ボランティアと偽善

今年の夏もNTV系列の24時間テレビが放映された。今回のマラソンは金メダリストの高橋尚子さんがランナーを務め、自らが走った距離に応じて募金をするという企画であった。この企画に対して一部の視聴者から、偽善的だというコメントが寄せられたらしい。24時間テレビに対しては、チャリティーに名を借りた視聴率取りであるとか、出演者にはしっかりとプロダクションを通してギャラが支払われているという批判があった。今回は高橋尚子さんに対して、あからさまに偽善者だというレッテルを貼ろうとしたのだ。

 

この偽善批判に対して、番組内で高橋尚子さんは毅然とした態度でコメントした。『偽善だと言われても、それで1人でも多くの人が救われるならば、偽善でもやる価値はある』と。立派な態度だと思う。ボランティアやチャリティーに対して批判をする人々が、自分で何かをしたのかと言うと、何もしていないに違いない。何もしないで批判するよりも、たとえ批判されてもやったほうが素晴らしい。さだまさしさんも番組内で、そもそも自分は偽善者だと思っているから何とも思わないし、何もしないよりは良いのは確かだと語っている。

 

東大卒の僧侶で、『偽善入門』という著作を書いた小池龍之介氏も同じようなことを主張している。人は批判的にボランティアなんて所詮偽善だというが、結果として人々を救い幸福に出来たとしたら、良しとしよう。たとえ偽善の心があったとしても、継続すればいつかは限りなく善に近づくことになるのではないか。偽善は真善よりも価値が低いかもしれないが、悪や偽悪よりはましであろう。偽善を続けていけば、いつかは善になるのではないかと語っている。偽善だと思い一歩を踏み出せない人へ、強烈なエールを送っている。

 

私もボランティアとしてイスキアの活動を行っている。利用者やクライアントからは、一切の報酬を受け取っていない。電話やzoomなどでのカウンセリングも無料だし、農家民宿を利用しての相談や体験・研修もすべて無料でさせてもらっている。そんなことはあり得ないと思って、いつかは何かを要求されたり買わせられたりするんじゃないかと心配されている方もいらっしゃる。勿論、偽善者だと疑う人もいるに違いない。今まで、いろんな人から騙されたり裏切られたりしてきた人だから、善意を信じられないのは当然だと思われる。

 

私は、偽善者だと思われたとしても、それは自分に偽善の匂いを感じさせる至らなさがあるからだと思うので、仕方ないことだと思う。自分には評価を得たいとか感謝されたいとかいう下心がないかというと、けっしてそうではない。多少なりとも、世間から注目されたいし認められたいという下心もあるし、尊敬されたいとも思う心がまったくない訳ではない。私には、そんなよこしまな気持ちなんてさらさらないのだと、傲慢で謙虚さのかけらもないような態度だけは取らないようにと心がけている。

 

人は、誰しも他人から好かれたし敬われたいと思っている。自分の心の中には、薄汚れた欲望が確かに存在するのである。自分の心の中には清らかなものしかないし、醜さや穢れを存在しないと思い込んでいる人は、危険な人だと言えよう。そんなマイナスの自己を認めず受け入れず、自分だけは不浄な心なんてなくて清廉であると思っているような人は信用できない。そんな思いあがった人を偽善者と呼ぶ。自分の心の中に恥ずかしい自己を発見した時に、それを隠そうとするのか、それとも認め受け容れるのかによって、偽善者かどうかが決まるのではないだろうか。

 

チャリティーやボランティア、またはNPO活動を自分のビジネスに利用している人がいるのも確かである。今まで、綺麗ごとを言いながら、裏ではしっかりと利益・権益を受け取っている人も沢山見てきた。NTVの役員や管理職、または芸能プロの役員・幹部の中にも、そういう人がいるかもしれない。でも、だからと言って24時間テレビに出演している人たちがすべてそうだとは言い切れない。高橋尚子さんやさだまさしさんのように、勇気を出して自分は偽善者であると宣言する人は、けっして偽善者である筈がない。私もいつかはそうなりたいと思いながら、イスキアの活動を通して真善に到達するまで偽善をやり続けたい。

悲劇のヒロイン症候群

悲劇のヒロインのような人生だけは送りたくないと、誰しも強く思うことだろう。でも、自分が悲劇のヒロインのような人生を自ら招いていると知ったら、驚くに違いない。もし、自分の現状が悲劇のヒロインのように、何もかも上手く行かずに悩んでいたとしたら、それは悲劇のヒロイン症候群に陥っているのかもしれない。勿論、そんな疾患名は存在しない。しかし、世の中にはこの悲劇のヒロイン症候群で苦しんでいる人が実に多いし、その事実に気付いていない。この事実を知って適切に対応すれば、悲劇のヒロインから抜け出せるのに。

 

誰だって悲劇のヒロインのような生活を望んではいない。でも、何故か自分の人生は不遇であり、やることなすこと裏目に出てしまう。今度は頑張ろうと思っていても、同じような失敗を繰り返してしまう。学校や職場で人間関係が上手く行かず、不登校になったりひきこもりになったりしてしまう。恋人やパートナーとも上手く行かず、いつも喧嘩別れをしたり捨てられたりすることが多い。結婚しても夫とは正常なコミュニケーションが取れず、DVやモラハラを受けてしまいがちだ。そんな女性が実に多いのである。

 

