中高年のひきこもり

ひきこもりの実態調査を国は実施しているが、総数は減少しているという。そんな筈はないと思う人が多いに違いない。本人や家族に確認した訳ではないが、自宅周辺にも何人かのひきこもりがいることが何となく解っている。ひきこもりは増えているという実感があるのに、少なくなっている訳がないと思う人が多い筈である。ひきこもりの実態調査は対象者が若者だけである。ひこもりの若者が、その状態のまま中高年になっているから、調査結果のひきこもり該当者総数が減少しているだけであり、全体の総数は変わりないか増えていると思われる。

それで厚労省では、今回は中高年者のひきこもり実態調査をすることになったということである。今までは、10代から30代を対象とした調査であったが、今回の調査対象は40代から60代までの中高年にしたという。中高年のひきこもり者数が多いと感じた厚労省が、このまま見捨てておけないと、ようやく腰を上げた形である。若い頃にひきこもってしまって、その後ずっと社会復帰できずに中高年になってしまったケースが多いと思われる。このままでは、親が要介護になり施設に入所したり鬼籍に入ったりすれば、一人きりになってしまうひきこもりが多くなってしまう。

それでは、中高年のひきこもりの実態を明らかにして、それから国としてどうするのかというと、明確なビジョンはないらしい。とりあえず実態を調査してから、考えようとしているみたいだ。実態調査もそうだが、場当たり的な対応だとしか思えない。おそらく、正確な中高年のひきこもり者数の把握は難しいと思われる。それでなくても、子どもがひきこもりしていることを、恥ずかしいからと親はひた隠しにしていた。正直に子どもがひきこもりだとは、なかなか認めたがらないのではないだろうか。原因も解らず、その有効な対応策も見いだせないのだから、手の打ちようがないだろう。

中高年のひきこもりも含めて、何故そうなるのかという詳しい分析を、行政はまったくしていない。今までは、困った状況であるという認識はあったものの、原因の分析と解決策の検討はしていないのである。今回の中高年のひきこもり実態調査をしたとしても、有効な解決策を立てるのは難しいに違いない。何故ならば、ひきこもりの本当の原因を探り当てるのは到底出来そうもないからである。おそらく、ひきこもりの原因は、当事者の性格や気質、または何らかのメンタルの障害によるものだと結論付けるからである。そして、そうなったのは親の子育ての間違いだと考えているからである。

ひきこもりの原因は、当事者とその親にある訳ではない。全然責任がないとは言わないが、どちらかというと社会全体にあると見るべきであろう。つまり、社会システムの不備や不具合こそが、ひきこもりという社会問題を起こしていると考えなくてはならない。教育システムの誤謬、社会における間違った価値観、企業における経営哲学の不具合、そして各種コミュニティにおける関係性の劣化、そういう本来のあるべき姿からの乖離こそが、ひきこもりという問題を起こしているのである。不登校という問題も同様である。

とすれば、この社会システムにおける歪みを本来あるべき姿に正さなければ、ひきこもりや不登校が解決できないかと言うと、けっしてそうではない。間違ったり歪んでいたりする価値観や哲学によってこの社会が形成されていることを、まずはしっかりと認識することが必要である。そのうえで、社会に適応しにくくなっているのは、自分こそが正しいからだということを知ることである。自分の性格や気質が悪いからだとか、自分に適応能力がないからだという自己否定感を払拭しなければならない。そして、そのように育てた親に対する反発、恨みを持つことを止めることである。

明治維新以降に、富国強兵を進めるには欧米の近代教育が必要だと、客観的合理性の教育観を取り入れた。このあまりにも行き過ぎた客観的合理性の教育は、人々に個人主義、利益主義、競争意識を植え付けて、自分さえ良ければいいんだという利己主義を強化した。故に、他人に対する優しさや慈しみという感覚を捨てさせ、社会に対する貢献意識を無くしてしまった。当然、お互いの関係性を希薄化・劣悪化させ、家族・地域・企業などのコミュニティを崩壊させてしまった。この客観的合理性、言い換えると要素還元主義にシフトし過ぎた価値観の間違いを認め、正しい全体最適と関係性重視の価値観を認識することが必要である。この正しい価値観を親子ともども認識して、少なくても家族というコミュニティが再構築されれば、ひきこもりや不登校という問題は解決に向かうであろう。

 

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官僚の不祥事をなくすには

官僚の不祥事がこれでもかと起き続けていて、その動きが止まる気配がない。大学を監督する立場にある文科省官僚が、裏口入学を大学側に依頼していたというのだから驚きである。文科省官僚が、JAXAの関連業者から接待を受けていたというニュースの報道もあった。しかも、その接待の場に文科省の事務方トップの事務次官も同席していたという驚愕の事実も明らかになった。財務省の悪質な文書改ざん事件もあったばかりである。行政官庁にモラルハザードが起きて居ると言っても、けっして過言ではない状況にある。

こういう不祥事によって、我々に直接被害が及んでいる訳ではないから、他人事としか思わない国民も多いことだろう。しかし、よくよく考えてみると、我々の国民生活は官僚によって大きく影響を与えられている。したがって、こんな不祥事を起こすような官僚が国民生活の命運を握っているとしたら、まったく安心できない。彼らが作る法律原案や予算案が、国民本位で国民の平和や幸福を実現するためのものではなくて、自分たち官僚や政治家の為に作られているのではないかとの疑念が湧いてくる。そんな不祥事を起こす官僚に、国の将来を委ねて良いのだろうかと不安になる。

