妻の寿命は夫が握っている

妻の寿命は夫が握っているなんてことを言うと、世の中の旦那さまからクレームが来るに違いない。そんなことはない、寿命は自分が決めている、または神様がお決めになっていると主張する男性が多いと思われる。妻の立場にある女性の多くも、そんなことはあり得ないと反論することであろう。ところが、多くの奥様たちは知らず知らずのうちに、旦那さまの言動によって心身共に傷つけられ痛めつけられ、身体疾患や精神疾患に苦しんでいる。そして、旦那さまによって寿命が縮められているということさえ自覚していない。

奥様を傷つけている旦那さま自身も、自分がそうしていることを自覚していない。つまり、夫婦が共に傷つけて傷つけられていることを自覚していないことが問題なのである。例えば、女性特有の疾病である、子宮筋腫、子宮がん、卵巣嚢腫、乳がんなどは、夫からの行き過ぎた『介入』により発症していると言っても過言ではない。独身の方も発症しているケースもあるが、それは親か上司による介入で起きている場合が多い。『介入』していない場合もあるが、それは『無関心』という態度で傷つけているのである。

介入と無関心(無視)とはどういうことなのか、具体的に示すとこういう態度である。介入とは、指示、指導、圧力であり、それが酷くなると所有、支配、制御の態度になる。つまり、夫が妻に対して、様々な言動で自分の思い通りに操ろうとするのである。妻の自由を奪い、まるで操り人形のように支配するのである。そんなことはないと言うかもしれないが、当事者たちも気付いていないだけである。勿論、夫婦お互いが尊厳を認め受け容れて愛を与えている例外もあるが、殆どの夫婦は夫が妻を支配しようとしている。

無関心(無視)の態度とは、妻の話を聞かないとか妻の姿や行動に関心を持たないという態度である。そんなことはないと夫は主張するかもしれないが、多くの夫は「あんたは私の話をちっとも聞いてくれない」と言われていることだろう。聞いているふりははしているかもしれないが、傾聴と共感の態度で聞かなければ、聞いているとは言えない。また、妻が美容院に行ってきた際、精一杯おしゃれをした時に、「それ似合うよ」と言う夫がどれほどいるだろうか。または、自分の意に添わない時に不機嫌な態度や沈黙してしまうことがあるが、これが無関心・無視の態度である。

人間という生き物は、本来自由であり自律性を持っているし、関係性をもっとも大切にして生きる。それが、夫によって支配され制御され無視されたとしたら、妻の心身はボロボロに傷付いてしまうということは容易に想像できる。妻は、夫から愛されていないし嫌われているのではないかと思い込んでしまう。それは私が悪いからではないかと、自分を責めるのである。そうすると、メンタルはボディブローのように毎日痛め続けられる。そのため、身体の血流やリンパの流れの循環機能だけでなく、人体のネットワークの不具合を起こして、臓器や筋肉組織の石灰化が起きて病気になると考えられている。

これが妻の寿命を夫が握っているというエビデンスである。夫源病という疾病があると主張しているドクターが存在する。妻が夫の機嫌を損なわないように一喜一憂しながら生きていると、様々な不定愁訴が起きて、やがて重篤な身体疾患に発展するというのである。これもやはり夫が妻の寿命を決めている証左である。ということは、妻が病気になるかどうかは、夫の態度次第ということになる。介入と無関心の態度をすることを改めないと、夫は妻を早く失ってしまうということになり、孤独になるということだ。

老後を一人で生きるというのは寂しいものである。仕事をリタイアして夫婦で余生を楽しもうと思ったら、妻が他界していないとしたら、詰まらない老後を生きることになる。または、もう我慢がならないと妻が定年を機に家を出て行くことがあるかもしれない。そんなことがないように、夫は妻の話を傾聴し共感することから始めてみてはどうだろうか。妻の寂しさ悲しさ苦しさを我がことのように聴いて、自分のことのように悲しむことを慈悲と呼ぶ。まさに慈悲の心を発揮して、妻が喜ぶことや満足することを精一杯提供しようと心を入れ替えることを薦める。そして、妻を所有・支配・制御することなく、自由を満喫させることである。そうすれば、いつまでも妻は若々しく元気で健康で長生きすることだろう。

自己組織化を育む教育

自己組織化というのはシステム論を形成する重要な理論のひとつであり、簡単に言うと自律化と言い換えることもできよう。ノーベル賞を受賞した物理学者のイリヤプリゴジンが提唱した理論である。熱力学を応用した物理学の基礎理論であり、物体を形成する構成要素それぞれには自己組織化する性質があるという主張である。転じて、人体を構成する要素である細胞にも自己組織化する性質があるし、人間そのものにも本来自己組織化する性質を有していると考えられている。

この自己組織化する性質を、便宜的に自己組織性と呼ぶことにする。この自己組織性は自律性とも言い換えると前段で記したが、これは人間が生来有している主体性・自発性・自主性・責任性などと言えるものである。細胞の自己組織性については、最新の医学研究でも驚くような研究成果がもたらされている。人体というネットワークシステムは、細胞そのものが過不足なく全体最適を目指して活動していると共に、細胞によって組織化された骨格組織、筋肉組織、臓器組織などがやはり自己組織性をおおいに発揮していることが判明したのである。