この悲劇のヒロイン症候群というのは、正式な病名ではないがパーソナリティの欠陥による心の病気だ。メンタルモデルに問題がある為に、知らず知らずのうちに悲劇のヒロインのような役割を演じてしまうのである。代理ミュンヒハウゼン症候群という病気がある。これは、怪我したり病気になったりしているように偽って周りに振舞って注目を集めるという心の病である。しかし、悲劇のヒロイン症候群は、不幸な人生を実際に招いてしまうのである。そして、悲劇のヒロインのような人生を送り続けてしまう恐ろしい心の病と言えよう。

 

この悲劇のヒロイン症候群は、それだけに止まらない。酷くなると、実際に心身の疾患を発症してしまうのである。パニック障害、PTSD、うつ病、双極性障害、各種依存症、PMS、PMDD、妄想性障害などのメンタル疾患を発症してしまう。めまい、突発性難聴、不定愁訴症候群から始まり、乳がん、子宮がん、卵巣がんなどの重篤な身体疾患を発症することも少なくない。最近特に多いのが、原因不明のしびれや痛みである。心因性疼痛、線維筋痛症などの神経性疼痛で悩まされる女性が多い。悲劇のヒロイン症候群の影響である。

 

どうして自らが悲劇のヒロインのような役割を演じてしまうのかというと、端的に言えば愛情不足からである。愛に飢えているから、愛を渇望している。それも、乳幼児期における子育てに問題があり、あるがままの自分をまるごと愛される経験をしていない。だから、自尊感情が育っておらず、自己否定感が強い。両親、とりわけ母親からの無条件の愛(母性愛)が不足しているから、いつも満たされない心が存在する。悲劇のヒロインになって周りから同情を得て、愛してもらいたいのである。そして、強烈な生きづらさを抱えて生きている。悲劇のヒロイン症候群の根底には愛着障害が存在しているのである。

 

自分では親からたっぷりと愛情を受けて育ったから、愛着障害ではないと思っている人が多い。しかし、その愛情は過干渉や過介入の愛であり、支配愛や所有愛である。無条件の愛、または無償の愛ではなくて、親の思い通りの人生を歩むように仕組まれた愛である。ダブルバインドという極端な子育てをされているケースも多い。その証拠に、成人すると母親と一緒にいると気詰まりになったり不機嫌な気持ちになったりすることが多い。母親との豊かな愛着が形成されていないからである。母親もまた愛着障害なのであるから、子どももまた愛着障害になるのは当然である。愛着障害は世代間連鎖するのである。

 

悲劇のヒロイン症候群は一生治らないのかというと、けっしてそうではない。まずは、自分が愛着障害であるということを認識することが必要だ。そのうえで、適切な愛着アプローチ受ければ愛着障害を癒すことができる。そうすれば、悲劇のヒロイン症候群を乗り越えられる。一番手っ取り早いのは、母親の愛着障害を癒すことである。しかし、母親が70代になってしまうと愛着障害を修復するのは難しい。安定した愛着を持ち、共感的メンタライジング能力に長けたセラピストによる愛着アプローチを受ければ、愛着障害を修復することができる。そうすれば、悲劇のヒロイン症候群から抜け出せるであろう。

※イスキアの郷しらかわでは、悲劇のヒロイン症候群(愛着障害)を乗り越えるサポートをしています。自分で悲劇のヒロイン症候群ではないかと気づき、なんとか乗り越えたいと思っている方は問い合わせフォームからご相談ください。

     

    機能不全家族になる本当の原因

    機能不全家族が増えているという。そして、それが原因で家庭崩壊に陥っているケースも少なくない。家族というコミュニティがその健全なる機能を失っているのだから、家庭が様々な問題を起こして、家庭崩壊を起こすのはにべもないことだ。機能不全家族に陥る原因は、ひとつには家族がアルコール・ギャンブル・薬物・ゲームなどの依存症に陥っているせいで起きていると考えられている。また、親が自殺したり離別したり、再婚を繰り返すということも原因だと言われている。勿論、家庭内暴力や虐待も要因のひとつだと言える。

     

    これらの機能不全家族の原因だと考えられているものは、本当の原因ではないような気がする。家族が様々な問題やトラブルを起こすのは、そもそも家族という形態が脆弱であり、家族の関係性が希薄化もしくは劣悪化しているからではなかろうか。特に親子の関係性が非常に悪いというのが特徴であり、その根底にあるのが両親の不仲である。機能不全家族の親たちは、クレーマー、モンスターペアレンツ、アダルトチルドレン、毒親と呼ばれるような人が多い。その中で、子どもに対してもそうだが夫婦間でも、共依存や過干渉が起きている。

     

    そして、これらの機能不全家族の家庭では、実に多くの問題やトラブルが起きている。問題が起きていないように見えても、実は家庭内に実に深刻な問題を内包していることが非常に多い。子どもが不登校やひきこもりになっているケースも、一見するとごく普通な家庭に見えていながら、実は機能不全家族であることが殆どである。そして、子どもが深刻な摂食障害、ギャンブル依存やゲーム依存、さらには薬物依存などに陥ることもある。または、妻や子がパニック障害、PTSD、うつ病、各種メンタル疾患を発症する例が多い。

     

    それでは、どうして家族の関係性が希薄化したり劣悪化したりしているのであろうか。そしてその関係性が悪化すると、どうして機能不全家族になるのか。その原因は、システム論から考察すると明らかに出来る。家族というコミュニティはひとつのシステムであると考えられる。家族ひとりひとりがそのシステムの構成要素である。システムの構成要素である家族ひとりひとりは、お互いにいたわり合い支え合う関係性が求められる。そして、それぞれの家族は、個別最適ではなくて全体最適を目指すことが必要不可欠なのである。

