと、刺激物や炭酸飲料を摂取したくなるのではないかと推測される。

 

さらに、人間は強いストレスにさらされると、肉や脂肪分の多い食事を好むようである。また、ストレスフルな日常生活で精神的に参ってくると、塩味や甘味の強い食事や嗜好品を好むらしい。カップ麵などの毒々しい味のものを食べたがる。しかも、精神的に疲れていると、アルコールに溺れたりヘビースモーカーになったりもする。一方、ストレスを乗り越えて精神的に安定してくると、野菜中心の食事になる傾向が強い。それも優しい味の食事を好む。さらに、マクロビや自然食を求める傾向になるし、人工的な食品添加物の入った食事を受け付けなくなる。健康的な精神は、健康的な食事を要求するのであろう。

 

このように精神状態と食事は密接に関連している。したがって、精神状態を安定させないと食が乱れると言える。そして、食の乱れはさらに身体を不健康にすると共に、精神状態までも悪化させてしまう危険を孕んでいる。つまり、メンタルの悪化と食事の劣化は、両輪の如く進んでしまい、両方とも益々強化されてしまうのである。それじゃ、メンタルの悪化から逃れる方法はないのだろうか。先ずは、強制的に健康的な食事を変えてしまうことで、精神的に安定の道を進めてみるという方法は取れないだろうか。

 

精神を病んでいる人の食事は劣化している。どんなに健康的な食事を作っても食べようとしない。ジャンクフードやファストフード、または甘いものや味の濃い刺激物を摂取したがる。何でも手に入る都会の自宅にいては、食を変えるのは難しい。だから、無理やりでも自宅から離れてしまい、コンビニのない田舎に滞在するとよいだろう。「イスキアの郷しらかわ」のような施設に1週間くらい滞在し、自然食の食べ物とおやつを食べることが必要である。そうすれば、悪い食事と嗜好品によった溜められた毒素がデトックスできる。そうすれば、徐々に精神的にも穏やかになってくる。驚くことに不眠も解消されるし、元気も出てくるのである。是非、試してみてほしいものである。

我が子を素直に愛せない母親

自分の子どもを素直に愛せない母親が多いらしい。虐待やネグレクトをするような母親は論外であるが、我が子に対して何となく違和感を持ってしまうというのである。本来、母親は我が子を目に入れても痛くないというように、無条件の愛を持つと考えられる。自分の子がどんなことをしても何を言っても、そのことを許せるし、我が子のすべてを受け入れる筈なのだが、今の母親たちは我が子を冷めたい目で見てしまうらしい。何となく我が子に対して、よそよそしく感じたり、逆に遠慮したりするような感覚を持つという。

だから、我が子をただ思いっきり抱きしめたり、一緒にお風呂に入りふざけ合ったりなどのスキンシップが苦手だという母親が多いという。そんなふうだから、子どものほうも何となく母親に対して遠慮がちになっていて、ついつい良い子を演じてしまいがちになる。または、母親に気に入られようと、無理してしまうことにもなる。そんなぎくしゃくしている親子関係が少なくないという。つまり、本来あるべき母性を、持てないでいる母親が多いみたいである。母性とは、本来無条件の愛である。言わば、絶対的な寛容と受容の愛である。すべてを許し、すべてを受け容れる愛なのだ。これが、母親として本来持つ愛情なのだが、それが出来ないらしいのである。

こういう親子関係であると、自分は愛されていないということを子どもは敏感に感じてしまう。子どもたちに個人アンケートを取ってみると、自分が愛されていないと感じる子どもはいじめに走ったり、いじめに加担したりしているケースが非常に多いという結果を示す。または、愛されていないと感じていると、自己肯定感が育たなくて不登校やひきこもりに陥りやすいとも言われている。自分が愛されないのは、自分が悪い子だからと勘違いするからであろう。つまり、親から愛されていないと感じる子どもは、問題行動を起こしやすいということである。

そんな親子関係に陥ったそもそもの原因は、父親にあるのではないかと想像している。つまり、夫が妻を深く愛してないから、妻である母親は我が子を深く愛せないのではないだろうか。愛は一種のエネルギーだと考えている。愛と言うエネルギーをたくさん注ぐ為には、そのエネルギーをたくさん受け取り続けなければならないし、枯渇してもすぐに補充できるという安心感が必要だ。人は無条件の愛というか、見返りのない愛を注がれたときに、我が子に対して至上の愛を与えることができる。でも、夫婦間にある愛は、条件付きの愛というか見返りを求める愛に陥ってしまっていることが多い。だから、我が子を素直に愛せなくなっているのではないかと思うのである。

今、離婚を決意する母親が多い。どうしようもなくて、シングルマザーを選択せざるを得ない母親が急増している。こういう社会になっている背景には、上記のような状況が要因としてあるのではないかと思う。本当の愛を受けられなくて、いつも惨めな思いをするなら、1人になって我が子を育てたほうがいいと思うのだろう。その決断はある意味正しいと思う。そして、新たな出会いを通して真実の愛を見出す人も中にはいる。しかし、なかなかそういう新しい伴侶に巡り会えない人が大多数だし、また同じような伴侶を選んでしまう女性も多い。何故なら、この世の中には圧倒的に、妻を支配して制御したがる男性が多いからである。