この事実はどういうことを意味するかというと、人間という生物は生来自己組織性を持っていて、全体最適のためにそれぞれが豊かな関係性を発揮しながら活動する宿命を持って生まれているということである。全体最適というのは、自分だけの幸福や豊かさを求める個別最適ではなく、家族全体、地域全体、企業全体、国家全体、世界全体、宇宙全体の最適化のために貢献することを指している。言い換えると、人間とはみんなの幸福や豊かさ実現のために存在が許されているという意味である。したがって、自分だけの幸福や豊かさを追求するというのは、人間本来の生き方に反するということを示している。

したがって、あまりにも個別最適を求める生き方をすると不都合が起きるのである。例えば、自己中で身勝手な生き方をすると家族の中で孤立するとか、会社内で誰からも相手にされないとか、地域で評価されず見放されるようなことが起きる。さらには、主体性や自発性を失い、責任性も放棄するような生き方をするようになり、家族からも同僚や上司からも信頼を失ってしまう。自ら関係性を断ち切ってしまい、その影響で自己組織性も発揮できなくなるのである。本人だけでなく、周りの人々も身体の病気にしたりメンタルの病気にもなったりしてしまう危険が高まる。

人間という生き物は、本来自己組織性を持つ。この自己組織性を発揮するには、良好な関係性(ネットワーク)という条件が必要である。この自己組織性と関係性の大切さを認識して伸ばしてあげる教育をしないと、大人になってから不幸になる。したがって、幼児のときからこの自己組織性をしっかりと成長させる育て方が求められる。どんな育て方かというと、行き過ぎた『介入』をしないという姿勢である。なるべく本人が自ら気付き学び成長するのを待つという態度が大切である。そして関係性を感じられるように、愛情をたっぷりと注ぎ続けることである。

子育てほど難しいことはない。だからこそ、子育ては尊いことであるし自分を成長させてくれるミッションである。とかく、親というのは我が子の幸福を願うものである。ケガをしないようにとか病気にならないようにとか、細心の注意を払いながら育てる。それ故に、ついつい細かく事前に指示をしてしまうし、先回りをしてしまう。言いたいことやりたいことをついつい予測して助けてしまう。知能が高くて教養のある親ほど、こういう子育てをする傾向にある。こういう子育てが、実は自己組織性の成長を妨げてしまうのである。子どもが自ら考えて行動するという自己組織性を発揮することを阻害してしまうのである。

子どもが思春期になり反抗期を迎えたときに、あまりにも親に歯向かい反発する態度をした時に、ついつい父親は権力で子どもの反抗を抑え込む傾向がある。これも、子どもの自己組織性の進化を妨げてしまうことになる。学校においても、教師があまりにも子どもの自主性や主体性を無視して、すべて指示通りに行動させてしまうと、やはり自己組織性の成長を阻止してしまう。日本の学校教育というのは、この自己組織性を育てる教育をしていないと言える。中学校や高校の部活でも、自己組織化を妨げるような指導をしがちである。不登校やひきこもりが増加しているのは、自己組織化を認めない教育現場があるからではないかと考える。子どもたちの主体性・自主性・自発性を育んでいく教育をしないと、正常な自己組織性を発揮できなくさせてしまい、不幸にしてしまうことを認識すべであろう。

親族間殺人が5割を超えた訳

警察庁の発表によると、なんと発生した殺人事件のうち、親族間で起きた殺人事件が全体の55%近くに及んでいるらしい。他人に対する殺人事件だったら構わないとは言わないが、親族どうしが何故に殺人事件まで発展するのか、実に不思議である。そう言えば、最近TVのニュースで流れている殺人事件の多くが、親子間、兄弟間、夫婦間、祖父母と孫の間、などで起きている。家族・親族と言えば血縁や婚姻関係がある。他人よりも縁が深い。普通なら、殺人などというおぞましい行為は出来ない筈だ。

親族間殺人が殺人事件全体の5割を超えてしまったのは、2016年からだという。年々割合が増えて、ついには半数以上になってしまったらしい。殺人事件の総件数は年々減少している。それなのに親族間の殺人事件は減らないばかりか増えているということであろう。家族や親族は、本来深い絆で結ばれている。そういう絆があるということは、他人よりもお互いに支え合う力は強い筈である。当然、親族間の愛情が溢れていると思われる。それなのに殺人を実行するほど憎しみを抱えていたというのは理解できないことである。

愛と憎しみは表裏の関係にあるということは、よく知られている事実である。愛があるからこそ憎しみという感情が湧いてくる。愛がないというのは、無関心ということである。親族だからこそ愛が根底にあり、その裏返しである憎しみが殺人に発展したと見られる。憎しみという感情が増幅して、殺人を起こしただけではないケースもあったろう。資産を奪い合ってのトラブルもあったかもしれない。いずれにしても、お互いの尊厳を認め合い、心から敬愛していたとしたら殺人事件にならなかったのは確かである。

親族や家族間において、金銭トラブルが発生するケースが少なくないようである。金銭トラブルは家族間にはよくあることであるが、それが殺人事件にまで発展してしまうのは、よほどのことであろう。家族の絆と金銭のどちらを優先するかというと、普通なら家族の絆が大事だと思うであろう。ところが、最近の家族どうしの殺人事件を分析してみると、お金のために家族を平気で裏切るような人が増えている現実があるようだ。なんとも情けない時代になってしまったみたいである。

家族や親族間における関係性が希薄していて、家族というコミュニティが崩壊していると言われ始めて久しい。本来は支え合うべき家族が、いがみ合い憎しみ合うような関係性になってしまったのである。殺人事件までも起こすというのだから、家族や親族の良好な関係性は既になくなってしまっているのかもしれない。機能不全家族という言葉が言われることが多いが、まさに家族というコミュニティの関係性がなくなり、機能不全に陥っているからこそ、これだけ殺人事件まで発展する家族トラブルが増えたのであろう。