     

    つまり、家族というシステムは、良好な関係性と全体最適を目指すという価値観を共有しないと、システムエラーを起こしてしまうのである。システムエラーとは機能不全家族になるということであり、家庭崩壊という結果を招いてしまうという意味である。機能不全家族は、家族それぞれがばらばらであり、個別最適を優先しがちである。あまりにも自分の幸福や豊かさを実現しようとしてしまい、全体最適である家族全員の幸福実現を二の次にしてしまうと、システムエラーを起こしてしまうのである。

     

    システムの構成要素である家族それぞれが、何故に良好な関係性を結べず全体最適を目指せないのかというと、それは家族間における安定した愛着が結べていないからに違いない。親子間で良好な愛着が結ばれていれば、常に自分よりも先に家族の幸福や豊かさを優先する。夫婦間でも同様である。親どうしの関係性が悪いと、親子の愛着も傷ついてしまうことが多い。愛は連鎖して循環する。夫婦間の愛情が滞ってしまうと、子どもに対して豊かな愛情を注ぐことができなくなる。特に、母親からの無条件の愛である母性愛が不足してしまう。そうなると子どもは自尊感情を持てず、愛着障害に陥ってしまうのである。

     

    親子も夫婦も良好な愛着が結ばれていないと、機能不全家族になってしまう。そうすると深刻な問題が起き続け、いずれ家庭崩壊を起こしてしまう。だから、家族間の傷ついた愛着や不安定な愛着を、一刻も早く修復しなければならないのである。そのためには、システム思考を家族全員が共有することが肝要である。全体最適と関係性重視の価値観に基づいた思考と行動が必要である。このシステム思考に基づいた言動を、家族全員がお互いに続けていくと、愛着は修復されて家族というコミュニティは再生する。機能不全家族が解消されるには、これしか方法がない。

     

    ※自分の家庭は機能不全家族だというふうに感じましたら、「イスキアの郷しらかわ」にご相談ください。システム思考とはどういうものなのか、システム思考で生きるにはどうしたらいいのかをレクチャーいたします。家庭崩壊を防ぐ手立てを一緒に考えますし、その支援をさせてもらいます。問い合わせフォームからご相談ください。

    ウィズコロナの時代を生きる

    新型コロナの感染がまったく止まらない。連日、新感染者が過去最高だと報道されている。新しい生活様式ということで、新型コロナウィルスと共に生活するライフスタイルが盛んに提唱されているが、いまいちそれが徹底されていない。新しい生活様式が定着していれば、こんなにコロナ感染が起き続ける訳がないからだ。若い人たちには、新しい生活様式が不評というか、自分たちは感染する訳がないと嘯いて、今までの生活様式を貫いている。確かに若い人は感染しても症状が現れにくいし、重症化しない例が多いのは確かだ。

     

    新宿や池袋、または渋谷など比較的若い世代たちが集まる夜の街では、感染を恐れることなく、夜な夜な若者が出没する。接待の伴うお店を平気で利用する人も少なくない。札幌市、東京、横浜市、名古屋市、大阪市、福岡市といった大都市部で大きなクラスターが起きている。そういう大都市では、接待の伴う夜のお店が集中している。札幌市のすすきので発生したクラスターは、キャバクラだとの報道だが、実は『おっぱぶ』と呼ばれるいかがわしい風俗店だ。おっぱいパブという濃密なサービスが売り物の、実質的には風俗店だという。

     

    若い年代の人たちが感染して、それを比較的高齢の人たちに移して、重症化させるとか死亡させてしまうこともある。夜の街で感染した人が、職場や家庭、介護施設や育児施設で感染させるというケースも増えている。若い人たちが入院したら、医療サービスを制限される高齢者だって出てくる。どれほど自分たちが社会に対して迷惑をかけているかを自覚すべきであろう。WHOは、若者がコロナ禍を作っていると言っている。こんな時期なのに場所中に幕内力士が、キャバクラに行っていたという報道もされている。

     

    新型コロナウィルス感染を防ぐ新しい生活様式とは、何なのであろうか。少なくても接待を伴う夜の店は、新しい生活様式には馴染まない。コロナウィルスを完全に封じ込めないのだから、これからは共生するというウィズコロナしか方法がない。だとすれば、これからは夜の街遊びは危険であるから止めるべきだ。そもそも、ホストクラブやキャバクラ、風俗店、歓楽街の飲食店、は、生きる上で必要不可欠のものではない。命(健康)と快楽を天秤にかけたら、命を守ることが優先されるのは当然だと言える。

     

    ウィズコロナで生きる上で、娯楽・観光・外食は絶対に必要なものではない。お酒を飲んで歓楽街で遊ぶ人々が、気が大きくなってマスクを外してソーシャルディスタンスを守らずに大声で話し合う姿が報道されている。したたかに酔ってしまうと、本能(欲望)が倫理や規範を凌駕する。お酒とは本来たしなむもので、お酒に飲まれてはならない。ウィズコロナの時代を生きるなら、お酒を提供するお店を利用するのを控えてはどうだろう。こんなことを言うと、飲食業を生業としている方にとっては死活問題だと非難されるかもしれないが、命には代えられないであろう。

     