勿論、すべての官僚が悪意を持っていたり、自分たちの利益を最優先したりする訳ではない。国民の全体最適、幸福と豊かさを真剣に目指して努力している官僚も少なくない。大多数の官僚は、誠実で正義感が溢れている。しかし、これだけ不祥事が起きているし、まだ明らかになっていない収賄や接待もあると類推できる。ということは、官公庁で働く行政マンのモラルが著しく低下していると言えるだろう。コンプライアンス違反を繰り返す民間企業の役社員も同様である。そうなってしまった原因は、何であろうか。

このような事態を受けて、一般企業ではCSRにおけるコンプライアンスの徹底などが実行されていて、各省庁においても社会的責任の取り組みが行われている。しかしながら、その実効性は疑問である。何故ならば、あくまでもそれらの取り組みは、最終的には職員それぞれの自覚に任せられていて、罰則やペナルティーによる抑止効果を期待しているだけである。本人が主体的に自発的に取り組むという決意と実行力がなければ、コンプライアンスが機能することはないだろう。無理やりやらされている感覚のうちは、モラルハザードが払拭されることはないと思われる。

そもそも、コンプライアンスに取り組むことは、意識しないでもできるのが当たり前である。個人的な欲望の前に正義感が埋没してしまうことは、本来あり得ないことである。やはり家庭教育と学校教育において、幼い頃からの価値観教育をしてこなかった日本の教育の悪影響が現れたと言える。民間企業でも官公庁においても、モラハラやパワハラが日常化していて、多くの職員が休職や退職に追い込まれている。これも、職員や役員の価値観が劣化していて、モラルが低下している影響によるものであろう。職場環境の悪化が、ひきこもりを増加させている大きな要因になっているとも言える。

倫理観が喪失してしまい、労働環境が悪化している原因は何かと言うと、ひとつは関係性が希薄化や劣悪化していることであろう。厳格化した人事評価制度や行き過ぎた出世競争があると、職員お互いの関係性が悪化する。特に行き過ぎた成果主義が関係性を悪化させるということは周知の事実である。各官公庁においても成果主義が導入されつつあり、それが関係性を悪化させ、職場環境を悪くさせるだけでなく、生産性を低下させている。関係性が悪化すると、お互いの足の引っ張り合いを起こすし、優秀な部下を育成することをしなくなる。関係性が悪化すると、組織全体の自己組織化が実行されず、全体最適化が不可能になってしまうのである。

モラルハザードを起こすもう一つの要因は、正しい価値観に基づいた思想哲学を持っていないという不幸である。何のために働くのか、誰のために働くのか、何を目指すのか、というような基礎的な労働に対する思想哲学を喪失してしまっているのである。高収入を得る為、高い評価や地位を得るため、自己満足のためという低劣な労働観に縛られてしまった職員になっている。公務員というのは本来、国民や市民の全体最適を目指して働く使命を持つ。ところが、自分の損得や利害の為に働くような官僚に成り下がっている。だから、平気で収賄行為や不正行為などをしてしまうのであろう。しっかりした正しい価値観の教育こそが求められている。

 

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産み育てることを自ら拒否する親

LGBTの方たちを生産性のない人たちと断言して、内外から大きなバッシングを受けた杉田氏という女性国会議員がいた。所属する自民党からも苦言を呈されたようだが、本音においては、LBGTを批判的に見ている保守系議員は多いのであろう。普段から仲間内の会合では、LGBTを批判する会話が日常的にされているのではないかと想像する。だから、あんな発言になってしまったのであろう。自ら進んでLGBTの生き方を選択したのではなく、その道しかなかった方々から見たら、許せない発言であろう。

しかし、誤解を受けずに言えば、あの発言は許せないものの、考え方としては共感する部分がない訳ではない。LBGTの方ではなくて、自ら進んで子どもを産まないし育てないという選択をしている夫婦がいる。母体が出産と育児に耐えられないという事情があるケースなら仕方ないが、自分たちの人生を楽しむ為に敢えて出産・育児をしないという夫婦が増えているのである。共働きで子どもを産まないという選択をする夫婦を、DINKSと呼ぶ。このDINKSを選択することは、社会的に見たら果たしてそれでいいのだろうかという疑問を持つのである。

子どもを産んで育てながら働くというのは、かなりの難しさと制限を夫婦共に要求されてしまう。日本の働く環境は、けっして良くない。特に共働きの女性にとっては、子育てする環境が整っていないからだ。東京医大の入学試験で、女性の試験結果を不正操作した事件があったが、子育て中の女性の職場環境が不整備だからであろう。そういう働く環境だから、DINKSを選択せざるを得ないというのも理解できる。だとしても、すべての女性が生み育てないという選択をしたらどうなるであろうか。それではサステナブル(持続可能)な社会が実現しなくなってしまうのである。

人間には、いろんな考え方や生き方があっていいと思う。生み育てないという生き方を選択してもいいだろう。ただし、それが自分にとって損か得かという基準で選択するのはどうかと思う。自分の利害だけで、生み育てない生き方を選ぶというのは感心しない。自分が社会に大きな貢献をするとか、それが自分にしか出来ないという事情があるので、どうしても出産する訳にはいかないというなら仕方ない。夫婦だけで人生を楽しむのに、子どもは要らないという身勝手な理由なら、許されないと思う人も多い筈だ。