家族という社会システムが崩壊している影響は、殺人事件の増加だけではない。家庭内における様々な問題を起こしているのは、まさに家族というコミュニティが崩壊しているからに他ならない。ひきこもり、不登校、家庭内暴力、パワハラ、セクハラ、モラハラなどが家庭内に増加しているのは、家族システムが機能不全を起こしているからであろう。勿論、これらの問題が起きているのは社会全体の機能不全も影響していることも付け加えておきたい。さらに、家族の中にうつ病などの精神疾患や精神障害が発生するのも、家族コミュニティに問題があることがひとつの要因である。家族という社会システムが壊れていることが、様々な問題を起こしている原因と言えるかもしれない。

何故、家族という社会システムが崩壊してしまったのかというと、関係性が劣悪化してしまったせいであろう。そして、関係性が劣悪化してしまった原因は、家族間における過剰な『介入』によって、一人ひとりの自己組織性(自律性)やオートポイエーシス(自己産出性)の機能不全が引き起こされた為とみられる。親が子どもに対して、圧倒的優位性を持って、必要以上に支配し制御し所有化してしまっているからではないかと思われる。または、逆に愛情をかけないという無視や無関心の状態に置かれたのではないかとみられる。これらの過剰な介入や無視が親子間、夫婦間などで起きていて、良好な関係性が壊れているように感じられる。関係性の大切さを再認識して、家族というコミュニティを再生させないと、家族間のトラブルや殺人事件はなくならないと思われる。

うつ病が発症する本当の原因

うつ病またはうつ状態に陥ってしまっている患者が激増している。うつ病は脳の機能障害だと思われている。神経伝達物質セロトニンの不足が影響して、神経伝達回路における不具合がうつ病の発症に関係しているらしいと思われている。だから、SSRIという選択的セロトニン再取り込み阻害薬がうつ病に効果があると言われている。このSSRIという画期的な抗うつ薬が発売された際には、これでうつ病患者は救われたと思った人も多い。ところが、うつ病患者は減少するどころか、逆に数倍にも増えてしまったのである。

そんな馬鹿なことはあり得ないと思うかもしれないが、実際にSSRIという薬が出来たお陰で、うつ病患者は激増したのである。しかも、SSRIという薬によってうつ病が完治する人は殆どいない。だとすれば、うつ病にSSRIは効かないし、うつ病の医療費だけが増加させる役割しかないということになる。ましてや、うつ病の発症が脳の神経伝達回路系の不具合によるものではなくて、違う原因らしいということが判明している。脳だけでなく、腸内細菌や人体全体のネットワーク回路の不具合もうつ病の発症に関わっている。だから、脳だけに働くSSRIの薬効がないというエビデンスが得られたのである。

それでは、何故腸内細菌などを含む人体全体のネットワークシステムが不具合を起こすのであろうか。ネットワークシステムの不具合は、システム論から観ると実に良く理解できる。複雑系科学におけるシステムとは、構成要素が全体最適を目指して、それぞれが関係性を発揮して自己組織性(自律性)とオートポイエーシス(自己産出)を機能させる。ところが、何らかの原因によって関係性を損なって個別最適を目指してしまうと、ネットワークシステムが破綻を起こす。これが人体というシステムにおける不具合(疾病)である。

人体における構成要素とは、60兆個に及ぶ細胞や100兆個以上あると言われる腸内細菌などであろう。ネットワークシステムの不具合は、構成要素そのものに問題の原因がある訳ではなく、それらの関係性(ネットワーク)の劣化にある。そして、その関係性の劣化や希薄化は、ストレスに起因しているというのが医療界における定説になっている。ストレスとは精神的なそれだけでなく肉体的ストレスも含まれる。食品添加物、化学肥料や農薬、クスリ、過大な飲酒や喫煙などが身体に過剰なストレスを与える。対人ストレスや過大過ぎるプレッシャーなども影響している。

それらのストレスが原因になり、人体ネットワークシステムの不具合を起こし、身体的疾患や精神疾患を起こすと考えられている。それでは、何故人間はこんなにもストレスに弱いのであろうか。ストレスを乗り越えることが出来るなら、システムの不具合が起きないからうつ病にはならない筈である。人間には、そもそもある程度のストレスなら乗り越えることが出来る自己組織性とオートポイエーシスを持っている。ところが、多重ストレスや連続したパワハラ・セクハラ・モラハラを受けると、それらの機能が劣化してしまうのである。それも人間関係が破綻しているとなおさらである。

うつ病などの精神疾患が発症する本当の原因は、本人だけでなく社会システムそのものの不具合にある。家族という社会システム、会社や各部門における社会システム、地域社会のシステムなどにおいて、ネットワーク(関係性)の不具合や破綻を起こしていると、その構成要素である人間にも大きな影響を与えてしまう。人間の精神そのものにも自己組織性がありオートポイエーシスが本来備わっている。つまり、主体性・自発性・自主性・責任性などの自律性があるし、自らが価値を生み出すオートポイエーシスを持つ。家族どうし、社員どうし、住民どうしの関係性が希薄化したり劣悪化したりしていると、精神の自己組織性とオートポイエーシスが機能劣化を起こしてしまうのである。