    快楽産業、娯楽業、観光業で働く人が職を失うとか、サービス業の停滞が経済悪化を招くと心配する人が多い。ウィズコロナの時代において、経済を立て直すためには、まずはコロナの封じ込め、またはコロナが収束することが必要だ。このままで行くと、消費が落ち込んでしまい、娯楽・観光業以外の一般経済まで不景気が続く。全体最適を最優先に考えれば、娯楽・観光業・飲食業などのサービス業の部分最適がある程度制限されるのはやむを得ないだろう。サービス業部門の労働者が第一次産業や第二次産業に流れることで、人手不足が解消されて、生産力が劇的に向上し、経済も回復するという効果も見込める。

     

    観光・娯楽・飲食産業を犠牲にして、全体の生活や経済を守るという意味ではない。ウィズコロナに相応しい娯楽・観光・飲食の在り方をみんなで考えてほしいということだ。会食・外食がすべて危険な訳ではない。換気をしっかりしてあらゆる感染対策をしたお店であれば、危険性は低い。お酒をある程度まで制限した会食なら安全である。外気をしっかりと取り入れる空気調和設備を整えたホテル・旅館なら比較的安心だろう。一組だけを受け入れるようなグリーンツーリズム(農家民宿など)も安心して利用できる。欲望をある程度我慢したり制限したりするストイックな生き方こそが、ウィズコロナの時代に相応しいのではないだろうか。

    アダルトチルドレンの原因とその克服

    アダルトチルドレン(AC)という言葉が盛んに言われ始めたのは、今から15年以上前のことだ。ところが、最近またACという言葉がネット上で話題になることが多い。自らがACだとカミングアウトしている人が増えたのである。ACという言葉が最初に日本で言われた時は、自分のことをACだと言われるのは恥だと思う人が殆どであった。しかし今は、時代が変わったのであろうか、自らACだと認め受け容れたほうが、周りの人々も理解を示すし、生きづらさの原因がACだからと認識することで、気が楽になるのかもしれない。

     

    ACというのは、正式な精神疾患名ではない。あくまでもパーソナリティの偏りのことをいう。ACによる二次的症状によりメンタル疾患があれば、医学的治療の対象となる。ACだけでは治療が受けられない。しかし、強烈な生きづらさを抱えるが故に、自殺やひきこもりになってしまうケースも多い。ACの原因は、養育者からの虐待や育児放棄、毒親による子育て、機能不全家庭、アルコール依存症を初めとする依存症の親、本人の遺伝的体質などと言われている。確かに、そういった要因があるものの、本当の原因は愛着障害にありそうだ。

     

    ACの方々に共通しているのは、親との関係性が少し歪んでいるという点である。当事者と親たちは、良好な関係だと思っているケースであったとしても、安定した良好な愛着が形成されていないことが多い。つまり、親との愛着が傷ついていたり不安定化したりしているケースが殆どである。そして、親の虐待、依存症の親、機能不全家族、毒親でなかったとしても、子どもがACになってしまうことが起きている。そして、HSP(ハイリィセンシティブパーソン)の症状を抱えていることが多いのも特徴である。

     

    ACを克服するのは、非常に難しいと言われている。ACは病気ではなくてパーソナリティ障害の症状を呈しているのだから、医学的なアプローチや治療が功を奏しないのは当たり前である。勿論、愛着障害も癒すことが困難である。どちらにしてもACを完治させるということが難しい。しかし、愛着障害を和ましたり癒したりすれば、ACの症状も軽くなると思われる。ACになる要因や愛着障害を起こす原因が親との関係性にあるのだから、親に対するアプローチや支援が不可能であるなら、ACを癒すことが出来なくなる。

     

    確かに、親へのアプローチが可能ならば、愛着障害を癒してACを乗り越えることも可能であろう。しかし、我が子に愛着障害を起こしてしまっている母親に愛着アプローチをするのは、非常に難しい。悪気があってそうしている訳ではなくて、一所懸命に子育てしての結果なのだから、自ら気づき変わることをしたがらない。支援者が、母親に原因があると主張すればするほど、自分自身を守るために頑なになるのは当然だ。ましてや、その母親が高齢になっていたら、益々アプローチの困難度を増してしまう。

     

    ACの当事者が自らの愛着障害を癒して、ACを乗り越えるしかないのであろうか。それは不可能ではないし、実際にACを自分の努力だけで克服した人も居ない訳ではない。さらには、素晴らしい伴侶に恵まれて、ACが癒される人も存在する。しかし、そんなケースは本当に稀なことでしかない。不思議なことに、ACを抱えている人は、ACの伴侶を選んでしまうことが多い。それ故に、機能不全家族となってしまうことも少なくない。愛着障害が世代間連鎖するのと同じように、ACも世代間で引き継がれてしてしまう。

     

    ACを克服するには、やはり誰かのサポートや援助が必要だと思われる。それも、けっして支援する姿勢を変えずに、一定の支援と見守りをする必要があるし、けっして見捨てないという態度も求められる。つまり、安全基地としての機能を発揮し続ける人物が必要なのである。それは、医師、カウンセラー、セラピスト、でもいいし、親族や友人でもかまわない。ACの当事者は支援者を疑ってかかり、試し行動を何度もするので注意が必要だ。しかも、支配と制御などの介入を嫌がるので、けっして干渉をしないで共感的メンタライジングを発揮できる支援者でなければならない。そうした熟練した支援者なら、ACを乗り越えられる。

     

    ※自分が明らかにアダルトチルドレンだと認識していて、生きづらさを抱えている方は、イスキアの郷しらかわにご相談ください。または、イスキアの郷しらかわで数日お過ごしされることをお勧めします。ACになってしまった本当の原因を知り、ACをどのようにしたら乗り越えることが解ると、気持ちが楽になり前向きになります。お問い合わせフォームからお申込みください。