子どもを生み育てないという選択が、社会的損失だということからあの女性国会議員が、生産性がないと批判した。しかし、それは非常に軽薄な考え方であろう。それよりも、子育てをしないことによる損失は、経済的な側面の目に見えるものだけではない。それよりも、もっと大切なものが失われることを忘れてはならない。子育てを実際に真剣に行った親ならば、それが解るに違いない。子育てによって、親が大きく成長させられるし、子どもが心身共に成長する姿を観る喜びを享受できる。子育てというのは、親子が共に学び気付かされることが多いのだ。

子どもを育てる経験をしないと人間として一人前に成長しない、なんて乱暴なことは言わないが、子育てを体験しないと学ぶことが難しいことが沢山あるのは事実だ。学べることの中で大切なひとつとは、母性愛というか慈悲愛である。子育てをしなくても、母性愛や慈悲愛を発揮できる人がいない訳ではないが、極めて稀である。慈悲の愛とは、相手の悲しみを自分のことのように感じて慈しむという愛である。我が子は目に入れても痛くないという比喩の表現があるが、これは実際に子育てしなければ実感できない。幼い我が子の鼻が詰まって苦しんでいる時に、その鼻の孔に口を押し当てて、鼻汁を優しく吸ってあげられるのは親しかいないであろう。不潔だとか気持ち悪いという感情よりも、我が子を想う心が優先する。自分も躊躇することなく、我が子の鼻汁を何度も吸ってあげた。このような行為を通して、慈悲の心が育つのである。

子育ての経験においては、辛いことや苦しいこと、そして悲しい想いをすることが多い。しかし、そういう苦難・困難を経験するからこそ、人間として一回りも二回りも成長するのである。そして、そのような苦難・困難を乗り越えた時の喜びも大きいのである。子どもは、親を選んで生まれてくるというのは、胎内記憶の科学的検証から間違いないらしい。何故、親を選んで生まれて来るのかというと、選んだ親と共に苦難困難を経験して、それを乗り越えて自己成長する為だと、胎内記憶を残している子どもは断言する。ということは、自ら出産と子育てを経験しないと選択してしまう夫婦は、自己成長をするチャンスを自ら放棄しているということになる。そんな挑戦権を自分から捨てるというのは、実にもったいないことである。

思想教育に対する誤解を解く

思想教育というと、アレルギー反応を起こす人が多いことだろう。思想という言葉が、全体主義、軍国主義という戦前の間違ったイデオロギー教育を連想させてしまう。また、北朝鮮や中国における共産主義だけを是とする原理主義の教育を思い浮かべるからであろう。確かに、思想教育というのは国家による国民の洗脳に使われた負の歴史があるから、どうしても危険なものとして取られてしまう。しかし、本来の思想教育とはそんなに危険なものではなく、むしろ青少年の健全なる精神の教育には必要不可欠なものなのである。

正しい思想教育を排除してしまったのは、明治維新から始まった。近代教育を西欧から輸入した明治新政府は、それまでの江戸時代までに行ってきた思想教育を徹底して排除した。富国強兵を進めて行くうえで、思想教育は反国家運動に繋がり、邪魔になるとして思想教育を学校教育から閉め出した。客観的合理性の価値観だけが正しいものとして、思想・哲学なんて富国強兵の邪魔になるからと、排除してしまったのである。この要素還元主義を重視した学校教育は、人が生きる上での大切な価値観の教育を不要としたのである。

戦後になり、軍国主義や全体主義に陥ったのは、思想教育に原因があると誤解してしまったGHQは、徹底して思想教育を学校教育から排除した。特に神道に関連した価値観や、家父長制度を槍玉にあげて、家族を思いやり、絆を大切にする思想を徹底して嫌ったのである。特に、個別最適主義を徹底して教育し、全体最適に貢献するという考え方を排除したのである。明治維新から始まり戦後にさらに強化された、この個人主義という考え方は、利己的で自己中心的な人間ばかりを増やしてしまったのである。これは、思想教育をないがしろにした悪影響によるものでしかない。

さらに問題なのは、思想教育を学校教育から排除したおかげで、家庭においても思想を教育することも止めてしまったことである。人間として必要な価値観を持ち、清く正しく生きるべき道を示す思想教育を、家庭でも除外したのである。本来は我が子に対して行うべき思想教育を、父親も出来なくなってしまったのであろう。この思想教育を排除する動きは、民間企業や官公庁にまでも波及してしまった。戦後しばらくは企業でも思想教育を実施していたが、高度成長以降はまったく実施しなくなった。それが企業におけるモラルハザードを起こし、コンプライアンス違反を数多く引き起こした要因であろう。

官公庁において、贈収賄事件や文書改ざん事件が起きているのは、思想教育を排除してしまった影響からであろう。単なるモラル教育だけでは、不祥事を防止できない。人間として何の為に生きるのか、誰の為に仕事をするのか、生きる意味や生まれてきた理由をしっかり認識してもらう思想教育をしてこなかったつけが現れた格好である。学校現場で起きているいじめ問題や不適切指導の問題も、思想教育を排除した悪影響であると思われる。不登校やひきこもりの問題も思想教育をしてこなかった為に起きていると考えられる。

原理主義などのイデオロギー教育と思想教育はまったくの別物である。おおいなる誤解である。全体主義や国家主義の教育と思想教育はまったく違うものである。ここにも大きな誤解がある。思想教育というのは、人間として正しく生きる上で必要な価値観、または仕事や公益活動を行う上で基本とする考え方を教えることである。企業内で思想教育がなくなり、劣悪な労働観が支配的になると、企業の生産性が低下するだけでなく収益が生まれなくなり、存続さえ危うくなる。東芝の業績低下、日産や神戸製鋼の不祥事、東電の原発事故は、思想教育をしなかった故に起きた悲しい事態である。