人間という生き物は、様々な社会システムの中で、どれかひとつのネットワーク(関係性)悪化だけならば、何とか乗り切ることができる。ところが家庭でも、そして会社や地域社会でも関係性を無くしてしまうと、ストレスを自ら乗り越えることが出来なくて、人体のネットワークシステムの不具合を起こす。これがうつ病発症の本当の原因である。企業における関係性を改善することはなかなか出来ないが、家族というシステムの不具合なら、家族どうしが努力して協力し合うことで改善することは可能だ。勿論、身体的ストレスを解消する食生活の改善も可能だ。食生活も含めた生活習慣を改善し、家族という社会システムを本来あるべき姿(介入せず・支配せず・制御せず・攻撃せず)に改善して、関係性を良好なものにすればうつ病は完治できるのである。

 

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精神疾患が薬で完治しない本当の訳

精神疾患は投薬では治らないなんてことを言うと、とんでもない間違いだと怒りを露わにして抗議する精神科医がいることだろう。そんなエビデンスのない戯言を言って、人々を惑わすのはとんでもないと言うに違いない。確かに、精神疾患に対する投薬治療による改善効果はエビデンスがあると信じられてきたのは事実である。しかし、ここにきて投薬治療による薬剤の作用機序が、薬品会社によって巧妙に仕込まれたものではないかという疑いが出てきたらしい。ましてや、治験結果そのものがかなり怪しいと言われているのである。

うつ病の特効薬として現れたSSRIの作用機序は、正常な理解力がある人間ならば、まったく納得できない説明である。セロトニン濃度が上がる筈だという思い込みだけである。しかも、脳の働きそのものがまだ解明されていないのに、まったくの想像による仮説でしかないのである。誰も実際に確認していないのに、効く筈だと勝手に思い込まされて処方された患者が、実に可哀そうである。薬品会社の治験によるとかなりの効果があるとされているのに、第三者が効果判定をすると、優位性が認められないという結果が出ているという。これこそ、エビデンスが保証されていないのだ。

他の抗うつ剤や向精神薬も、実は似たり寄ったりなのである。すべて仮説に基づいた薬効であり、誰も明らかな具体的科学的根拠を示せないという。確かに、向精神薬によって一時的な改善はみられるケースもあるようだ。しかし、しばらくすると薬効が感じられなくなり、さらに増量するか別の向精神薬に変更せざるを得なくなったりする。多剤投与という最悪の結果になることもしばしば起きるらしい。これでは、精神疾患が投薬治療によって完治するなんてことは起きる筈がないであろう。

そもそも、精神疾患は脳の神経伝達系の異常によって起きると考えられてきたが、最新の医学研究では脳だけの異常ではないということが明らかになってきた。ということは、脳の神経伝達系統に働く薬を処方されても、そんなに効果が上がらないのは明白である。とすれば、これだけでもエビデンスは崩壊しつつあるという証左になる。しかも、投薬治療が精神疾患には不要だとする、もっと確かな科学的根拠が存在するのである。それだけでなく、かえって投薬が悪影響を及ぼすというエビデンスがあるということが判明した。

最新の複雑系科学におけるシステム論がある。その最先端の第三世代のシステム論においては、システムそのものには自己組織性(自律性)だけでなくオートポイエーシス(自己産出・自己産生)があることが解明されている。社会もシステムであるし、宇宙全体もシステムである。勿論、人体そのものもシステムである。家族というコミュニティもひとつのシステムとして考えられている。地域コミュニティ、そして企業も、そして国家もシステムとして捉えられる。地球もひとつのシステムであり、自己組織性とオートポイエーシスが存在していることが判明している。

人体システムは、60兆個に及ぶ細胞という構成要素によって人体という全体が形成されている。そして、60兆個の細胞には自己組織性があるしオートポイエーシスという機能が存在している。100兆個以上ある腸内細菌にも自己組織性がありオートポイエーシスがあることが解明されつつある。腸が第二の脳とも呼ばれるのは、そのせいである。これらの細胞や腸内細菌は、過不足なく人体という全体の最適化を目指して働いている。勿論、細胞によって自己組織化されている筋肉・骨・臓器などのネットワークシステムは、人体の健康とその維持のために過不足なく働いている。人体というネットワークシステムは恒常性や自己免疫などの自己組織性を発揮しているし、自らのシステムにおいてオートポイエーシスを発揮している。つまり、人体とは本来、外からの介入(インプット)をまったく必要としない完全なシステムなのである。

人体は、外部からの不必要で過度の悪意に満ちたインプットを受けてしまうと、機能不全を起こしてしまう。例えば、社会的なストレスや人間関係における過度のプレッシャーなどのインプットをされ続けると精神的な障害を起こす。または、家族からの過度の介入や支配を受け続けると、ストレスによる身体疾患や精神疾患を発症する。免疫系や自律神経にも悪影響を及ぼして、重篤な身体疾患さえも起こす。これがシステム異常である。そして、このシステム異常は人体に対する過度の介入で起きているのだから、それを投薬という過剰介入をすることは、さらに人体システムを悪化させてしまうことになる。自己組織性とオートポイエーシスを機能低下させるからである。精神疾患は、社会システムの機能不全が起こしているのだから、そのシステムを正常に戻すことでしか治癒しないのである。投薬は治癒を妨げるだけでなく、過度の介入が精神疾患をさらに悪化させるだけであると言えよう。

 