    新型コロナ感染症の後遺症が恐ろしい

    新型コロナウィルス感染症が止まらない。コロナ感染症は、風邪みたいなものであって、インフルエンザよりも怖くないと主張する一部の専門家もいる。確かに日本での感染症は重篤になる人の割合も少ないし、死亡率も世界からみると極めて低い。若年層においては、重症化することがないからと、平気で夜の街関連のお店に行く人も多い。ところが、ここに来てこのコロナ感染症の怖い後遺症についての報告が相次いでされている。重い後遺症で長く苦しんでいる若者が少なくないし、社会復帰できない人もかなり多くいるという。

     

    新型コロナウィルス感染症の実態については、まだまだ解らない部分が多い。特効薬も見つかっていないし、ワクチンだって開発が極めて難しいし、実用化には程遠い。そんな中で、感染して治癒した人の中から、後遺症で苦しんでいる人たちの声が、ようやくマスコミで取り上げられてきている。日本の厚労省もようやく重い腰を上げ初め、来月から後遺症の実態調査に着手するというニュースが流れた。疲労感、息苦しさ、咳、頭痛、胸部痛、味覚障害、嗅覚障害、食不振、筋肉痛などの深刻な症状が長く残存すると報告されている。

     

    ではどのくらいの感染後の後遺症が残るのかというと、残念ながら日本ではまだ統計調査実績がない。イタリアでの調査によると、まったく後遺症が残らないと回答した人は、わずか12.6%に過ぎないという調査結果がある。つまり、87%もの割合で後遺症があるという恐ろしい調査結果が出ているのである。新型コロナ感染症は単なる風邪やインフルエンザみたいなものだと強弁する専門家がいるが、風邪やインフルエンザでこれだけの後遺症が残るケースはあり得ない。つまり、この新型コロナ感染症は、後遺症という点で極めて危険な疾病なのである。

     

    それでは何故、この新型コロナウィルス感染症の後遺症がこんなにも多いのかというと、いろんな原因が考えられている。新型コロナウィルスが、治った後も体内に残存していて、それが後遺症を引き起こしていると考えられている。また、この重症感染症に対応して免疫システムが暴走した為に、免疫システムが変化してしまったと考える専門家もいる。ウィルスが残存しているという説は考えにくいし、免疫系の暴走説が正しいのではないかとみられる。副交感神経系(免疫系)の暴走が影響していると考えられる。

     

    自律神経というのは、交感神経と副交感神経の二つから出来ていて、このバランスが崩れることで病気になると考えられている。交感神経が活性化し過ぎて、副交感神経が後退してしまい、免疫力が落ちるというように以前は考えられていた。ところが、そのように単純ではないということが判明した。免疫学で著名な安保徹先生は、副交感神経のうち、獲得した新免疫システムが働いているうちは、免疫は正常に働くと主張されている。ところが重症の感染症を起こすと、新免疫システムは破綻して、古い免疫システムが働いてしまうらしい。これが、免疫の暴走と考えられている。自己免疫疾患の発症も同様である。

     

    最新の医学理論が、この免疫システムの証明を後押ししてくれている。それは、ポリヴェーガル理論である。副交感神経の約8割は、迷走神経である。この迷走神経には、背側迷走神経と腹側迷走神経がある。獲得した新免疫システムというのは、腹側迷走神経がその役割を担っている。暴走してしまう旧免疫システムは、背側迷走神経が関係している。命の危険に関わるような重症感染症に陥ると、腹側迷走神経の働きを抑えて、背側迷走神経が暴走してしまい、免疫システムが正常に働かくなってしまうと考えられている。

     

    故に大事なのは、新型コロナ感染症に感染しないことである。もし感染したとしても、重症化しないようにすることが大切である。その際に、感染しやすい人かしにくい人、または重症化する人かしない人かは、メンタル面が大きく影響しているのではないだろうか。病は気からというように、元々病気になりやすいかどうかも、メンタル面の影響が大きい。それは、その人の物事に対する認知や考え方が影響を及ぼしている。いつもくよくよしたり自分を責めたりする人、自分を犠牲者とか被害者にしたがる傾向の人は、コロナに感染しやすいし重症化して後遺症になりやすい。つまり、コロナを寄せ付けない為には、自尊感情を高め、自己否定しない生き方をしなくてはならないということだ。

     

    ※何故に自分は自尊感情が低くて自己肯定感を持てないのかと、悩んで苦しんでいらっしゃる方は、「イスキアの郷しらかわ」にご相談ください。いつも、自分を犠牲者や被害者にしてしまい、いつも過去を悔やんでくよくよしてしまうし、悪い結果を引き寄せてしまう自分を変えたいと思っている方は、「問い合わせ・相談」フォームからご相談ください。

    SNS上で誹謗中傷をする訳

    SNS上で執拗に誹謗中傷をされて、自殺をしてしまった著名人の痛ましいニュースが先日流れていた。こういう悲惨なケースは日本だけでなく、隣国の韓国でも起きている。世界的にみても、著名人だけでなく一般人もSNS上で誹謗中傷されるケースは少なくない。自殺として取り扱われているものの、実質的には殺人と言っても過言ではないだろう。こういう誹謗中傷のコメントやリツィートをする人間というのは、まったく反省をしないだろうし、自分は正義を実行しているに過ぎないと思っているから始末に負えない。

     