家庭内において、正しい思想教育ができる父親が居なくなった不幸がある。清く正しく生きる価値観を教え育てる思想教育は、本来父親の役目である。子どもというのは、思想教育を求めている。試しに子どもに思想教育をしてみれば解る。目を輝かして、父親の話に耳を傾ける。我が子たちに思想教育をすると、感動のあまり涙を流していたのを覚えている。特に、自らの自己組織化を促すような思想教育が大好きである。人間とは個別最適でなくて、全体最適を目指して生きるべきだと伝えると、子どもたちの魂まで響く。しかも関係性を大切にして生きるべきなんだと教えると、家族間の絆も深まるし、学校でのいじめもなくなる。勿論、不登校やひきこもりも起きることがない。思想教育を我が子にしっかりと出来るような父親でありたいものである。

 

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登山は哲学である

登山家の岩崎元朗さんは、「山は哲」という造語を作って、ことあるごとにおっしゃっていた。山を学にしてはならない、あくまでも哲でなくちゃならないと主張されていたらしい。そういう考え方も確かにあると思う。登山を学びにしてしまうと、あまりにも一つの枠に当てはめてしまうことだろう。または、遊び的な要素を無くしてしまい、魅力を無くしてしまう怖れもあると思われる。しかしながら、登山を哲学と呼んでもいいじゃないかと思っている。登山とは、人間の生きる意味を学ぶ場ではないかと思うからである。

古(いにしえ)より山とは神々の住む場所だと考えられていた。さらに仏教においては、山は死後の世界である浄土であると思われてきた。人間が本来は到達することが困難な場所である厳しくて危険な山に登ることで、神や仏に少しでも近づくことが出来ると考えられてきたのであろう。山岳修行や登拝が広く行われてきたのは、日本人にとって山は精神的支柱であり憧れでもあったからだと思う。神と一体になりたいという思いや、生きたままに仏性を持つという即身成仏への願いが、山に登るという行為を神聖なものと考えてきたのかもしれない。

10年以上も公民館のトレッキング教室の登山ガイドを続けさせてもらっている。登山技術や安全登山の知識を生徒さんに伝えているが、山の歴史や哲学についてもレクチャーさせてもらっている。日本人にとって山とは何か?日本において登山が発展してきたのは何故か?歴史的背景を交えながら丁寧に説明している。日本における山とは、本来「お墓」を意味していた。「はやま」という地名が全国各地にあるが、里山を意味していて、そこには霊園があることが多い。青山(あおやま・せいざん)という地名も同じである。亡くなって魂が還る場所である「山」に、お墓を設置したのではないかと思われる。

山があの世(浄土)であるという考え方も多かった。山には、浄土平、賽の河原などの名称が付いている場所がある。山の頂上付近というのはあの世であり、山に登るという行為は一旦この世からあの世に行くという意味もあったのであろう。岩木山、月山、御嶽山、大峰山などの霊峰には、今でも死出の旅に着る白装束で登拝する人が多い。この世で身に付いた穢れ(けがれ)を、一旦あの世に行くことで祓い除け、生まれ変わって清浄な心でこの世に戻ってくるという意味を持つと考えられる。「六根清浄、懺悔、懺悔」と掛け声をかけて登っている。

霊峰に登拝する山岳修行が何故日本に広まったのかというと、厳しい身体的修行をすることが心を磨くことになるという考え方が根底にあったと思われる。精神と身体は密接な関係があり、心を磨くには身体を極限まで苛め抜くことで実現すると考えたらしい。確かに、そういう経験をしたことが何度かある。マインドフルネスや瞑想という心理的療法があるが、厳しくて体力の限界に挑むような登山は、自分と向き合うのに最適である。黙々と目の前の急坂を登っていく時間は、まさにマインドフルネスと言えよう。

山岳修行のような厳しくて危険な登山でなくても、山登りは精神的な鍛錬になることは間違いない。より難しくて体力を使う登山ほど、その効果が大きいと思われる。何故なら、自ら自分を精神的に追い込むような身体の鍛錬が、それを成し遂げた時の達成感や自己肯定感を向上させてくれるからである。ましてや、嫌なことや苦しいことに心折れずに自分から向かっていくチャレンジ精神を養ってくれる。人間の本来持っている自己組織性である、主体性・自発性・自主性を育んでくれると考えられる。しかも、登山は誰にも頼れないし、自分の決断で自己責任を基本として登ることなる。つまり、何かあった際に誰かに責任転嫁をしないという、責任性も生まれる。

最近増加している発達障害やパーソナリティ障害などの精神障害にも、登山は高い効果があると思われる。また、PTSDやパニック障害、うつ病などにもトレッキングは有効である。強いうつ症状がある方に、月山や鳥海山などの登山に連れ出しているうちに、症状がいつの間にか和らいだという体験をしている。子どもたちの健全育成には、トレッキングが最適だと思っている。今度の山の日には、孫たちを山に連れて行く予定をしている。幼い子どもたちには、何度も誉めながら登っている。自己組織性を伸ばすには、自分が認められて評価されることが必要だからである。人間の生きる意味や目指すべき道を探すという哲学をするには、登山が最適だと確信している。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、精神疾患や精神障害の方たちを登山にお連れしています。ひきこもりや不登校の方にも登山ガイドをします。登りながら、山・木々・花・鳥などのいろんな話をさせてもらうと共に、山の哲学についてもレクチャーさせてもらっています。東北の名山や北アルプスなどもご案内いたします。勿論、福島県内の安達太良山、磐梯山、会津駒ケ岳、燧岳などもご案内します。健康な方や子どもさん方もお連れします。問い合わせからご相談ください。