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占いが当たる理由と危険性

占いブームがまたやってきているようである。世の中、スピリチュアルブームでもある。特に若い女性を中心に、スピリチュアルな物品購入、パワースポット巡り、各種のスピリチュアルを利用した占いなどにはまってしまっている人が多い。ひとつの心の拠り所として活用している分にはまったく問題ないであろう。しかし、守護霊や指導霊からの指示だと言って、本人の重要な人生の選択肢まで決めてしまう占いをする人物がいるのには、驚愕してしまう。それも具体的にこうしなさいと細かく指示をするというのだから、恐怖感さえ覚えてしまう。

日本の過去の歴史の中で、呪術者やシャーマン、そして巫女や霊媒師などが存在した。そして、そういう人物が政治の中枢に入り込み、日本の未来を歪めてきた歴史がある。人の未来が見えると占いで生計を立てている人物もいる。とても当たると評判の占い師がいて、TVのワイドショーでも取り上げられている。そういう占い師が芸能人に対して具体的にこうしろああしろと、自信を持って指示している姿を放映している。こういう占い師は益々繁盛することであろう。しかし、こんな占い師に人生を任せてよいのであろうか。

あなたの将来はこうなると占い師に言われて、実際にそうなることが圧倒的に多いのも事実である。どういう訳か、その人の未来を的確に当てる占い師がいるし、過去の経歴や親族のことを正確に言い当てる占い師がいる。評判の占い師に自分の未来を占ってもらい、不安を打ち消したいと思うのも当然である。自分の人生について、どうするのか迷っている人ならなおさら当たると評判の占い師に聞いてみたいと思うであろう。しかし、9割以上の占い師はまやかしである。人間の無意識を巧妙に利用して操っているだけである。しかも、その占い師自身が本物だと思い込んでいるから深刻なのである。

占いが何故当たるのかというと、占ってもらった本人の無意識がそうさせるからである。また、自分の生い立ちや親族のことを的確に占い師が当てるのは、占ってもらっている自分自身が占い師にヒントを与えさせられているだけである。占い師は、実に巧妙に言葉を操りながら質問しているように思わせずに、本人に答えさせているだけなのである。そして、本人の迷っていることにこうしなさいと実に潔く言い切る。迷っているようなそぶりは絶対に見せず、自信満々に断言する。

何故もそんなに自信満々に言い切るのかというと、本人の無意識を操るには断言しなければならないからである。あまりにも自信満々な占い師だから、本当にそうなるのだと本人が信じ込むのである。これが、もしかするとこうなるかもしれないなどとあやふやな言い方をすると、本人も半信半疑になるから、未来は言われた通りにはならないのである。人間の無意識というのは、こうなると100%信じたとしたら、無意識の意識がそうなるように行動をさせてしまうのである。しかも、集合無意識が働くので、他の人もそれに応じるから、占い通りの未来になっていくのであろう。

殆どの占い師は明るい未来や輝かしい未来しか占わないので、それで幸福になるのだから問題ないと言う人が多いかもしれない。実は、こういう考え方が極めて危険なのである。何故ならば、人間本来の持っている天性の機能を台無しにしてしまうからである。人間には本来、自己組織性(自律性)とオートポイエーシス(自己産出・自己産生)が備わっている。つまり、人間というのは自分が主体的にしかも自発的にものごとを決断して、自らが進んで主人公になって人生を歩んで行くものである。しかも、人生の選択をするうえで必要なその人の価値観や哲学は、自らが血の滲むような苦労して気付き学び習得していくものである。

そういう大切なプロセスを誰かに委ねてしまうのは、自らが持っている機能を低下させたり劣悪にしたりするので、大変危険なのである。最先端の複雑系科学で明らかにされつつあるシステム論、その中心になるのは自己組織性とオートポイエーシスである。人間そのものも複雑な関係性(ネットワーク)を持つシステムのひとつである。だから、パワーもエネルギーも、そして自己治癒力や自己産生能力も自分で引き出す能力を持つのである。他からインプットされるべきものではないし、内なる自己から自然と産み出されるものである。それを他人から介入(指示・指導・制御)されてしまったら、自分が自分でなくなるに違いない。占い師による傀儡に成り下がってしまう。占い師に自分の人生を委ねることだけは絶対に避けなければならない。

 

夫婦の対話がなくなる時

夫婦の会話がないという話をよく聞く。勿論、必要最小限の会話はするらしい。例えば、「飯」とか「風呂」とかの短く味気ない単語の羅列である。それ以外は、「今日の夕飯は要らない」とか「昼は外で食べる」といった手合いものである。こういう会話は、『対話』とは呼べそうもない。どちらかというと『独白』というようなものであろう。気持ちとか心は通っていそうもない。対話はダイアローグというが、独白はモノローグともいう。夫婦のダイアローグがもはや失われてしまっている家庭が非常に多い。

何故、夫婦間に対話(ダイアローグ)が失われてしまっているかというと、お互いに仕事を持っていて、妻は家事や育児に追いまくられる生活をしているという事情もあるという。夫は仕事で早朝から深夜まで働き尽くめ、家事育児には参加せず、たまの休日は一人で遊びに出かけるか家でゴロゴロしている始末。妻だけが一人で家事育児をさせられる、いわゆる「ワンオペ」の状況になっていて、妻のストレスと不満は頂点に達している。そんな状況の中で、どうして穏やかな対話が出来ようか。愚痴や不平の言葉しか出ないし、それを聞き流すしかないというモノローグ(独白)の世界に陥るのは当然である。