    このような誹謗中傷を繰り返して実行している輩は、想像している以上に多い。しかも、自分では悪意を持って誹謗中傷をしているという自覚がないので、どんどんエスカレートしていく。SNSにおいて批判的なコメントをされたことを、自分も何度も経験している。知人・友人も嫌な目に遭っている。中には批判的なコメントを何度もされたことでSNSを止めてしまった人もいるし、メンタルを病んでしまった人さえいる。自分は匿名という安心安全な場所に居て、他人を一方的に傷つけるなんて、なんと卑劣なふるまいであろうか。

     

    そもそもSNSというのは、個人の日常を日記としてアップしたり一個人の意見・感想を述べたりする場であり、社会全体に何かを主張している訳ではない。勿論、大統領とか首相などの著名人による発信であるならば、それを政治的に利用しているのだから、批判や否定をされることは織り込み済みなので、仕方ないと言えよう。しかし、あくまでも一般人としての発信で、特定の人を傷つけるような内容でないのなら、取り立てて非難したり否定したりする必要もない。考えが違うなら、こんな意見もあるんだなと、スルーすべきである。

     

    ところが、あくまでも私的な日記や意見発信に対して、批判的なコメントをするばかりか、滔々と自分の反対意見を述べる人もいる。さらには、性格や人格までも否定的して攻撃する輩もいる。自分の意見を述べたいのであれば、自分のサイトで発信すべきであり、他人のサイトでコメントとして意見を述べるべきではない。こういう人間に限って、自分は否定されることを極端に嫌う。だから、怖くて自分のサイトでは、差支えのない情報発信しかしないのである。中には、自分のSNSではまったく情報発信しない臆病者もいる。

     

    このような他人のSNS上で誹謗中傷を繰り返すような人間は、自己愛性のパーソナリティ障害を持つと思われる。他人を否定したり貶めたりするコメントをして、自分自身を肯定したり優越感を持ったりして自己満足するのである。自分は有能な人間であり、誰よりも優れていると思いたがる傾向にある。あらゆることに精通していて、自分は何でもできるという自己万能感に溢れている。そして、自分は特別な存在だから、何でも許されると勘違いしている。だから、人を傷つけるようなことを平気で行うのである。

     

    それでは、何故に自己愛性のパーソナリティ障害の症状を持ってしまったのかというと、根底には自己肯定感や自尊感情の欠如があるのだ。つまり、自分では気づいていない強烈な自己否定感を抱えているのである。自己愛感情が欠落しているのである。だから自分を必要以上に肯定したがるのだ。それもかなりひねくれていて、自分の自己否定感を誤魔化すために、他人を蹴落とす行為をするのである。そんなことをしても、真の自尊感情は高まらないのに、他人のSNS上で誹謗中傷を繰り返して、自己を肯定したがるという複雑な心理状態を示すのだ。実に困った人物なのである。

     

    どうして自己愛性のパーソナリティ障害を持つに至ったかというと、根底に『愛着障害』を抱えているからである。両親特に母親から、まるごとありのままに愛されるという体験を積んでいないのである。つまり、自尊感情や自己肯定感を持てないのは、母親との良好な愛着が結ばれていないからなのだ。ある意味、犠牲者でもある。とは言いながら、自分の愛着障害と自己愛性のパーソナリティ障害に気付かないと、一生嫌われ者で生きることになる。他人のSNS上で批判的なコメントをしたがる人は、自分の異常さに気付いてほしい。そして、自分自身の愛着障害を癒して、他人を誹謗中傷することを止めてほしいものである。

    他力本願で生きてもよいではないか

    他力本願で生きて行ってはいけない。あくまでも自力本願で生きなければならないと思っている人が、世の中には多いのではなかろうか。ここで言うところの他力本願とは、浄土真宗の教義で言えば、まったくの誤解であるとされる。つまり、他力とは他人による支援や助けではなく、阿弥陀仏の法力のことであり、本願とは衆人の悟りを導くことである。他力本願とは、人の助けで自分の欲望や願いを叶えることではないのである。対比して言われている自力本願という言葉も、仏教ではありえない言葉ということになる。

     

    この他力本願という仏教本来の意味を否定する訳ではないが、敢えてこの他力本願という意味をもう少し緩く捉えてみたい。そして、他力本願で生きてみても良いことだと思えるようになり、それが少しでも生きづらさの解消につながることが出来たらと思う。他力本願という言葉の仏教的な意味とは少し違うかもしれないが、人々を幸せにすることが出来たならば、それもまた阿弥陀如来による慈悲の現れと言えよう。他力に頼って生きてはならないと、小さい頃から思い込まされ、甘えることを許されなかった人を救えるかもしれない。

     

    人間は他人の力を借りずに生きるべきで、自立して生きることが大切だと、小さい頃から親から教え込まれる人が殆どであろう。祖父母や周りの家族も同じように、人に頼るなと教えるし、学校でも教師が依存せず自立しろと指導する。小さい頃から「依存心をなくせ、甘えるな」と言われ続けて育てられると、他人に頼ることは悪だと思い込んでしまうのだ。だから、他力本願は間違っていて、自力本願が正しいのだと勘違いするのである。意味をはき違えたとは言いながら、あまりにも他人に頼らないで生きるというのは、とても辛い生き方である。

     

    何故ならば、そもそも人間というのはお互いが支え合って生きるように生まれてきているからである。そして、乳幼児期には一人で生きられないから、母親とか家族からの様々な支援で生かされる経験をして、気づきや学びを得るのである。そもそも人間は一人では生きていけない生物なのだ。システム論で言えば、人間というシステムは他人との関係性によって正常な活動が約束されている。その関係性を否定して、人に頼ることなく自力本願で生きろというのが本来無理なことなのである。