幼児性を示す大学生

大学生の幼児性が話題になっている。大学というのは学びの世界における最高学府である。その最高学府に在籍する大学生は、それこそ日本の将来を担う逸材である筈だ。その将来を嘱望されるべき大学生が、幼児性を持っていると言われているのである。そんな馬鹿なと多くの人々は思うのだろうが、実際にその大学生と日常接している大学の教職員たちは、学生たちのあまりにも酷い幼児性に呆れているというのである。なんとも情けない時代になったものである。

ひと昔の学生ならば、論文を書くのに細かく指導しなくても出来ていたという。ところが、研究テーマの設定からその仮説と実証、そして結論までも、すべて手取り足とり指導しなければ書けないらしい。しかも、文章を書く能力もないというから驚きである。ネットの中のそれも不確かな情報であるウィキペディア等の文章をコピペするだけというのだから情けない。当然、寄せ集めの文章だから、起承転結のない一貫していない文章だという。こんなにも酷い学生の低レベルに嘆いている教授は多いという。

こんな幼児性を示す大学生ながら、大学入試においては、そこそこの成績で合格しているらしい。記憶力や計算能力は図抜けているという。小論文や記述式の成績は良くないが、殆どの受験者が同じ成績だから、試験を通ってしまうのであろう。あらかじめ決められていたり指示されていたりすることなら、ある程度出来てしまうらしい。試験勉強を専門にしてきているから、記憶力があれば一定レベルの点数は取れてしまうという。したがって、応用力やリスク対応力などはなくても、大学に合格してくるらしい。

大学生の幼児性は、学力だけでないという。考え方や生き方自体も非常に幼稚らしい。専門書を読まないし、純文学も読まないらしい。読むのは専らコミックだけである。また、ゲームが三度の飯よりも好きらしい。スマホを片時も手離せないし、SNSに完全に依存している。食べ物も幼児が好むようなジャンクフードを好むし、お菓子や炭酸飲料をバッグの中に常備している。誰からか指示されないと動けないし、自発的行動が出来ない。自ら考えて主体的に行動することが苦手だし、何事にも責任を取れないのである。困ったものである。

大学生の幼児性は、どこから生まれたのであろうか。誰がこんな若者にしてしまったのであろうか。大学の教授たちは、この学生の幼児性は学校教育による影響ではなくて、家庭教育に責任があるんじゃないかと見ているらしい。学校教育にも責任がまったくないとは言えないが、精神性が幼児のまま成長していないのは、家庭における子育てに原因があるに違いないと推測する教育者が多い。乳幼児期の子育てにおいて、あまりにも親が過干渉な態度を取り続けたせいと考えられる。子どもが何か話そうとすると先取りして親が話してしまうとか、親が次の行動を指示してしまうような干渉を繰り返したと思われる。その為に自分で考えて自ら自発的に行動するという事が出来なくなってしまったのであろう。

親が子に対して過干渉を繰り返すと、何故に子どもが主体性を失ってしまうのかというと、人間の自己組織化というシステム論から説明できる。人間というのは、生まれつき自己組織性が本来備わっている。生まれ育つうちに、人間には少しずつ自己組織性が成長する。ところが、あまりにも行き過ぎた『介入』を繰り返してしまうと、自己組織性が育たないのである。自己組織性というのは、人間にとって必要不可欠な主体性・自主性・自発性・責任性というものである。乳幼児期と少年期に指示・支配・制御などの介入を必要以上に繰り返すと、自己組織性が育つことがなく、幼児性が残ってしまうと考えられる。

大学生や若者に自己組織性が育つことなく、あまりにも幼児性が残ってしまっているのは、やはり家庭教育にその責任がありそうだ。だとすれば、その幼児性を青年期に払拭することは出来ないのであろうか。成人してからは、自己組織性を獲得することが出来ないとしたら、職場においても使いものにならないであろう。企業においても、指示待ち人間が増えたと聞き及んでいる。大学生の幼児性だけでなく、社会人でもその幼児性が発揮されているのであろう。家庭教育にその原因があったとしても、若者になってからの教育のやり直しで幼児性を払拭するのは困難ではあるが、不可能ではない。何故なら、人間は本来自己組織性を持つからである。行き過ぎた介入により自己組織性が育っていないのなら、介入のない教育を一からやり直すことで、自己組織性が必ず育つのである。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、自己組織性を育てる研修を実施しています。主体性・自発性・自主性・責任性を発揮できる人材を育てる教育をしています。つまり自ら自己組織化をする人材を育てる研修です。是非ご相談ください。

ひきこもりを乗り越える

ひきこもりは、個人的な要因によって起きるのではなくて、社会システムの偏りや歪みによって発生しているということを前回のブログで明らかにした。そうなると、社会システムの誤謬を正さない限り、ひきこもりを乗り越えることが出来ないと思う人が多いかもしれない。しかし、けっしてそうではない。社会システムの中で最小単位である家族というコミュニティの社会システムを、本来あるべき正しい形にすれば、それだけでひきこもりを乗り越えることが出来て、社会復帰することが可能になる。これは、不登校さえも乗り越えることが出来る方法でもある。

家族という最小単位の社会システム(コミュニティ)が、壊れてしまっているということを認識している人は極めて少ない。すべての家族というコミュニティが崩壊しているとは言わないが、殆どの家族は本来のコミュニティ本来の機能を失っている。何故、そんなことになってしまっているかというと、あまりにも偏ってしまった価値観にあると言えよう。家族というのは、お互いの尊厳を認め合い、お互いを支え合い、お互いに何も求めず愛を与えるだけの存在である。愛が溢れ、安心で平和な暮らしができる『場』である。しかし、現実にはそういう愛が溢れる安心の居場所になっていないのである。