これは働き盛りの若い夫婦の例であるが、熟年や老年の世帯でもやはりモノローグの世界に陥っているケースが少なくない。妻が夫と一緒の空間に存在することを嫌っている。稀にその逆のケースもあるが、殆どの夫婦は妻が夫を避けている。夫と同じ趣味や運動を避ける妻が多い。同じスポーツをしていても一緒にプレーすることを避けたがるのである。夫婦ともにゴルフをするのにも関わらず、妻が夫とは一緒にラウンドしたくないという。さらには、女子会の旅行なら喜んでどこにも行くが、夫婦だけの旅は絶対にしたくないという妻が圧倒的に多い。そして、そう思っている妻の心情を、理解さえしていない。

どうしてこんな夫婦になってしまったのであろうか。夫は、妻子のために身を粉にして働いてきた。ようやく定年を迎え、子供たちも巣立っていき二人きりの生活になった。これからは夫婦で共通の趣味を持ち、温泉旅行を楽しみながら余生を送ろうと思っていたのに、妻がそれに応えてくれないのだ。例え一緒に旅行に行ったとしても、会話が続かないし、楽しそうな笑顔さえ見せてくれない。不機嫌な顔をずっと見せつけられたら、対話しようとする気持ちにもなれないだろう。どうしてダイアローグにならず、モノローグになってしまうのだろうか。夫には、その原因がまったく見当もつかないのである。

このような働き盛りの若い夫婦でも熟年夫婦でも、対話がなくなってしまった原因は、どちらか一方にある訳ではない。夫にも妻にもありそうだ。そして、夫婦ともに相手に原因があると思い込んでいるのである。だから始末に負えないし、対話の喪失が改善することはない。どちらか一方が重篤な疾病に罹ったり、介護の必要な状況に追い込まれたりしない限り、夫婦の対話は生まれないであろう。実に悲しい現実である。夫婦の対話がないというのは、共通言語がないということである。話が通じないのは当然である。

このように対話を失ってしまった夫婦は、何故そうなってしまったのかの本当の原因を知らないでいる。対話がなくなる真の原因は、夫や妻のどちらかに非があるからではない。夫婦の『関係性』が損なわれているからである。勿論、この関係性が希薄化もしくは劣悪化するそもそもの原因はある。どちらかというと、夫側にそのきっかけを作った責任はあるかもしれない。何故かというと、客観的合理性の近代教育を受けたお陰で、学業優秀な男性ほどこの影響を受けたからである。身勝手で自己中心的で、相手の気持ちに共感できない人間に成り下がってしまったのである。妻の気持ちに成りきって話を聞かないから、妻は話すことを止めてしまったし、対話しようとしなくなったのである。

こうした相手に共感しないただのモノローグ的会話になってしまい、夫婦の関係性は最悪のものなってしまい、お互いを支え合うという家族というコミュニティが崩壊することになる。当然、子どもにも悪い影響を与えてしまい、不登校、ひきこもり、家庭内暴力などの問題行動を引き起こす要因ともなる。家族という関係性は破綻して、機能不全家族になってしまう。対話が夫婦間になくなったことを端緒にして、こういう機能不全家族が始まると言っても過言ではない。だからこそ、夫婦はお互いの関係性に注目して、お互いの共通言語を紡ぎ出す努力を続けなければならないのである。それも、傾聴と共感がキーワードである。相手の悲しみや苦しみを、我がことのように感じられる感性と想像力が求められる。夫婦の関係性をどのように再構築すれば良いのか、真剣に考え直してみてはどうだろうか。

 

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「万引き家族」が示す家族のあり方

「万引き家族」という映画が、カンヌ映画祭で最優秀のパルムドール賞を受賞したのは至極当然であると思った。なかなか鑑賞する機会がなかったが、ようやく昨日観る機会を得たのだが、実に素晴らしい映画だった。是枝監督は、家族の本来のあり方について観る者に考えさせる映画を作り、世に問い続けている。今回の万引き家族という映画も、家族について深く考えさせられる映画だった。万引きというセンセーショナルな題材を扱うが故に、賛否両論があるようだが、間違いなく世界に誇る傑作だと確信した。

福山雅治が演じた血縁のない親子愛の映画「そして父になる」、そして、三姉妹家族とそこに加わる血のつながらない妹との交流を描いた「海街diary」と、家族のあり方を是枝監督は描き続けている。何故も、こんなにも是枝監督は『家族』を描き続けているのであろうか。それは想像するに、現代の家族というコミュニティが家族本来の機能を失っていて、機能不全家族に陥ってしまっているからに他ならない。そして、その悲しい実態を巧妙に伏線として描きながら、血のつながらない家族の深い絆を描いて、あるべき家族像を示そうとしているのではないだろうか。

この映画は単なる貧困を描いている訳ではない。確かに底辺の生活者を描いてはいるものの、生活苦のために万引きをしている悲惨な家族がいるなんてことを社会に訴えたい訳でもないし、政治の無策を糾弾しているのでもない。そんなふうに感想を述べている映画評価もあるが、まったくの勘違いである。まるっきり想像力の働かない人たちである。是枝監督は貧困家庭を題材にしているが、万引きをするしかないほど貧しいが故に『絆』が強まっている家族を描き、経済的に豊かでありながら関係性の貧しい家族をそれぞれに対比させているのである。