     

    とは言いながら、あまりにも人に頼り過ぎることは好結果を生まないのは当然である。また、他人の力を借りても良いとは言っても、親、教師、上司から行き過ぎた介入や干渉を受け過ぎてしまうと、自立できなくなることも多々ある。人を育てるとか指導する立場にある者は、要支援者に対して支配したりコントロールしたりしてはならないのである。そして、育てられたり支援を受けたりする者は、自分の出来る限りの努力をし尽くして、それでも上手く行かない時に、他人の助言や援助を求めてもいいのである。

     

    そこで大事なことは、結果や速さだけを追い求めてはならないということである。結果や速さを気にし過ぎてしまい、ついつい努力を中途半端なものにしてしまい、駄目だったと諦めてしまうことがよくある。結果よりも、途中でどのような努力をしたかが大切であろう。目標を達成するためのプロセスが問われるのである。そのプロセスにおいて、出来得る限りの精進をし尽くしたのであれば、たとえ目標に届かなかったとしても、その努力は無駄にはならないし、大いなる自己成長は遂げられた筈である。

     

    仏教における『他力本願』も、人事を尽くして天命を待つという意味もあるように考える。仕事においても地域活動や家事育児の場でも、結果だけを追い求めるのではなく、自分にできる精一杯の努力を積み重ねれば、その時の結果はたとえ及ばずとも、いつか必ず花開く時があるのだ。そして、自分の力の限界を感じたら、素直に周りの人々に助言や助けを借りてもよいと思われる。他力本願とは、本来そういう意味ではないだろうか。すべての努力をやり尽くして、その結果はただ阿弥陀仏に委ねるというのは、そんな意味もあろうかと思う。周りの人々の助言や支援は、阿弥陀仏による慈悲と捉えても差し支えないと思うのである。

    ※あらゆる限りの努力を自分でし尽くしても、どうしようもない状況から抜け出せない時は、周りの人に助けを求めてもいいと思います。もし、周りに助けてくれる人がいない時は、「イスキアの郷しらかわ」を頼ってみてください。精一杯のサポートをさせてもらいます。八方塞がりの時には、一時的であっても環境を変え、イスキアの郷しらかわにいらして数日過ごしてみてください。きっと、出口が見つかります。他力本願でもよいと思います。問い合わせフォームからご相談ください。

    睡眠障害を克服する方法

    日本人の5人に1人は睡眠障害を抱えていると言われている。実際は、それ以上の人々が何らかの睡眠に対する問題を抱えていて、おそらくは日本人3分の1は良好な睡眠が取れていないのではないかと見られる。そして、睡眠障害がより深刻化していくと、やがては重篤なメンタル不調になってしまう可能性はかなり高いと思われる。特にうつ病などの気分障害と睡眠障害の関連性は非常に高く、メンタル疾患を抱える殆どの患者さんは睡眠薬を処方されている現実がある。メンタル不調は睡眠障害から始まると言われている所以である。

    不眠は、心配事や悩み事を抱えて起きると言われている。つまり、何らかのストレスが引き金になって起きることが多い。それも、単独のストレスだけでなく、職場と家庭の両方にストレスを抱えてしまった時や、家庭内だけでも複数のストレスを受けた時に、睡眠障害が起きやすい。人間の脳は、ある程度のストレスには対応できるのだが、自分の力ではどうしようもない状況に追い込まれ、八方塞がりの状況になってしまうと、睡眠障害を起こしてしまうようだ。一旦そうなってしまうと、睡眠障害からは容易に抜け出せない。

    不眠を治そうとして、市販の睡眠導入剤や睡眠薬を飲んでみるのだが、ストレスによる不眠にはあまり効果がないことが多い。医療機関を受診して薬を処方されても、同様の結果であることが多い。多少の睡眠は取れたとしても、熟睡感は得られにくい。脳を無理やり薬によって麻痺させているだけだから、十分に眠ったという感覚が持てないのは当然である。医師は眠れないと訴える患者に、どんどん強い薬を処方する。でも、ストレスを解消しないで単に対症療法をするだけだから、不眠が解消されることはないであろう。

    それじゃ、睡眠障害は治らないのかというと、そうではない。適切な処置や対応をすれば、睡眠障害を克服できる可能性が高い。まずは不眠の元になっているストレスの解消である。これは、自分の努力で解決できるものもあれば、どうにもならないストレスもある。不眠の原因になっているストレスは、自分がいくら努力しても解決が難しいものである。だからこそ、不眠になってしまうのだ。それも、多重ストレスであって、トラウマ化しつつあることが多い。だから、脳が対処仕切れなくて、異常興奮になり不眠が起きているのである。

    例えば、こんなケースが考えられる。発達障害(自閉症スペクトラム=ASD)を抱えている夫と暮らしている妻がいたとしよう。妻には、子どもがいる。一家の収入の大半は夫に依存している。夫とコミュニケーションがうまく取れないばかりか、夫は言葉や態度のDVで妻を日常的に苦しめる。夫婦仲は最悪で、子どもは父親を嫌っている。別れたいと思うのだが、経済的な困窮が予想され、子どもを抱えてシングルマザーとして生きていくことに不安があり、離婚に踏み切れない。夫のDVが恐怖であり、将来の不安もあり不眠になっている。