人間が生きる上で絶対に必要な価値観とは、深い絆(関係性)と全体最適であろう。ところが今の日本人は、この全体最適を忘れてしまい、個人最適に走ってしまっている。そして、お互いの関係性を大切にする生き方を忘れ、個人主義に陥ってしまっている。家族というコミュニティにおいても、それぞれが身勝手で自己中心的な生き方をするあまり、家族がバラバラになってしまっている家庭が増えてしまった。父親は仕事優先の生き方をするあまり、家事育児に協力しないし、妻の話を聞かないし共感しない。父親は、家族から敬愛されていないばかりか、一人浮いている。そんな家庭が増えてしまったのだ。

ひきこもりや不登校の子どもの家庭状況がすべてそうだとは言えないが、お互いが心から信頼し支え合う家族関係が希薄化しているケースが多い。つまり、お互いの尊厳を認め合い支え合うような、深い絆がなくなっている。何故、そんな状況になっているかというと、介入し過ぎるケースがある反面、関わり合いが極めて少なくて、無視をし合うような家族関係があるからだ。ある程度の親としての優位性は仕方ないが、必要以上に子どもに対して優位を保とうとして、所有・支配・制御などの介入を繰り返すことがある。または精神的に幼児性を持つ父親が、自分に都合が悪くなると沈黙したり無関心を装ったりすることもある。これらの不都合を日常的に繰り返して、関係性が非常に希薄化してしまうのだ。

家族というコミュニティは、ひとつの社会システムとして見られている。したがって、家族それぞれには自己組織化する働きがあるし、オートポイエーシス(自己産出)の機能を持つ。親が子どもに対して行き過ぎた介入をして、関係性を損なうようなことを繰り返してしまうと、この自己組織化と自己産出(成長や進化)を妨げてしまう。子どもがひきこもりや不登校になるのは、自己組織性と自己産出を自ら放棄してしまったということである。人間とは、自らの意思で自らの言動を決定する。そして、その自らの言動には責任を持つ。そして、自分の内部からふつふつと湧き出させるエネルギーで何事にも挫けず挑戦をするのである。これが、人間の持つ自己組織性と自己産出性である。

この自己組織性と自己産出性の機能を無くしてしまった家族だから、ひきこもりという問題が発生しているのである。とすれば、システムとしての家族が本来持つ機能である、自己組織性と自己産出性を持つようになれば、ひきこもりが克服できるに違いない。これは、当事者本人だけが機能回復すれば良いという訳ではない。家族全員が、自己組織性と自己産出性の機能を回復しなければならない。そして、家族全員が全体最適と関係性重視の価値観を持ち、自己犠牲を厭わずにお互いに支え合い守りあうコミュニティを再生すれば良いのだ。親がまずその機能を回復し、正しい価値観を持つことが重要である。それがひきこもりを乗り越える道筋を示すことなることだろう。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、ひきこもりからの回復をサポートしています。家族本来の機能を回復するには、一切介入をしない家族療法が必要です。何故ならば、介入をされれば人間は、その介入を拒否するからです。介入することなく、ただ当事者と家族との開かれた対話を繰り返す、オープンダイアローグという家族療法がひきこもりを乗り越えるのに非常に有効になります。まずは問い合わせフォームからご相談ください。

ひきこもりの本当の原因

ひきこもりという状況に追い込まれてしまい、もがき苦しんでいる人はかなり多いと推測される。厚労省や市町村もその実数の把握が出来ないでいる。ひきこもりという統計上の定義も確立されていないし、ましてやひきこもりを家族がひたすら隠しているのだから、正確な人数を把握できる訳がない。さらに、当事者自身がひきこもりだと認識していないケースも少なくない。障害者として認定されていないし、精神疾患や精神障害でもないから、カウントする術がない。実態を把握できなければ、行政側としては積極的な対応も出来ないのかもしれない。

ひきこもりの子どもを持つ親は、どうしてこんな状況になってしまったのか、原因さえ掴めないでいると思われる。当事者自身もひきこもりになった確かな要因を認識できないでいる。不登校の原因が人間関係だとされているように、ひきこもりの原因も人間関係だとは何となく解ってはいるものの、何故社会に出て行けないのかが判然としない。原因が特定できなければ、対応策を考えることも不可能であろう。社会現象としてひきこもりが増えているという実態は何となく解っているし、何とかしなければならないと行政側は模索しているものの、抜本的対策を考える術を持ち得ていない。

ひきこもりの子どもを持つ親の苦悩は相当なものであろう。長年に渡りひきこもっている子どもを何とかしなければと思いながら、どうしようもない焦りや不安に苦しんでいる。将来は親自身が先に逝くのは間違いないのだから、その時がやってきたらどうなるかという不安は相当なものである。しかし、それ以上に苦しんでいるのは、当事者自身であろう。周りから見ていると、以外と呑気に見えるかもしれないが、ひきこもり本人の苦悩や不安は親以上にあるに違いない。自分の本当の気持ちを分かってくれる者はいないし、誰も助けてくれそうもないのだから、その孤独感は半端ない。