この主人公たちの家族は、血縁がまるっきりない関係である。しかし、血が繋がっていないからこそ、深い絆で結ばれている。伏線として、実際には血が繋がっていると思われる三家族が描かれている。ある風俗店で働く若い女性の育った家庭は、裕福であるがその家族の関係性は希薄化していて、その若い女性は愛の感じられない家庭を捨ててしまっている。その風俗店にやって来る若い男性は発音障害を持っているが、明らかに愛着障害と想像させるから、機能不全家庭に育ったのであろう。ある虐待を受けている少女の家庭は、母親もまた夫から暴力を受けていて、家庭内暴力の機能不全家族である。

是枝監督は、現代の家族というコミュニティがあまりにも機能不全に陥っていて、その原因が関係性の希薄化にあると認識していると思われる。何故関係性が劣悪化しているかというと、血縁があるからこそ家族どうしが、お互いの生き方に介入し過ぎているからではないだろうか。こうなってほしいという気持ちが強すぎて、相手を支配しようとしている。一人の人間としての尊厳を認めないから、関係性が悪化しているのである。夫婦間や親子間で、暴力で相手を支配する愚かさを描いている。関係性がなくなってしまっている機能不全家族と、お互いの生き方に介入しない絆の深い家族の姿を対比させている。

貧しいが故に万引きする家族の関係性は、とても豊かであり温かい。血が繋がらないせいなのか、家族に何も求めない。けっして相手を支配しようとしないし制御しようともしない。愛を求めず、無償の愛を与えるだけである。だからこそ、相手を愛しく思い合い、けっして離れようとしない。そして、家族の秘密を共有して他言しないと誓い合うのである。さらには、血のつながらない家族を守るために自己犠牲も厭わない姿は、感動を呼び込むのである。ここに理想の愛が溢れる家族の姿があるのだ。

この家族の関係性を豊かにしているものは何かというと、共通言語であろう。この理想の家族はお互いの話を傾聴し、気持ちを理解しようと努力している。お互いに心を開いた本音での対話が繰り広げられる。だからこそ、家族どうしが解りあえるし、お互いの信頼関係が生まれるのである。是枝監督が描き出しているこの家族の豊かな関係性を示す名シーンがある。花火大会の花火を家族全員が軒下から見上げるシーンである。実際に花火が見えないのにも関わらず、皆が同じ方向を見上げている。その笑顔が素晴らしい。家族というのは、本来こういうものなんだろうなとほのぼのとさせられる。機能不全家族を癒すのは、共通言語による開かれた対話であり共有体験であると、観る人に気付かせてくれる素晴らしい映画である。

国益という言葉の危険性

米国のトランプ大統領、また米国に隷属している日本の首相も、よく「国益」を損なうという言葉を使いたがる。そして、野党も同じように国益に照らしてとかいう言葉を振り回す。マスメディアだってそうだ。国益を損なうようなことをすべきでないと、政治家や官僚を批判するような報道をする。国民誰もが国益を最優先にして物事を考える癖がついてしまったようだ。この国益という言葉に違和感を持つ人はいないのだろうかと不思議に思っていたら、やはりいた。あのカンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した「万引き家族」を作った是枝監督がその人である。

是枝監督は国益という言葉をふりかざして、ナショナリズムをかきたてるような政治手法に、とても危うさを感じると述べられていた。全体主義を助長するような政治姿勢とは、一線を画したいと文科省の祝意を断った。国益にこだわる国は他にもあり、お隣の大国や朝鮮半島の国々も同じである。このグローバルな世界において、あまりにも国益にこだわれば貿易摩擦が起きるし、国際紛争に発展しかねない。ましてや、あまりにも国益を重要視したが故に植民地政策を取り、他国をさらに支配しようとして世界大戦を引き起こした経験を忘れたのであろうか。あんな悲惨な戦争をまた繰り返したいのだろうか。

他国の行き過ぎたナショナリズムに対抗するように、危機感を煽って内閣支持率を高めようする姑息な手段を取るというのは、実にいただけない。国益という言葉を巧妙に用いながら、政権与党しか国益を守れないと、プロパガンダする政治手法はまさに軍部が実権を握り始めた太平洋戦争の前の政治情勢とまったく同じだと思われる。とかく政権を握る者というのは、国民から批判をされ始めると、外に敵を作りたがる。外敵の脅威をおおげさに喧伝して、自国の政治に対する批判をかわしたがる。北朝鮮のミサイル脅威が政権与党への投票を後押した形になり、国政選挙を圧勝した例もある。

国益という言葉が駄目だとは言っていない。ただ、国益という旗の元に、エゴイズムやナショナリズムを必要以上に煽り立てるのはいただけない。国益とは、国の利益である。国の利益というと非常に勘違いしやすいが、本来は国民の利益ということであろう。国の政治体制や権力者の権益を守るために国益という言葉が独り歩きしているように思えて仕方ないのは、私だけではあるまい。国民全体の利益を考えるべきであり、その利益というのも経済的利益だけではない筈である。平和とか平等というようなものとか、お互いに支えあう豊かな関係性を持つコミュニティの維持も、立派な国益であろう。

国益を前面に出してしまうと、他国の善良なる国民の幸福を奪ってしまうケースがある。必要以上に安い金額で農産物を輸入する先進国の商社が存在する。カカオ豆やバナナなどを、生産者の足元を見て販売価格を不当に値引きする先進国の商社は後を絶たない。その農産物に多額の利益を上乗せして自国で販売する。そういう不当な取引を止めようと、フェアートレードを実施しているNGOも多い。国益をあまりにも優先すると、発展途上国の貧困を後押ししてしまうことになる。国際紛争や内戦に武器をさらに売り込もうとして、必要以上に裏工作により刺激させて戦いを長引かせる武器商人がいる。これも自国の利益だけを優先した結果である。