    このような八方塞がりの状況になってしまうと、ストレスはトラウマ化してしまい、身体と心は過緊張になる。こうなると背側迷走神経の暴走が起きて、身体はフリーズ状態になってしまう。自律神経はアンバランスを起こし、コルチゾールやアドレナリンが放出される。筋肉は過緊張から拘縮を起こしてしまい、血流障害などの循環障害を起こして、血管内に乳酸などの老廃物が溜まる。身体のいたるところでしびれや痛みを発症し、眠れなくなってしまうのである。この状況になると、投薬治療やカウンセリングだけでは不眠症を根治できなくなる。

    何故、睡眠障害が根治出来なくなるかというと、背側迷走神経の暴走が起きてしまい、身体がフリーズを起こしているからである。一旦、人間はこのフリーズ状態に陥ると、自分の力ではどうしようもない。誰かの支援が必要になる。第三者が安全と絆である「安全基地」を提供してあげると同時に、身体の筋肉緊張を緩めるボディーワークが必要である。そして、トラウマ化してしまったストレスを解消するカウンセリングを同時に行うとさらに効果が高まる。睡眠障害を根治させるには、自然体験や農業体験も効果あるし、適切な運動療法も必要だ。これらの根治療法を複合的に組み合わせることで、睡眠障害を克服できる。

    ※イスキアの郷しらかわでは、睡眠障害を克服する方法をレクチャーしています。身体を緩めるボディーワーク、カウンセリング、運動療法、音楽療法、その他の根治療法の仕方をお教えしています。また、自然体験や農業体験も提供・指導しています。問い合わせフォームから相談・申し込みをしてください。

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      面倒くさいと言うのが大嫌い

      ああ、面倒くさいなあと、誰でも思うことがあるに違いない。もう少し努力する余地はあったとしても、忙しさや困難さに心が挫けてしまい、まあこれぐらいでいいかと面倒くさいことから逃げてしまうことはよくあることだ。面倒くさいというのが口癖になっている人もいる。ところが、面倒くさいと言わないことを人生のモットーにしている人がいる。その人とは、森のイスキアという施設で多くの人々を救った佐藤初女さんである。2016年2月に亡くなられたので、もう実際に会うことは出来ないが、まだ多くのファンを持つ。

      佐藤初女さんは、青森県弘前市の岩木山のふもとで、心身を病んでしまわれた方々を森のイスキアという宿泊施設に迎え入れて、黙って話を聞いて共感すると共に、心尽くしの食事を提供してきた。その食事はご馳走などではなくて、ごく普通の田舎料理である。その食事を作る際に、けっして手抜きをすることはなかった。食材を選ぶ時も、切ったり皮をむいたり、さらには煮たり焼いたりする際にも、妥協をすることはなかったという。だから、面倒くさいと言わないことが佐藤初女さんのポリシーだったのである。

      何故、面倒くさいと言わないかというと、その料理を食べる人が喜んでいる顔を思い浮かべながら作っているからである。だから、何をするときにも妥協を許さなかったのである。佐藤初女さんの料理は、食べる人の感動を呼んだのだ。少しでも面倒くさいと思って料理を作ったら、その料理は死んだも同然である。人の心を癒そうとする際に、少しでも面倒だと思い妥協してしまったら、その人の心が癒されることはないだけでなく、自分が見捨てられたと思い心が傷つく。それ故に、佐藤初女さんは面倒くさいと言わなかったのだ。

      自分のために何かをする時なら、面倒くさいと思って手抜きするのは許される。誰かの幸福や豊かさに寄与する為に何かの行為をやっている時は、絶対に手抜きは許されないのである。手抜きする気持ちが、その貴重な行為を台無しにしてしまい兼ねないのだ。そのことを誰よりも解っていたからこそ、佐藤初女さんは面倒くさいと言うのが嫌いだと、自分自身を戒めていたのではあるまいか。そんな佐藤初女さんが握ったおむすびだからこそ、人の命を救ったのである。奇跡のおむすびと言われた所以である。

      佐藤初女さんは、2016年2月に永眠なさってしまわれた。その後、弘前にある森のイスキアの扉は開かれていない。あれほど多くの悩み苦しんでいる方々を救われていた佐藤初女さんの逝去を悔やんでいらっしゃる方は多いに違いない。今でも、多くのファンが第二第三の佐藤初女さんを望んでいらっしゃるのではないだろうか。私は一度だけ佐藤初女さんにお会いしたことがある。弘前の森のイスキアを尋ねて、お話をさせてもらった。いつかは森のイスキアのような施設を、白河に作るということをお約束してきた。ようやく3年前にその約束を果たせることが出来た。

      イスキアの郷しらかわという癒しの施設を作り、イスキアの名前を名乗らせてもらっている。佐藤初女さんのお名前を汚さないように、面倒くさいという言葉を封印して運営させてもらっている。農家民宿の料理を担当しているスタッフも、けっして手抜きせず全身全霊を傾けて料理をしてくれているし、農業体験をサポートしてくれているスタッフも細心の注意を払いながら寄り添ってくれている。自然体験の支援をしたり相談をしたりする私も、面倒くさいという思いを一切捨ててクライアントに向き合っている。

      勿論、佐藤初女さんのご活躍には、まだまだ足元にも及ばないことは承知している。だからこそ、少しでも佐藤初女さんに近づこうとして、自分自身を磨き続け進化させたいと思っている。出張ケアをする際には、なるべく初女さんのおむすびを作って手作りのおかずを持参するようにしている。また、レンタルルームを利用してケアする際にも、昼食を用意させてもらっている。それらのおむすびや料理を作る際には、けっして面倒くさいとは言わず、あらん限り心を込めて調理させてもらっている。面倒くさいということが嫌いだということが、口癖になるまで精進したいと思っている。