ひきこもりの原因は、人間関係における不都合だと思われているし、本人の資質やその性格にもその要因があると推測されている。親の子育てにおける偏りも指摘されている。親も含めた親族もそう思っているし、社会一般的にもそうだろうと認識されている。確かに、そういう要因やきっかけもあるだろうが、ひきこもりの本当の原因はそれだけではない気がしてならない。どちらかというと、ひきこもりという状況は社会システムの歪みが起こしているのではないだろうか。つまり、ひきこもりというのは個人的な要因によって起きているのではなく、社会全般に責任があるのではないかと思うのである。

ひきこもりの方々は、非常に大きな『生きづらさ』を抱えている。その生きづらさが何によって生じているのか定かでないが、何となく生きづらさを抱えるが故に、社会に出て行けないのであろう。つまり、強烈な生きづらさ故にひきこもりという状況を選ぶしかないのだ。そして、その生きづらさが発生する根源は、この社会そのものにある。誰でもひきこもりになるのではなく、特定の人しかならないのだから、生きづらさの原因は本人にあると思う人も多いだろう。しかし、生きづらさの原因は社会にあるし、その生きづらさを殆どの人は感じているが、我慢して生きているだけなのである。

それじゃ、社会そのものに原因がありそれにより生きづらさを感じるというのならば、その社会の歪みというのは何だろうか。社会というのはひとつのシステムである。様々なコミュニティが寄り集まって形成されている。家族、グループ、学校、地域、職場、市町村、県、様々なコミュニティが存在する。そのコミュニティというのは、共同体なのだから本来はお互いが主体的・自発的に支え合うものである。その構成要素であるそれぞれの人は、特定の人が優位性を持たず、公平で平等でなければならない。そして、基本的にお互いに介入し合わないのが原則である。そうでなければ、システムとして本来の機能を発揮できない。コミュニティも所属する人も自己組織性を失うからである。

家族というコミュニティにおいて、親が子に対してあまりにも優位な立場を保つ為に、所有・支配・制御を繰り返し、指示指導など行き過ぎた介入をしやすい。仲間のグループにおいても特定の人間が支配者として君臨し、他に対する強い介入をする。職場でも同じ状況が起きるし、学校という場所でも歪みが生じている。コミュニティという様々な共同体というのは、お互いが平等で争いのない平和で安心できる場所であるべきなのである。つまり、安心できる『居場所』が家庭・学校・職場・地域にないのである。これでは生きづらさを抱えてひきこもるしかないのである。この社会があまりにも歪んでいるが故に、ひきこもりが起きているのである。

 

※ひきこもりが起きている本当の原因について、イスキアの郷しらかわでは研修を実施しています。そして、ひきこもりの原因が社会システムの歪みにあるとしても、どうすれば生きづらさを抱えながらも乗り越えて行けるのかを、一緒に考えます。地域・職場・学校などのコミュニティを変えるのは容易ではありませんが、少なくても家族というコミュニティを本来あるべき姿に変えることは可能です。そうすることで自分自身が変化できます。ひきこもりの家族に対する研修も実施しています。まずはご相談ください。

見返りを期待すると病気になる?

見返りを求めると病気になるなんていうと、大きな誤解をされそうだ。おそらく、私は見返りを求めたことがないのに病気になっていると、おおいに憤慨する人も多いに違いない。確かに、それぞれの行動する際に、見返りを期待している人はいないであろう。見返りというのは、そういう意味ではない。何かを期待して行動するということではなくて、知らず知らずのうちに、何らかの謝意や評価、または好かれたい自分を密かに期待しているという意味である。無意識における期待のことである。

家庭においては、子どもやパートナーに対して何も見返りなんか求めていないと言い切る人が殆どであろう。ただ、何も期待することなく世話をしたり家事育児をしたりしていると思っているに違いない。しかし、自分の心のうちを冷静に観察してほしい。どこかで、感謝の言葉や家族から好かれる自分をそっと期待していないだろうか。毎日せっせと家事育児をこなすとか、収入を得るのに仕事に精を出していても、それを当たり前のように思っている家族に何となく違和感を覚えていないだろうか。

職場において、家庭を犠牲にしても仕事第一で、身を粉にして働いているのに、正当な勤務評価を得ていないと不満を持つ人は多いことであろう。人一倍努力しているのに、待遇や昇進が思うように向上しないことに苛立つ人も多いに違いない。職場の同僚や上司には、いろんな気遣いや思いやりを持って接しているのに、どうして自分が他の人から疎まれるのは納得できないと思っている人もいることだろう。職場では何も見返りを期待する訳ではないが、無意識のレベルでは求めているものがあると思われるのである。

このように、職場でも家庭においても、意識して見返りを求めている訳ではないものの、無意識下においては淡い期待をしていることはあるだろう。実は、この淡い期待というのが叶えられないことによって、人間の心身にダメージを蓄積して行くのである。職場や家庭というには、日常性である。毎日、この淡い期待が裏切られていく生活の積み重ねこそが、心身の疾病に繋がっていくと想像する。意識していない怒りや憎しみ、悲しみや寂しさが、神経伝達系のシステム異常、自律神経の乱れや免疫システムの破綻を起こすと思われる。

どうして見返りを求める生き方が心身の疾病に繋がるのかを、科学的に解明してみたい。人間の細胞は60兆個あると想像されてきたが、どうやら37兆2千個だと解明されたようである。そして、医学や生物学、分子細胞学などの研究が飛躍的に進歩した。今までの医学常識が覆されるような大発見が起きているのである。それが、細胞の自己組織性である。近代医学においては、人体のシステムというのは脳からの指示命令によって各臓器や各組織がその機能を発揮しているものと思われてきた。その各組織や臓器を形成する細胞もまた、脳からの何らかの指示命令を受けているものと考えられてきたのである。