このように国益という言葉が、世界的な平和や豊かさをどれだけ侵害しているかということを、我々は忘れてならない。自国だけ自分だけが平和で豊かであればいいという、エゴのかたまりのような考え方を持つのは危険である。そして、人間として情けないことである。日本人の偉大な先人たちは、他国の国民に対しても多大なる貢献をしてきた。リトアニアで6000人のユダヤ人にビザを発給した杉原千畝、黄熱病研究の野口英世、武士道を著した新渡戸稲造などは、他国民からも尊敬を集めている。日本人というのは、自国だけの利益に固執しないからこそ、国際的にも尊敬されてきたのである。

これだけグローバルになった社会なのであるから、国益にこだわり過ぎることが国際的に様々な問題を起こすことは想像できる。もっと広い視野と見識を持ち、世界全体の平和と幸福を実現するために、我々国民が努力したいものである。そして、安易に国益という言葉を使わないようにしたいものである。さらには、マスメディアに働く人は、国際人として国益という言葉に違和感を感じて欲しい。少なくても、国会など公の場において国益という言葉を利用して、ナショナリズムを煽るようなことをさせてはならない。

 

発達障害者を雇用する意味(グッドドクター)

グッドドクターというTVドラマが先週の木曜日から開始した。第一回目を見逃したのでFODの無料配信で本日鑑賞した。このTVドラマは、数年前に韓国で放映されて高視聴率を取ったドラマを、フジTVがリメイクしたらしい。自閉症スペクトラムでサヴァン症候群の若い医師が主人公である。小児外科医というと、高度な手術と診断技術が要求されるエリートドクターである。発達障害のドクターが主人公のTVドラマが観れるなんて、なんと有難い時代に生まれたものである。すごく楽しみにしている。

日本でも、発達障害の医師は実際に存在する。他の職員とのコミュニケーションに多少問題はあるものの、患者さんとの微妙な対話が不要な部署で働くことは可能であろう。どういう職場かというと、ER(救急救命室)の医師や麻酔科医である。目の前の緊急事態だけに特化するような業務なら、得意分野である。十分に職責を果たすだけでなく、優秀な技能を発揮する。また、発達障害の看護師も存在する。手術室など患者さんとの微妙な会話が必要ない職場では、いかんなくその技量を発揮できる。米国では、発達障害の医師や看護師がかなりの割合でERや手術室で働いていると言われている。

このグッドドクターというTVドラマで描かれている内容は、実際にあり得る話なのである。これからの時代は、発達障害の方々がいろんな職場で活躍できるということを示してくれていて、好感が持てるドラマである。周りの人々の理解が得られるのであれば、発達障害があっても、業務の遂行が可能である職場は数多くあるに違いない。このグッドドクターでは、こんなシーンがあった。この自閉症スペクトラムのレジデント(後期研修医)を受け入れる病院長が、「この医師が病院で働くことにより、他の職員が多くのことを気付き学び、そして大きく成長することができる。病院が大きく変わる」と訴えるのである。

実にいい話である。障害者の雇用に消極的な企業が多い。雇用保険の保険料率を低減するために渋々障害者を雇用する大企業は多い。こういうケースでは、軽い身体障害の方々を選んで雇用する傾向があり、知的障害や精神障害を避けることが多い。日本の障害者雇用が遅々として進まないのは、企業における採用者側の不理解があるからである。最初から無理だろうとの思い込みがあるからだ。確かに、知的障害や精神障害の方々を雇用するには、受け入れる側の困難さが予想される。だとしても、障害者と共に働くことで、他の職員が学ぶことは多い。人間的に大きな成長が望めるのである。

私自身も現役で働いていた時に、知的障害や精神障害、さらには発達障害の方々を積極的に雇用していた。さらには、明らかにパーソナリティ障害だろうなと思われる方々も排除せずに採用した。そういう方も働ける職場があり、適材適所で配置した。周りの職員にも事情と特性を説明して、協力を求めた。上手く定着したケースもあったが、すぐに辞めてしまうことも少なくなかった。自分自身が毎日傍に居れば定着したであろうが、業務委託で派遣する社員なので、常にフォローするのが出来なかったからである。

障害者の方が定着した職場では、他の職員が人間的に大きく成長してくれた。知的障害の若者を優しく指導したり支援したりするうちに、その指導をした職員が驚くような自己成長を遂げたのである。知的障害の方が持つ純粋性や誠実さに触れることで、自分の穢れた部分や仮面を被らせた自己(ペルソナ)に気付いたみたいである。このように障害者雇用のマイナス面だけでなく、他の職員に及ぼす効果についても考慮したいものである。勿論、障害者自身も働きがいを持てたし、大きく成長できたことも付け加えておきたい。

グッドドクターというTVドラマが、これからどんな展開を見せるか楽しみである。発達障害でありながらも、サヴァン症候群なので驚異的な能力を発揮して、徐々に他の職員から絶大な信頼を得て行く様子が描かれるであろう。または、コミュニケーションが上手く行かなくて苦労する場面もあるに違いない。そういうことも、他の職員にとっては貴重な学びとなることも描いてくれると予想する。このTVドラマを観て、障害者雇用に対する消極性が払拭されることを期待したい。障害者と共に働くことで、人間の多様性を実感でき、障害者もそれ以外の職員も大きく自己成長できたら嬉しい限りである。日本でも、発達障害があっても普通に働ける社会になってほしいものである。