伴侶を自分の思い通りになるように、コントロールしたり支配したりする愛は、本当の愛ではない。これは相手からエネルギーを奪い取る、不当な愛である。本来は相手に与えるだけの愛を注ぎたいし、見返りのない愛を感じてもらいたいものである。そういう無償の愛というエネルギーは連鎖していく。豊かな愛は妻から子へと循環していく。こういう愛を豊かに注げるような男性を育ててこなかったのは、私たちの世代が子育てを間違ったせいかもしれない。今からでも遅くはない。家庭の中で豊かな関係性を築くことができる人間を育てる努力をするべきであろう。家庭教育だけでなく、学校教育においても人間教育を充実させたいものである。

日本農業を自然農法で再生する

田舎に行くと、青々と広がる田園風景に心が癒される。しかし、その田園風景であるが、山間のほうに行くと、耕作放棄地が急増していて、雑木林や荒地になってしまっている。由々しき大問題である。空き家になってしまっている農家も多いし、手入れされていない山林も増えている。農業では生計が立てられないと、集落から若者が街に出て生活し、年老いた老夫婦しか住んでいない農家が多いのだ。当然、老齢者だけでは手が回らないから、畑や田んぼは耕作されずに、荒れ放題になっているのである。

農地というのは農産物生産の役割と共に、本来水害を防いだりする効果もあるし、環境保全と国土保全という観点からも、耕作放棄地になるのは好ましくない。したがって、農水省・農政局や県の農林事務所も耕作放棄地対策を立てて、いろいろと苦労しているが、抜本的な改善方法が見つからず苦慮している状況にある。そもそも、農業を志す若者がいない。つまり、農業に対する魅力を感じる若者が少ないのである。何故かというと、苦労する割に収入が少ないし、農業だけで生計を立てるのが難しいからである。そんなこともあり、耕作を放棄した農地は益々増加している。

それでは、こんな農業にしたのは誰なのかというと、殆どの農家はこんなふうに言う。それは、国の農業政策が間違っているからだと。日本の農政は、まったく無策だと言う人もいる。または、工業製品輸出優先策の為の見返りに農産物輸入自由化をして、外国との競争にさらされてしまい、日本農業が壊滅的打撃を受けたと主張する人も多い。または、工業の労働力確保の為にわざと農家を疲弊させ、農村労働者を都会に呼び寄せたとも言う。果たして、本当にそうだろうか。日本の農政における失政が、農業を駄目にしたのであろうか。確かに、そういう側面もあるだろう。しかし、それだけが原因ではあるまい。もっと根源的な何か他の原因があるのではないだろうか。

最近、ユニークな農業が脚光を浴びている。奇跡のりんごと呼ばれる木村氏の自然農法の取り組みや、昔ながらの堆肥等の有機肥料や無農薬で農産物を生産しているケースである。そういう農家は、例外なく『土』を大事にしている。農業生産における労力の殆どを、土作りに注いでいるのが特長である。彼らは、声を大にして言う。化学肥料と農薬が、土を駄目にしてきたし、農業を駄目にして来たのだと。化学肥料と農薬を使わなければ、まともな農業生産は出来ないのだと、農家は思い込まされてしまい、土を駄目にしてきたのである。本来持っている土の生命力を台無しにしてしまったから、逆に化学肥料と農薬が大量に必要になってしまったのであると主張する。

化学肥料メーカーと農薬製造会社の巧妙な宣伝に騙され、その片棒を担がされた農協によって、日本農業が駄目になったと言う人々が増えてきた。農水省を初めとする行政も彼らに巧妙に騙されてしまい、悪乗りしたと見る向きも多いのだ。彼らは決まってこのように言う。化学肥料と農薬を使わなければ、生産量が低下して大変なことになると。日本農業が駄目になるというのである。まったく逆であろう。彼らが日本農業を駄目にしたのではあるまいか。そのことを知った、小数の志ある農家は、昔のようなやり方で農業を立派に復活させている。そして日本農業を立派に再生させた彼らは、こんなことも言っている。土の言い分に耳を傾け、そして野菜や果物の声を聞けと。つまり、土が何を求めていて、農産物が何をしてほしいのか、耳を澄ませば聞こえてくるのだと言うのだ。

だから、彼らは化学肥料や農薬を使わずに、土を健康にして野菜や果物を作っているのである。化学肥料と農薬を使用しないで生産した農産物は、健康である。味も格段に良い。ミネラルが豊富であり、大切な栄養素も高い。だから、子どもたちも野菜嫌いにならない。こういう野菜を食べていると、病気にもなりにくい。アレルギーにもなりにくいと言われている。いいこと尽くめなのである。当然付加価値が高いから、価格も高い。それなのに、今もって化学肥料や農薬に頼っている農家が多いのは、情けないことである。土や野菜の気持ちになりきり、彼らの声を聞けばいい。彼らの叫び声が聞こえてくる筈である。化学肥料や農薬はもう使わないでくれという悲痛な叫びが。

確かに省力化をして、大量生産をする為には農薬・肥料を大量に使用しなければならない。しかし、適量を生産するならば、自然農法でも作物が出来ることが証明されている。発想の転換である。農地が余っているのだから、農家を増やせばよい。そもそも、農業というのは、大量生産には向かないものではないだろうか。今、ふるさと回帰を志向する人々が増えている。退職したら、農ある生活をしたいという方たちが多い。そういう方たちが、自然農法で安全安心な作物を作り、老後の生活をエンジョイしようとしている。そういう作物を利用して、直売所や農家レストランを開いているケースが多い。または、農家民宿を開業している例もある。今、団塊の人たちの自然農法によって、本来の農業が再生しようとしているのである。白河を初めとして福島県には、その為の安価な耕作放棄地が用意されている。