ところが人体システムが科学的に解明されてくると、どうやらそれは完全な間違いだったことが判明したのである。細胞そのものが、誰からも指示命令されずに、主体性・自発性・責任性を持って、人体全体の最適化の為に働いていることが解明されたのである。これをシステム論的に言うと、自己組織性と呼ぶのである。テレビ東京系列で放映されている「働く細胞」というアニメをご覧いただければ一目瞭然である。例えば白血球は、誰にも指示されていないのに、人体の生命システムを守る為に、自分を犠牲にしてでもウィルスやばい菌と戦うのである。つまり、『見返り』を一切求めず、自己犠牲を厭わずに日々働いているのである。

人体を構成する細胞が自己犠牲を厭わず、見返りを求めずに活動しているのである。それなのに、人間がたとえ無意識とはいえ、見返りを求める生き方をしたらどうなるのか。そして、その期待した見返りが叶えられないことを不満としたらどうなるであろうか。細胞や各臓器と組織が自己組織性を持って働き続けているのに、全体である人間がシステムに反する生き方をしたら、人体における免疫システムの異常や神経伝達系システムの破綻が起きるのは、火を観るより明らかである。見返りを無意識下でも求めない生き方、つまりは与え続けることを無上の歓びと感じる生き方をすれば、細胞の自己組織性と同じ生き方になる。そうすれば、心身がすこぶる健康になり疾病になることはないのである。

権力者こそ権威を捨てよ!

ボクシング連盟が揺れている。山根会長が連盟を私物化して、アマボクシング界を牛耳ってきたことが判明した。公的機関が一部の権力者によって、公平性や平等性を失ってしまうなんて考えられない。よほどの圧倒的権力を握っていたのであろう。文科省の汚職が止まらない。文科省の事務方トップの事務次官が接待を受けていたというのだから、唖然として口が塞がらない。権力者がその権威を利用して、行政や公的機関の業務遂行を歪めるなんて、絶対に許せないことである。

権力者がその権威を利用して、政治や行政を私物化して自分の都合よろしく捻じ曲げるのはよく起きることである。だからこそ、そうならないように透明性や公平性を保持すると共に、権力の集中化を防いできた。さらには、権力が永続しないような工夫をしてきたのである。権力者自らも、公明正大で清廉な運営を努力すべきであろう。ところが、現実には日本大学の理事長や東京医科大学の理事長のように、権力の集中が起きて大学運営が私物化されている。権力が集中すると、必ず内部腐敗が起きるものである。

どうして、こんなにも権力を乱用しての歪みが起きるのであろうか。行政や政治だけでなく、民間の組織運営でも起きてしまうのは何故であろうか。日本の政治・行政のトップがあまりにも権力を乱用しているから、その下部組織だけでなく民間さえもが真似てしまうのだと主張する人も多い。確かに、忖度したのか指示したのかは定かでないが、日本のトップがその権威で行政を歪めているのは間違いない。それが許されているのだから、自分たちもいいじゃないかと規律が緩むのは当然であろう。

江戸時代も、政治と行政と司法が武士に集中したが故に、権力の濫用が起きてしまった。その反省の元に、「武士道」という価値観を強く持ち、武士自身の生き方を自ら戒めてきた。その武士道の中で、特筆すべきなのは「惻隠の情」である。惻隠の情とは慈悲のことであり、社会的弱者に対する配慮をすべきであると説いている。自分たちの利益優先の個別最適ではなくて、全体最適を目指しなさいという哲学であろう。権力を自分たちの為に乱用してはならないと自らを戒めて、自浄作用を求めたのだと思われる。

権力者が自分の権威を振りかざして、自分の利益や豊かさを求めるだけでなく、権力者に媚びへつらう者におこぼれを授ける構図がある。コバンザメのように、権力者に付いていれば自分も利益を受けることが出来ると、派閥を形成する傾向がある。実に醜いし情けない。ボクシング連盟の山根会長が権力を持ち続け得たのは、取り巻き連中が派閥を作っていたからであろう。東京医大の理事長もしかり、日大の理事長も同じ構図である。相撲協会も同じだし、省庁も派閥を作って自分たちのトップを何としても事務次官にしようと運動している。

組織や団体の運営に関して、何故権力者に権威が集中するといけないのであろうか。観念論や倫理観だけでなく、論理的にしかも科学的に証明することが可能である。組織というのは、ひとつの「システム」である。その構成要素は、部・課・人である。そして、その構成要素の最低単位である人は、自己組織化する。組織(システム)を構成する人は自らが主体性・自発性・責任性を発揮して、全体最適を目指すものである。そして、自己組織性を持つには、その構成要素である人は、平等で公平な関係性(ネットワーク)を持たなくてはならない。権力を集中させてあまりにも一方的に優位な関係を作ってしまうと、良好な関係性を損ない、自己組織化しなくなりシステム(組織)は破綻する。

さらに、自己組織化しなくなったシステム(組織)は、オートポイエーシス(自己産出性)を失ってしまう。つまり成果を出せないということである。自己成長や進化をしなくなってしまった組織は生き残れない。このシステム論は、最先端の複雑系科学によって証明されている科学的事実である。量子力学や分子細胞学においても証明されつつある。こんな科学的事実を知らないでいるから、権力者が権威を持ちたがり、内部崩壊を招いているのである。昔から『実るほどこうべを垂れる稲穂かな』と言われているのである。権力者たる者は、すぐに権威を捨てて、組織の自己組織化を目指さなければならない。